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第46話 社内チョコ配布廃止命令を聞かされる

晴香の告白を受けたあの日から数日経って、姉貴から連絡がきた。

晴香は少しずつだが、学校に通い始めたようだ。

最初は教室には入れず、保健室通いだったが、最近では教室で受けられる授業も増えてきたらしい。

担任からも定期的な報告を受けているらしく、ひとまず少しずつだが晴香も日常を取り戻しているようだった。

俺はそれを聞いて安心したものの、まだ心の中にはどうしようもない罪悪感が残っていた。


いつものように会社に行くと、珍しく沖田が始業10分前に出勤していた。

何事かと沖田を凝視すると、肩に『Coostco』というロゴの入った巨大な手提げバッグが掛けられているのが見えた。

沖田の顔は、いつもより心なしか鼻の穴がそわそわと膨らんでいるように見えた。

俺はそれを眺めながら、もうそんな季節になったかとしみじみと感じていた。

隣にいた近藤さんも気が付いたようで、半笑いで沖田に話しかけた。

「お前も懲りねぇなぁ。そんなでっかいバッグ、どうするんだよ。毎年、中身は義理チョコ一個だろ?」

そうなのだ。

明日はバレンタインデー。

男子にとって貴重な『女子から告白をしてくる日』なのだが、最近はそれも下火になっているようで盛り上がりは少ない。

毎年貰えるのは、女子社員全員で用意した義理チョコと姉貴と晴香の合作チョコレートのみだ。

俺もこのイベントを忘れているわけではないが、沖田のように、まるで明日が人生最大の勝負日であるかのように意気込んでいるわけでもなかった。

しかし、それ以上のショッキングな事が、社内に入った沖田に告げられた。

それは事務員の並木が沖田の毎年恒例のチョコレート持ち帰り巨大バッグを見た時だった。

その異常に長いネイルを施した指でバッグを指しながら、並木は特に表情を変えることなく、あっさりと告げた。

「あ、今年から義理チョコ配布制度、廃止されたんで」

そもそも義理チョコを配るのは制度だったのかと改めて認識し、後ろにいた沖田に目をやった。

まるで雷に打たれたかのように固まり、数秒後に魂が抜けたような声で「嘘だろう」と呟いた後、沖田は膝を床に付き、ドーハの悲劇のように天を仰いで嘆いていた。

なんだよ、この光景……。

沖田の隣にいた近藤さんは、どこか楽しそうな笑みを浮かべながらそんな沖田の肩を叩いた。

「でも、別に個人で渡すのは問題ないみたいなんで、運が良ければもらえるんじゃないですか?そもそも、廃止命令を出したのは芹沢課長だし」

と、並木はあっさりと答える。

「芹沢課長が?」

俺は驚いて、つい聞き返してしまった。

芹沢課長は、俺たち営業部の課長だ。

以前、近藤さんが野球ネタのコミュハラを受けていると話していた、あの課長だ。

ついでに俺の報告書を秒で突き返してくるのも、芹沢課長だ。

なぜ、貰う側の芹沢課長が廃止命令を出したのか最初は疑問だった。

しかしよく考えれば、バレンタインデーの後にはホワイトデーというイベントがあり、チョコを貰った男子は強制的にお返しをしなければならない制度がある。

どんなチョコだろうと、一般人で特にモテない男子は、貰わないという選択もできない。

貰った以上はそれ以上の物でお返しをしなければならないという、なんとも残酷なイベントを廃止しようという意見が男子からあってもおかしくなかった。

ましてや、課長ともなれば、俺たちよりもずっといい物を返してきたのだろう。

廃止したくなる気持ちも理解できた。

しかし、その俺の予測は大幅にずれていたようだ。

「そうそう。毎年、うちの会社の義理チョコ作ってんの、芹沢課長ですからね」

並木の言葉に改めて男子一同衝撃を受けていた。

それは初耳だ……。

女子社員が毎年、男性社員に配っている義理チョコは、女子社員のみんなで、もしくは特定の女子社員が作ってくれているものだと思っていた。

うちの義理チョコは手作りなんて豪華だな、なんて思っていたら、まさかの芹沢課長の手作りだったとは。

そりゃ、廃止したくなるのも当然だろう。

というか、毎年俺はあれを女子社員が作ったと思い、ありがたく食べていたのだが、まさかそこに入っていたのが課長の愛情だったとは知らなかった。

すこぶるうまかったけれど。

「ま、いいんじゃねぇの?俺らだってなきゃないでいいし、お返ししなくて楽だからよぉ」

近藤さんは腕を頭の後ろに回して、気楽そうに答えた。

近藤さんはそれでいいと思う。

けれども、沖田はそうでもなさそうだ。

さっきの並木の話を聞いたのか聞けなかったのかは分からないが、いつもなら始業まで煩い沖田が今日は黙って椅子に座り、俯いている。

ここまでくると本当に憐れだった。



その日は、帰りに市子たちに晴香の件でお詫びとお礼を言って奢る約束をしていた。

2人は待ち合わせの駅に時間通りに来ていて、向かった先が大手チェーンのドーナツ屋だと知ると里奈は露骨に不満な表情を見せた。

しかし、いざ商品を選ぶときには季節限定の割と高価なドーナツを遠慮もなく二つも選びやがった。

おかげで機嫌を持ち直してくれたのでよいとしよう。

市子の方は里奈とは真逆で、定番のドーナツを一つ選ぶだけで、後は飲み物を一つだけ選んだ。

そんな市子を見て、俺は話しかける。

「里奈みたいにもっと好きなのを選んでいいんだぞ。それともダイエット中か?」

俺の言葉に市子はむっとした表情を見せる。

どうやら余計な一言を言ってしまったようだ。

「そうじゃないけど、あんまり人に奢られるの、好きじゃないのよ。なんか、買収されているみたいで」

「買収ってお前……」

またもや絶妙な言葉のチョイスで返ってくる。


そして、俺たちは四人掛けのテーブルについて、それぞれのドーナツを食べた。

「それで、晴香ちゃんはもう大丈夫なの?」

市子は心配そうに俺に尋ねてきた。

俺も小さく頷く。

「まだ元通りってわけにはいかないけど、少しずつ通えるようにはなっているらしい。お前たちには本当に心配かけたな」

市子は大丈夫と首を振る。

里奈はその話を聞きながら、ドーナツを皿に戻して、何かを思い出したように答えた。

「うちは羨ましいけどな、晴香ちゃん」

その予想外の言葉に俺は険しい表情になった。

「なんでだよ。晴香は今も苦しんでいるんだぞ」

「それは分かってるよ。ただ、晴香ちゃんには敏郎やお母さんという味方がいるんだなって思って。それに逃げられる場所もあるでしょ?うちにはさ、そういうのなかったから。登校の時間になったら強制的に家から追い出されるし、近所でサボっていたら通報される。お金もないからさ、遠くにもいけないし。結局、うちには学校しか行き場がなかったんだよね。うち、こういう性格でしょ?だから、保健室に行きたいって言っても、大槻さんは大丈夫だからって追い出されちゃうんだよね。誰かに守られるのって、きっと心強いんだろうな……」

想像以上の里奈の重い言葉に俺は言葉を失った。

「里奈……」

市子も申し訳なさそうな顔で里奈を見つめた。

その重くなった雰囲気に気づいたのか、里奈は慌てて話題を変えようと俺の皿に乗ったドーナツに注目した。

「そ、それより、敏郎って甘いもの嫌いじゃないんだね。食べてるイメージないからさ、苦手だと思っていた」

「苦手?俺、甘いもの結構好きだぞ。ひと昔は、男が甘いものなんてって言われた時代もあったけど、今は案外スイーツ好きな男子も多い気がするな」

その話を聞いて、里奈はへぇと声をあげた。

この会話は一体なんなのだろう。

「そういえば、市子はお菓子作りとかうまいよね。去年のバレンタインもクラス皆にチョコを配ってくれたじゃん?」

急に市子に話題を振られて、市子も驚いた様子だったが、思い出したように頷いた。

「去年はね。どうせ、うちで期待している輩がたくさんいるから。ついでに作っただけ」

「ついででも、すごいよ!うちも今年は挑戦してみようと思ったんだけど、市子みたいにはうまく作れなかったし……」

そう発言した後、里奈は何かに気が付いたのか、急に慌ただしくなった。

「べ、別に意味ないから!去年の市子のチョコを食べて感動して、うちも作りたいなって思っただけだから!深い意味なんてないから!!」

里奈は必死に手を振って訂正する。

俺と市子は訳もわからず、お互いに顔を見合わせた。

バレンタインとは今も変わらず俺の知る女子高生にとっては一大イベントらしい。

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