第45話 晴香と向き合う
こんなことで晴香の問題が解決するとは思っていなかった。
とりあえず、担任教師たちには釘を刺しておいて、晴香が登校できるようになったら責任もって動いてもらおうと思った。
大人が問題が起きることを恐れて躊躇していることなど、子供はすぐに見抜いてしまう。
そうすれば、子供はそれを利用して、自分たちの都合のいい方へ動くだろう。
だからまずは大人が子供に嘗められないように堂々と行動を起こさなきゃならないんだ。
それが難しいことだということぐらい俺にもわかってる。
それでも諦めることだけはしちゃいけないんだ。
だから、俺も逃げずに晴香と向き合おうと思った。
俺は姉貴の家を訪ね、部屋に引きこもっている晴香の部屋のドアを叩いた。
「俺だ。敏郎だ。晴香、少し話がしたい」
俺がドア越しに話しかけると、中でごそごそと音が響いた。
数秒の沈黙の後、くぐもった声が返ってきた。
「……今は誰にも会いたくない」
その言葉に、俺は何も返せなくなってしまった。
晴香が登校拒否になったきっかけを作ったのは俺だ。
会いたくないと思われても仕方がないと思った。
「わかった。なら、ドア越しでいい。俺の話を聞いてくれないか?」
俺は晴香の部屋のドアに向き直って座り込み、声をかけた。
再び沈黙が続いたが、布団から起き上がるかすかな音、そして晴香の小さな声が届いた。
「……うん」
俺はその返事に、ほんの少しだけほっとした。
そして、改めて姿勢を正し、俺は晴香に話しかけた。
「この間は勝手に学校まで迎えに行って悪かった。心配だったなんて言い訳だよな。お前にも見られたくないことがあったと思う。それを土足で踏み込んだんだ。怒るのは当然だと思ったよ」
俺はそう言ってドア越しに頭を下げた。
晴香はそれに対して何も言い返さなかった。
「あんなに晴香の側にいたのに、俺は全然お前の悩みに気づいてやれなかった。何でもわかってるつもりでいて、何にも気づいていないことに気づいた。バカだよな、俺は。ずっとお前のいい父親か兄貴みたいな存在だって信じてたんだから」
晴香が、ぐっと息をのんだのがわかった。
もう理解している。
晴香にとって俺は、ただの優しい叔父でも、単なる家族でもないんだってことを。
「晴香が俺を慕ってくれてることが嬉しかったんだ。学校のことや友達のこと、それに今夢中になってることを何でも話してくれて、すっかり信用されてる気になってた。けどさ、それが俺の甘さだったんだよな。それに対して俺は、お前に何も返せていなかった。ただ、甘やかすことしかしてやれなかったんだ。だから――」
俺が言いかけようとした時、突然、目の前の扉が開いた。
そこには寝間着姿の晴香が座り込んでいた。
その目は微かに潤んでいる。
「私、としちゃんが好き!家族としてじゃなくて、男の人として好きなの。学校では同じクラスの内藤君が好きだって思われてるけど、違うの。私はずっと前からとしちゃんなの。この関係が許されないことも知ってる。としちゃんが私のこと、そういう目で見たことなんて一度もないのも知ってる。でも、好きなんだもん。好きっていう気持ちは嘘つけないよ!」
その言葉に、俺の脳裏を走馬灯のように晴香との思い出が駆け巡った。
生まれたばかりの小さな体。
病院で初めて抱き上げた時の、頼りないほどの軽さ。
おしめを替え、ミルクを温め、小さな体を丁寧に洗いながら、まるで本当の父親のように愛情を注いだ日々。
よちよちと這いずり回り、不安げに立ち上がり、やがて小さな足で歩き出したあの日。
手を繋ぎ、たどたどしい足取りで一緒に歩いた散歩道。
いつしか、太陽のように元気いっぱいに駆け回り、俺を見つけると満面の笑みで抱きついてくる小さな体。
「としちゃん、としちゃん」と何度も呼ぶ、愛らしい声。
その度に、胸が温かくなった。
小学校の入学式に、晴れ着姿を誇らしげに見せに来てくれた日のこと。
卒業式の動画を見て、理由もなく涙が溢れたこと。
中学校への入学を二人でささやかに祝った日のこと。
全てが、俺にとってかけがえのない、晴香との大切な記憶だ。
この温かい時間を、壊したくなかった。
「としちゃん……」
晴香は涙をためた瞳で俺を見つめ、そっと頬に手が触れた。
俺はその手を遮るように掴んで、必死に笑顔を作って答えた。
「……晴香、それは違う。それは恋じゃない」
その言葉を聞いて、晴香は顔色を変え、目を大きく見開いた。
手の震えから感情が流れ込んでくるようだった。
「なんで……、なんでそんなこと言うの?」
晴香の瞳から大粒の涙が流れ落ちる。
晴香が傷つくとわかっていて、俺は話しているのだ。
「「好きって感情は複雑だから、晴香がそう感じてしまったことは仕方がないと思う。けど、俺に向けるその感情は恋じゃないんだ」
晴香はゆっくりと首を横に振った。
心の中で必死に否定しているようだった。
「俺は晴香の血の繋がった家族だ。晴香がこの世に生まれて来てから今までずっと家族として見守ってきた。晴香にとって俺は親とも兄弟とも違う、特別な存在だと思う。けど、それは恋とは呼ばない。ただの家族の愛情なんだ」
晴香はその俺の言葉から逃れるように耳を塞いだ。
「やめて。やめてよ、としちゃん。そんなこと言わないで。私はずっと、ずっととしちゃんが好きだったの。これは家族愛なんかじゃない……!」
「そう思い込ませたいだけなんだ。俺への感情を恋だと信じたいお前がいるんだよ。けど、そうじゃない。きっとお前にも本当の恋を経験したらわかる。だから今は、わかってくれ、晴香……」
俺はそう言って、耳を塞いでいる腕を掴んだ。
卑怯なことを言っているのはわかっている。
晴香のその感情が恋なのか、ただの家族愛なのか、俺にもわからない。
けど、こんな俺への想いを、安易に恋なんて言葉で語ってほしくなかった。
晴香にはこれからたくさんのいい思い出を築いてほしいし、輝かしい青春を送ってほしい。
報われない叔父との恋愛を、晴香の大事な初恋として終わらせたくなかった。
俺からこんな言葉を吐くのは残酷だと思う。
深く傷つけたと思う。
それでも、晴香にはこの恋を、なかったことにしてほしかった。
俺は本当に自分勝手だ。
「やだよ、やだよ、としちゃん。私は、私はとしちゃんが……」
「晴香、ごめん。俺にとってお前はかけがえのない家族なんだ。大事な姪。それ以外にはなれない」
その言葉でついに晴香は言葉を失った。
抑えていた腕を力なく下ろし、崩れるようにその場に座り込んだ。
そのまま顔を覆い、しばらくの間、声を上げて泣いていた。
俺も必死で涙を堪えながら、晴香を見つめていた。
そのうち、様子を伺いに来た姉貴が泣いている晴香に気づき、優しく宥め始めた。
恐らく俺たちの表情を見て、状況を察したのだろう。
晴香の肩を優しく抱き寄せ、部屋の中に促し、ベッドに座らせた。
俺はそれを見届けると、静かに立ち上がって部屋を後にした。
そして、しばらくの間、リビングのソファーで姉貴が降りてくるのを待った。
数分後、姉貴がリビングに入ってきた。
俺のやつれた顔を見て、どこか 悲しそうな笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。晴香、落ち着いたみたいだから」
「悪いな。ただでさえ、落ち込んでいる時だったのに」
俺は姉貴に頭を下げた。
しかし、姉貴はゆっくりと首を横に振った。
「いいのよ。いつかは向き合わないといけないことだったから。今は時間がかかってもいい。晴香と少しずつ、前に進んでいくわ」
彼女はそう言って、俺に微笑んでくれた。
そして、俺が立ち上がり、帰ろうとした時、もう一度姉貴に呼び止められた。
俺はゆっくりと姉貴の方へ振り返った。
「ごめんね。辛い役目をさせちゃって……」
今の姉貴の頭は晴香の心配でいっぱいだろうに、俺にも気遣う優しさを見せてくれた。
俺も必死で笑顔を作って答えた。
「そんなことない。俺は姉貴に感謝しているんだ」
その言葉に、姉貴は顔を上げた。
「家族を作れなかった俺に、温かい家族とはどういうものか教えてくれたのは姉貴だ。俺を姉貴の家族に迎え入れてくれて、ありがとう」
俺がそう伝えると、姉貴は静かに涙を流した。