第41話 晴香のことを姉貴と相談する
俺は全力で晴香を追いかけた。
晴香の足は、俺が思っていたよりずっと速かった。
全力疾走しているつもりなのに、全く追いつかない。
掠れた声で晴香の名前を呼ぶが、彼女は一向に足を緩めてはくれなかった。
そのうち、後ろからついてきた小林にまで抜かされ、小林が晴香に追いつき、肩を掴んだ。
俺はぜいぜいと息を切らしながら、そんな二人に遅れて追いついた。
「晴香、なんで逃げるんだよ」
息を切らしたまま尋ねる。
しかし、晴香は俺から顔をそむけるばかりで、何も答えなかった。
「大槻に怒られたことが、そんなに悲しかったのか?」
里奈の名前を出した瞬間、晴香は瞬時に反応した。
「違うよ!あんな人、関係ない。好き勝手言われてむかついたから逃げただけ。私はとしちゃんと二人でいたかったのに、この人たちが邪魔したんでしょ。どうして、私が嫌がることばかりするのよ!?」
晴香は泣きそうな顔で、俺と小林を睨んでいた。
小林は何も答えず、無表情のまま逃げようとする晴香をただ抑えていた。
俺は小さな溜息をついた。
「……晴香、今日はもう家に帰れ。今日のお前、なんかおかしいぞ。姉貴と何で揉めたかは知らないけど、一旦自分の部屋に戻って、頭を冷やした方がいい。落ち着けば、きっと気分も変わる」
一瞬、晴香が俺の言葉に反抗しようと顔を見たが、すぐに表情を曇らせ、数秒後、小さく頷いた。
きっと今は慣れないことが多すぎて、頭が混乱しているだけだと思った。
「小林、悪い。俺、晴香の荷物を持ってくるから、そこで待っていてくれないか。今、大槻たちにまた会ったら、晴香が拗ねそうだからさ」
「わかりやした」
小林は文句も言わずに受け入れてくれた。
慣れていない小林と二人きりにさせるのは少し気が引けたが、小林ならうまく相手をしてくれるだろうと思った。
それにきっと晴香も、大人の男に抵抗するほど気は大きくないはずだ。
俺は一度家に戻って、晴香の荷物をまとめることにした。
部屋に戻ると、市子と里奈が机の上を片付けていた。
そして、俺の顔を見た瞬間、市子も里奈も気まずそうな顔をした。
「……あ、あの、ごめん。うちもちょっと言い過ぎた」
里奈はゆっくり俺に近づいて、頭を下げた。
けれど、これは里奈が悪いんじゃない。
人前でわがままを言い続けた晴香がいけないのだ。
そして、それを注意できない俺にも問題がある。
「気にすんな。あれぐらいお灸をすえなきゃわかんねぇ奴だからな。今日はいい勉強になっただろう」
俺はそう言って、落ち込む里奈の頭を撫でた。
その後ろには、心配そうな表情をした市子が立っている。
「小野も悪いな。せっかく料理持ってきてくれたのに」
「私はいいの。それより、あの子の方が心配。私たちはここを片付けて帰るから、今はあの子の方を気にかけてあげて」
「ありがとう」
俺は市子の好意に素直にお礼を言った。
そして、市子は余った料理を見て俺に尋ねる。
「料理、どうしようか?後で食べるなら、タッパーに詰めて冷蔵庫に入れておくけど」
「おお、それは助かる。俺ももう少しお前の料理を堪能したかったからな」
市子はどこまでも気が利くやつだと思った。
その言葉に反応してか、市子の顔がほんのり色づいた気がしたが、気のせいかもしれない。
俺は晴香の荷物をまとめた後、思い出したように引き出しの中を探り、その中にあったものを市子に投げ渡した。
「小野、これ使え」
急に俺が市子に放り投げたので、市子は慌ててそれをキャッチした。
そして、それを両手で受け止め、覗き込んだ。
「これって……」
「この部屋の合鍵だ。今から晴香を送っていくから、戻るのが何時になるかわからん。お前のことだから、開けたままでは帰れないだろう。帰る時、それを使ってくれ。返すのは今度会った時でいいから」
俺はそう言って部屋を後にしようとした。
そこを市子が必死に呼び留める。
「ちょ、ちょっと待って。いくら何でも合鍵を渡すのは、さすがに不用心じゃない?」
俺が合鍵を渡したことを、市子は驚いているようだった。
この家には盗むようなものはないし、何より市子なら信用できると思った。
「お前なら悪用なんてしないだろう。いろいろ迷惑かけて悪いな」
俺はそう言い残して、部屋を後にした。
市子はまだ納得してはいないようだったが、これ以上晴香たち二人を待たせるわけにはいかない。
急いで晴香の荷物を持って、俺は晴香と小林のいる場所へ向かった。
そして、その日はそのまま晴香を姉貴の家まで送った。
晴香をタクシーに乗せて家まで送り、小林には市子たちと合流するように言った。
小林にもいろいろ迷惑をかけたので、丁重に謝罪すると、小林はいつものように屈託のない笑顔を見せて、問題ないと笑った。
柄は悪いやつだけど、案外いいやつだ。
俺は姉貴に連絡して、晴香を家に帰した後、少しだけ姉貴と話をすることにした。
晴香は家に着いてすぐに自分の部屋に行かせた。
姉貴は困った表情で、俺をリビングまで迎え入れる。
「ほんと、迷惑かけて、ごめんね。あの子、最近、本当に変なのよ」
俺がソファーに座ると、姉貴は頬に掌を当てて、深い息をついた。
「俺も様子がおかしいとは思ったけど、一体何があったんだ?」
俺がそう尋ねても、姉貴は首を横に振るだけだった。
「それが私にもわからないの。あの子、何にも話してくれないし、家に帰ってもすぐに自分の部屋にこもっちゃうでしょ?昨日だって、いつまでも遊んでないで宿題を済ませちゃいなさいって言っただけなのに、激怒して。以前から感情豊かな子ではあったけど、あそこまでではなかった。たぶん、学校で何かあったんだと思うけど……」
姉貴も最後の方は言葉を濁し、何も言えなくなった。
晴香を心配していることは痛いほどわかる。
義兄さんも忙しい人だし、姉貴が一人でなんとかしようとしているのだろうけど、中学生の事情はデリケートなことが多い。
このまま一人で抱え込んでいると、姉貴の方が心をやられてしまいそうだ。
「わかった。俺の方でも晴香と話をしてみるよ。姉貴は知り合いとか学校の先生とかにも尋ねてみてくれないか?何かわかるかもしれない」
「ええ、そうしてみる」
姉貴は素直に頷いて、また沈んだ顔で床を見つめていた。
俺も心配になり、姉貴の肩を優しく叩く。
「義兄さんにも事情を話した方がいい。忙しくて言いづらいのはわかるけど、これ以上姉貴だけで抱えるのはよくない」
「わかってる。ちゃんとあの人にも話すわ。だけど、私以上に晴香と関わっていないあの人が理解するのは難しいと思う。思春期の女の子だしね。男の人には知られたくないこともあると思うわ」
そう言われてしまうと、俺もこれ以上は踏み込みづらい。
しかし、それでも俺は晴香をほっとくことは出来なかった。
晴香に信用されている分、下手なことをして嫌われるのは怖いが、それでも晴香が本格的に追い詰められる前に事情は知っておきたかった。
俺に話せる悩みかどうかはわからない。
それでも、聞けるところまで聞きたいと思った。
「敏郎にまで迷惑かけるつもりはなかったのよ。けど、あの子には家族以外に頼れるのは敏郎だけでしょ?もしかしたら、敏郎にだけは本音を言うんじゃないかって。距離が近すぎる人間より、少し距離のある人の方が話しやすいことだってあると思うの」
姉貴の言うことは理解できる。
俺も晴香ぐらいの年頃の時は、家族になんて悩みを打ち明けられなかった。
近所に住んでいた、顔見知りのおっちゃんの方がよっぽど気楽に話せた。
晴香にとって、俺がそういう立ち位置であればいいのだが。
「俺はいつでも協力するから、遠慮せずに言ってくれ。俺たち、たった二人の家族だろう?」
俺のその言葉に、姉貴はすっと顔を上げ、頬を緩ませた。
俺は最後まで姉貴の味方でいたい。
祖父も死んで、母も死に、一人残された家族なのだから。
同じように俺は、姪の晴香や甥の勇志の味方でもありたかった。
「……ほんと、ごめんね。いつも、ありがとう。本当に敏郎には感謝しているの」
そう言った時の姉貴の目には、涙が溜まっていた。
きっと、姉貴にも俺にはわからない、家族を持つなりの悩みがあるのだろうと思った。