第33話 俺たちの新たな関係性を築く
突き出された手。
救いを求めるような真剣な眼差し。
どれもこれも、昔俺が愛した涼子の姿だった。
俺はその手を見つめる。
今、この手を取ってしまったら、俺たちはどうなってしまうのだろう。
俺の頭には涼子と過ごした八年間の楽しい思い出が蘇っていた。
いつも楽しそうに笑いかけてくれた涼子。
時々、子供のようないたずらなんかを仕掛けてくる子供っぽさも持っていた。
辛くても辛いと言えない、意地っ張りで、その癖、泣き虫で、そこがどうしようもなく可愛かった。
あの時の俺は確かに涼子のことを誰よりも愛していた……。
俺の右手が、涼子に向かってゆっくりと伸びていく。
そして、触れたのは彼女の白い手ではなく、涼子の肩だった。
「こんなことはもうやめにしようぜ、涼子」
想像もしていなかった俺の言葉に、彼女は戸惑いを隠せないでいた。
涼子は震えた声で答える。
「何言ってんの? 何を辞めるっていうの?」
「こんな茶番をだよ。俺たち、この七年間、お互いに全く接点を持とうとしなかったんだぞ。それなのに、今更、なんでなんだよ。お前にも俺がいない七年間があったはずだ。その間、お前は俺のことを一度も忘れなかったって言えるのかよ。今の旦那と結婚して、幸せだった時間もあったんだろう。楽しい時間だって過ごしてきたんだろう。それもこれも全部なかったことにして、昔の男に逃げて、お前はそれで平気なのかよ!」
今の涼子は俺の好きだった時の涼子じゃない気がした。
姿形はあの時のままでも、彼女がもうとっくに俺の知らない誰かになっていたことに気づいてしまった。
俺の知るあいつなら逃げようなんて言わない。
涼子はどうしようもなく真面目で堅物で強情張りで、曲がったことが大っ嫌いな女だったから、不倫なんかする女じゃない。
すると、涼子の瞳からとめどなく涙が溢れた。
微かに嗚咽も聞こえて、涼子は自分の体を抱きしめるように蹲って体を揺らしていた。
俺はそんな涼子に何もしてやれず、ただ立ち尽くしていた。
「平気なんかじゃないよ、ばかぁ。私だって結婚してからの六年間、ずっと頑張ってきたんだよ。あの人のためにいい奥さんになろうともした。子供がなかなかできなかったから、妊活もして、体調崩すことも多くなったけど、子供ができるまでは仕事辞めないって決めてたから、弱音も吐かずにここまで頑張って来たんだよ。でも、私だって耐えられないことだってあるんだよ。もう何もかも投げ出して、逃げたくなることもある。それがいけないことなの?」
涙を流したまま、涼子は俺を睨みつけ、訴え叫んでくる。
俺はそんな涼子の姿を見て、心が締め付けられる気持ちでいっぱいになった。
「一人で頑張んなよ。何のためにお前らは夫婦やってんだ。こういう時に、手を取り合って生きていくのが本当の夫婦じゃないのか? いい奥さんになる?なんだよ、それ。そんなことお前の夫が頼んだのかよ。子供ができるまで仕事辞めない? それはお前が勝手に決めたルールだろう? そんなくだらない理由で自分を雁字搦めにしてどうする。逃げ出す方法、間違えてんだろう? お前が逃げ出すのは、その真面目な自分からだ。ルールを破れないまっすぐな自分を最初に裏切れよ。いい奥さんになんてならなくていいから、旦那にちゃんと甘えられる奥さんになれ。弱音も言えない関係なんて、辛すぎるだけだ……」
俺の言葉がちゃんと涼子に伝わったかは分からない。
彼女は蹲るようにその場でしゃがんで、顔を隠し、声を出し泣き始めた。
「敏郎にはわかんないよぉ。妊活ってすごい大変なんだから。女の人は男の人よりずっとずっと辛いんだからぁ」
俺は、そこからは余計なことを言わずに黙って頷いた。
「それでも赤ちゃん欲しかったから頑張ってたのに、あの人はしんどいなら辞めていいよなんていうから、私、もうわかんなくなっちゃって……。二人の子供でしょ? 二人で決めて、頑張ろうって決めて始めた妊活なのに、どうしてあの人が先に辞めようなんて言うの? 私のこれまでの努力はどうなるのよ!!」
涼子が声を張り上げて叫ぶので、次第に周りの人の目線が集まって来た。
これではまるで俺が泣かせていると誤解される。
明らかに不審な眼差しを向ける人もいた。
俺はひとまず涼子をその場から移動させ、もう少し人の少ない公園の椅子に座らせた。
涼子のハンカチは既に涙でびしょびしょになっていたので、俺の持っていたハンカチを渡す。
「彼が優しいから私を気遣って言ったのはわかってる。だけど、そういう問題じゃないの。辛くてもきつくても、あの人との子供が欲しいから頑張ってきたんじゃん。私はただ、一緒に苦しんでほしいだけ。一緒に分かち合いたいだけだったんだよ。こんなんじゃ、弱音なんて吐けないじゃない……」
涼子の言いたいことも理解できたし、旦那の気持ちもわかる。
俺は結婚したこともないし、子供を作ろうなんて考えたこともないからわからないけど、きっと夫婦生活とは俺が思うよりずっと複雑なのかもしれない。
涼子はなかなか泣き止まなかった。
かなり興奮していたのか、俺たちはしばらくの間、黙ってそこに座っていた。
そして、やっと落ち着いたのか、涙を拭き、鼻をすすりながら、涼子が小さな声で話しかけてきた。
「……ごめん、迷惑かけて」
申し訳なさそうな顔で見つめる涼子の顔を見て、つい笑みが零れてしまった。
そして、そっと涼子の頭を撫でる。
「いちいち謝んなよ。ほんと、お前も律儀な奴だな」
「だって……」
「俺はお前の本音、聞けて良かったって思うぞ。振られてからずっと引っ掛かってたからな。涼子はあの時、なんで結婚する気はないって言ったんじゃなくて、『もう遅い』っていったのかわからなくて、もやもやしてた。だから、今日は知れて、すっきりしたぞ」
俺の言葉に、涼子は不思議そうな顔で見つめてきた。
「敏郎って、鈍いのか鋭いのかわからなくなる時があるよ。人の好意には全然気が付かない癖に、辛そうにしている人の気持ちだけはすぐに察して、寄り添っちゃうんだもん。そんなのルール違反だよ」
「ルール違反って……」
「私のこと、無視することだって出来たのに、馬鹿正直に相手しちゃってさ。ほんと、真面目というか真摯というか……、だから私、敏郎のこと好きになったんだなって思い出した。『攫ってほしい』って言ったのも嘘じゃないよ。敏郎となら、新しい人生もやり直せるかもしれないと本気で思った。けどさ、敏郎の言う通り、こんなの私らしくないよね。ちゃんと彼と向き合って、これからのことを考えなくちゃ。一人で抱えていたって、敏郎じゃないんだからエスパーみたいに察してくれるわけじゃないんだよね」
彼女はそう言って俺に笑いかける。
「俺、エスパーなの?」
呆れながら自分を指さして言うと、涼子は声を出して笑い、「そうかもね」と言った。
涼子が笑った姿を見て、俺は心から安心した。
会いに来た理由に、期待する気持ちがなかったと言えば嘘になる。
けれど、俺にはもう見えていたのだ。
涼子の後ろには夫の存在がいる。
彼の存在無くして今の彼女は語れない。
彼女の嘆きが、ただのその場しのぎであることを理解してしまったのだ。
涼子が言う通り、余計なところばかり気づいてしまう自分が不憫に思う。
もっと鈍感だったら、振られてももう一言突っ込めただろうし、涼子の気持ちなんて考えずに、自分の気持ちを推し進められたのかもしれない。
しかし、それもまた、俺ではない気がした。
「敏郎……。今日はありがとね。思いっきり泣いたら、すっきりした!」
彼女はそう言って、腕を空に伸ばして背伸びをする。
その目線の先には星空が広がっていた。
「私ね、もうちょっと頑張ってみる。彼ともちゃんと話し合ってね。今まで遠慮してたけど、言いたいことはしっかり伝えるよ。夫婦だからね」
「……そうだな」
俺は夫婦ってやつが分からないから、はっきりしたことは言えないが、それがいいと思う。
「敏郎もさ、私の時のように失敗しちゃだめだよ。また、いい人逃しちゃうからさ」
彼女がいたずらっぽく笑い、俺はそれに喝を入れた。
「大きなお世話だ!」
こういう関係の方が俺たちらしい気がする。