第30話 後輩が余計な一言を発する
数秒間、俺たちは見つめ合っていた。
ホテルの前で見つめ合った、あの瞬間とは違う。
もう、涼子が悪酔いして、冗談でこんなことを言っているわけではないとわかった。
掴んだ手が微かに震えている。
涼子自身、らしくないと自覚はしているのだろう。
俺はつい、鼻から笑いが零れた。
それを見た涼子が真っ赤な顔をして怒る。
「ちょっと、なんで笑うのよ!? 私は真剣に――」
「ごめんごめん。なんだっけ。お前への気持ちが残ってるかって話しだっけ?」
俺がそう答えると急に涼子は緊張したのか、真面目な顔をして背筋を伸ばす。
その目には不安と期待が入り混じっていた。
俺はそんな涼子に強烈なデコピンを食らわした。
相当痛かったのか、食らった瞬間、おでこを押さえながらベッドの上で悶えていた。
「ばぁか。そんなもん、とっくになくなったっての。お前から振ったんだぞ? 今更、まだ自分に興味あるかって、都合よすぎだろう?」
「それはそうだけど……」
俺の言葉に、涼子はおでこを抑えたまま、不満そうに答えた。
涼子には言えないけれど、なくなったというのは嘘だ。
少なからず、当時を惜しむ気持ちは俺の中に残されている。
しかし、だからと言って、今後涼子とどうこうなるつもりはない。
こいつにはもう、正式な旦那様がいるのだから。
俺はベッドに転がっていた鞄を、もう一度涼子の膝の上へと投げ渡す。
そして、部屋に干していた生乾きのスーツを持って風呂場に向かった。
「お前も帰る準備をしろ。今度はちゃんとタクシー乗れよ」
涼子にそう言い放ち、風呂場のドアを閉めた瞬間、俺の体中の筋肉は緩み、その場にへたり込んで全身に冷や汗をかいた。
マジで危なかった!!
俺のタングステン級の理性がなければ、あのまま何をしでかしたかわからない。
こういう時に自分が肝っ玉の小さい男で良かったと思う。
俺が着替えて出てくると、涼子は既に出る準備を終えていて、いつもの明るい表情に戻っていた。
俺たちはそのままホテルを出て、大通りで解散する。
タクシー代を払おうとしたが、涼子ははっきりと断った。
「こういうのも、けじめつけないとね。今の私と敏郎は、ただの友達。そうでしょ?」
涼子の言葉に俺は頷くしかなかった。
タクシーが俺たちの前に止まり、涼子が乗り込むと俺に向かって手を振る。
「今日はありがとう。久々に飲めて楽しかった」
「俺も。気を付けて帰れよ」
「うん。じゃ、またね、敏郎」
涼子の返事と共にドアが閉まる。
俺もタクシーが見えなくなるまでの間、手を振り続けた。
帰り道で偶然会って、ほんの数時間しか一緒にいなかったというのに、随分と長く感じた。
しかし、これでもう涼子と会うことはないだろう。
改めて自覚すると、なんだか寂しくも感じる。
しかし、待てよと俺は首を傾げた。
あいつ、「またね」って言ってなかったか?
空耳だと信じることにして、少しずつ寒くなって来た秋夜の町中を生乾きのスーツ姿で、俺は一人寂しく歩いて帰宅した。
それからの俺の生活はかつての寂しい独身生活に戻っていた。
モーニングコールの代わりに耳にするのは、朝番組の爽やかな女子アナウンサーの声。
アイロンもかけ切れていないワイシャツに袖を通し、いつもの入れたてインスタントコーヒーを飲む。
毛が薄くなり始めたと気にする課長のためにも、髭はしっかり剃っておく。
満員電車で距離を置かれないために、全身に消臭スプレーをふりかけた。
別に身近に女性がいなくたって、男には気を使うことがたくさんあるのだ。
いつも通りのルーティンで俺は会社に出勤し、毎度お馴染みの一階自動販売機前で、煙草タイムを始める。
そこで近藤さんと合流し、他愛もない会話を繰り返していた。
そろそろ戻ろうとしたタイミングで、出勤ぎりぎりの沖田が現れる。
挨拶をそこそこに俺たちは二階に上がって、仕事の準備を始めるのだが、その間にも沖田のくだらないモーニングトークが続いていた。
あまりにも恒例過ぎて、最近では朝のラジオでも聞いているように、うまく聞き流せるようになっていた。
しかし、突然、沖田が聞き流せない話を始める。
「そういえば、涼子さん、お元気っすか? あの時の飲み会は楽しかったなぁ。また良かったら、一緒に飲みましょうって声かけておいて下さい!!」
沖田があまりにも元気いっぱいに俺に話しかけるので、近くにいた社員全員が俺の方に目線を向けた。
当然、その中には近藤さんもいた。
近藤さんは沖田の発言した『涼子』という言葉が気になったのか、にやけた顔で俺に近づき、肩を組んできた。
嫌な予感しかしない。
「おいおい、涼子って誰だよ。お前の新しいこれか?」
沖田さんはこっそり俺に小指を立てて見せる。
むしろこのジェスチャー、リバイバルされちゃってる?
俺はなんでもないですよと必死で手を振った。
そもそも、いつの間に沖田は涼子のことを、『涼子さん』と下の名前で呼ぶようになったのだろうか。
「照れんなよ。女っ気の『ん』の字もなかったお前に急に女の名前だろう? 何もなかったわけねぇだろう?」
『ん』の字って、いったい女っ気の『お』の字はどこに消えたのかと聞きたい。
近藤さんはひどく事情を知りたがっていたが、もうすぐ朝礼が始まる。
案の定、課長の朝礼の号令と共に離れてはくれたが、仕事帰りにサウナに強制的に連れていかれることになった。
最近の近藤さんの趣味は、サウナらしく、奥さんには少し残業してくると言いながら銭湯に通い詰めているらしい。
浮気でない分ましだとは思うが、給料明細みたらばれると思う。
俺はひとまず涼子のことは忘れて、仕事に集中することにした。
沖田の朝の言葉を忘れていない人がもう一人いた。
今日はコンスタントに仕事が進み、珍しく報告書も課長の一発合格で提出でき、上機嫌だった俺は、いつも通り給湯室に向かい、会社のまずいコーヒーを入れに来た。
給湯室には大村さんがいて、ちょうど訪問客にお茶を運んだ後だったらしい。
俺はそんな大村さんの姿を見て、爽やかに「ご苦労様です」と声をかけた。
棚から自分専用のマグカップを取り、コーヒーを注ぐ。
注いでいる最中に、給湯室の奥から例の単語が聞こえてきた。
「涼子……」
俺はその言葉にどきっとした。
そして、ゆっくり給湯室の奥に目線を向ける。
そこにはにこやかな笑顔の大村さんが立っていた。
俺も条件反射で笑顔を返す。
「涼子さんって誰ですか?」
あまりにもストレートな質問に、戸惑った。
「涼子は、そのぉ……」
しどろもどろになっていると、さらに突っ込まれる。
「土方さんは涼子って呼び捨てにされていらっしゃるんですね? よほど仲の良い方なんでしょうか?」
声はとても穏やかなのに、視認できない圧がすごい。
元カノですなんて絶対に答えられるはずもなく、慌てて別の答えを考えた。
「あ、姉です。姉が涼子って言うんです!」
嘘です。
姉は聡子と言います。
大村さんもその答えに納得したのか、いつもと変わらぬ雰囲気でそうなんですねと頷く。
「土方さんって、ご姉弟いらっしゃったんですね」
「はい。姉が一人。姉弟水入らずでやってきましたから、今でも仲がいいんですよ」
あははははと笑って誤魔化す。
こんなのは沖田に聞けば一発でばれることだが、今は姉だと思い込ますしかない。
大村さんもあっさり信じたようで、その後は自分にも弟がいるとか、何気ない会話に戻っていた。
どうして俺がここまで彼女に気を使っているのか自分でもよくわからなかったが、彼女に逆らってはいけないと、多分本能で感じ取っているからだと思う。