第29話 元カノといい雰囲気になる
涼子の隣に座った沖田は女性と話すのが嬉しいのか、しつこいくらい彼女に質問していた。
「春日井さんは、どんな男がタイプっすか?」
沖田には涼子に旦那がいると言い聞かせても、お構いなしだった。
涼子は困った顔をしつつも、ゆっくりとした口調で答える。
「うぅん、そうだねぇ、やっぱり優しい人かなぁ」
「まじっすか? 俺、めっちゃ優しいっすよ!」
沖田は調子に乗って答え、それを涼子は、はははと少し枯れた笑いで躱していた。
「後はね、真面目でぇ、誠実でぇ、ちょっと頑固なところはあるけどぉ、すっごい彼女思いな人。だけどね、そういう人って、優柔不断なんだよね。優しすぎてさ、はっきりしないっていうか、それがちょっと寂しいんだよね……」
涼子の言葉が、何だか胸に刺さった。
昔の俺が優柔不断だった所為で、涼子は寂しい思いをさせていた
のだから。
「安心してください、春日井さん! 俺は、優柔不断ではありませんよ。新作のプロテインバーは迷わず、10本買います!!」
いや、そこは悩んでもいいし、10本という単位も意味が分からなかった。
涼子も少し飲みすぎたのか、途中から沖田への返事にも曖昧になって、最後はテーブルに伏して寝てしまった。
こんなに酔っている涼子を初めて見た。
「しかし、二人が知り合いだったとはな」
俺は隣に座るヘンリーと斜め前の沖田を見て、言った。
二人は意外そうな顔で見合う。
「ヘンリーは高校の同級生なんすよ。だからもう、長い付き合いっすね」
一度は、そうなんだと聞き流しそうになったが、何か違和感がした。
ヘンリーが沖田の高校の同級生ってことは、少なくとも高校からは日本にいることになるのでは?
いやいや、それは短期留学の話であって、大人になり改めて語学留学に来ている可能性だってある。
一度頭を整理した後、作り笑顔の俺はヘンリーに尋ねた。
「ヘンリーって、出身はどこ?」
「ポーランド生マレ、インドネシア育チです」
「そう。日本には語学留学で来たの? 以前にも留学で日本に来てたとか?」
俺の質問にヘンリーは大声で笑った。
何がおかしかったのか、わからない。
「語学留学? 土方さんハ、イツモ面白イ事言うネ。日本ニ来タノは、23年前、12歳の時ですヨ?」
俺がおかしいみたいに笑っているが、23年も日本にいて、その片言の方がおかしいだろうが。
「お前、本当は日本語ばりばり出来るんだよなぁ? 俺のレジの時だけ、わざとわからないふりしてたんだろう!」
俺がヘンリーを睨みつけて言うと、ヘンリーは何のことかわからないと、両手を上に広げて困り顔をした。
そのしぐさが妙に様になっていて、むしろ苛立ちは増した。
ついでに苗字は、平松というらしい。
隣で寝ていた涼子がむにゃむにゃと寝言を言い出したので、俺たちは店を出ることにした。
沖田はYシャツのボタンが取れていたため、妙な格好になってはいたが、ヘンリーとともに手を振って先に帰っていった。
涼子はすっかり出来上がっていて、俺は彼女の腕を肩に回して懸命に歩き、広い道路に出て、タクシーを呼ぼうとすると、涼子は気持ち悪いと歩道の真ん中でしゃがみ込んだ。
「無理! 今車乗ったら、吐く!!」
涼子が口を押えながら叫ぶので、しばらく道の端で休憩した後、涼子が歩くと言い出し、俺が涼子の体を支えながら歩いた。
「家はどこだ? なんなら、旦那に迎えに来てもらうか?」
俺が何を言っても、涼子は首を振るばかりだった。
酔った姿を、どれだけ旦那に見せたくないのかと、俺は不思議に思う。
涼子の足取りは悪く、あっちにふらふら、こっちにふらふら動き、最終的には入り組んだ細い路地を歩いていた。
路地の途中で顔を上げると、そこには一軒のラブホが建っていた。
看板を見上げながら、これはさすがにまずいだろうと思い、速足で過ぎ去ろうとしたが、涼子は足を止めた。
彼女は目の前の立て看板を見て、小さく笑みを浮かべ、指さす。
「……ここで休む」
俺は全身の鳥肌が立った。
何かいけないボーダーラインを越えてしまう気がしていた。
「さすがにやばいだろう、ここは」
「やだ。もうベッドで横になりたい!」
涼子は子供のように駄々をこねて、俺の顔を見上げる。
ネオンの光が反射したその潤んだ大きな瞳は、俺の心を彷彿とさせ、目が離せなくしていた。
「涼子……」
俺たちはこのまま間違った道に進んでしまうのではないかと、不安と隠し切れない興奮とが入り混じって、激しい鼓動を起こす。
しかし、次の瞬間、そのロマンチックな雰囲気は打ち消され、漂うのは異臭ばかりだった。
涼子が耐えきれなくなって、その場でリバースしたのだ。
俺のスーツは涼子の粗相で見事に彩られていた。
異臭のするそれを洗うためにも、俺たちはラブホに入った。
ひとまず、気持ち悪そうにしていた涼子をベッドで寝かせ、俺はスーツを脱ぐと、水洗いをし、多少乾くまでの間、ついでなのでシャワーを借りることにした。
俺がシャワーから上がると、涼子はベッドの上でぺたんこ座りをして、ぼぉっとしている。
俺は慌てて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、涼子に飲ませた。
涼子の調子が良くなったのはいいが、そこはやけに独特な部屋だった。
ベッドもソファーも壁紙も全部赤で、ライトまでが妙な色をしている。
こんないかにもな部屋を久々に見た気がした。
「……敏郎、ごめんね。迷惑かけちゃって」
涼子が申し訳なさそうに言うので、気にするなというつもりだったが、彼女の目線の先が干している俺のスーツとYシャツなのを見て、何も言えなくなった。
「今日は飲みすぎちゃったみたい。最近、自粛してたのもあるのかな。こんなに酔ったのは久々だよ」
彼女は独り言のように話し、俺は少し離れた場所にあるソファーに座って、その声に耳を傾けていた。
「敏郎には見栄張って、夫婦生活うまくやってるって言ったけど、本当はそうでもないんだよね。あの人は何も悪くないんだけどさ、私がなんかいろいろ疲れちゃって、距離を取りたくなっちゃったの」
彼女はそう言って苦笑して見せる。
俺は何も言えずに、黙って床に目線を落としていた。
「夫も優しいからさ、私には何の不満を言わない。涼子の好きにしていいよって言うばかりで、本心を言ってくれないの。それが逆に不安でね。時々どうしたいのか、自分でもわからなくなるんだ」
その言葉に俺はどきっとする。
当時の俺はそれが優しさだと思っていたからだ。
彼女の好きなようにやらせることが男の甲斐性ってやつで、しかしそれがむしろ、涼子を不安にさせていたなんて、想像すらしていなかった。
「……ごめん」
俺は、七年越しに謝罪した。
しかし、涼子はそのつもりはなかったらしく、「違うの」と懸命に訂正した。
「謝ってほしくてこんなこと話したわけじゃないの。私はただ、いつも強がってるけど、案外心配性なところもあるんだよって言いたかっただけ。たぶんこれは、私の問題だと思うから……」
俺はその言葉に何か違うと感じた。
沈んでいた目線を起こして、真剣な眼差しで涼子を見つめた。
「それは違う。二人の間の話なんだから、どっちかが悪いなんてことはない。俺も涼子の本音をもっと聞こうとすれば良かった。涼子がいつも察してくれるから、それに甘えていたんだな。何も言わなくてもわかると思ってた。だから、涼子の寂しさにも気が付かずに、八年間も辛い思いさせてきたんだよな。やっぱり、謝んなきゃなんないのは俺だ。俺は、振られて当然の男だったよ」
「それは、違う――」
俺の言葉に涼子は瞬時に反応した。
しかし、それ以上は続けず、再び沈黙が続く。
気まずくなって席を立つと、涼子が優しい声で話しかけてきた。
「悪いんだけど、そこの私の鞄、持ってきてくれる?」
ローテーブルに置いていた鞄に目をやって、俺は「ああ」と返事をすると、それを持って涼子に近づいた。
鞄を涼子の前に置いた瞬間、涼子の手が俺の腕を掴み、手前に引っ張る。
一瞬、俺たちの顔はぶつかりそうなほど近づいていた。
「……ねぇ、敏郎。まだ私への気持ち、少しでも残ってる?」
その強く求める涼子の瞳に、俺は吸い付けられたように動けなくなった。