第25話 無茶なお願いを同僚にする
俺の隣で頬を膨らませながら、不満そうな顔の里奈が立っている。
そして、俺たちの目の前には、玄関の扉を開けた格好の大村さんが苦笑を浮かべていた。
この異質な状態に、俺はどう反応していいのだろうか……。
「本当にすいません、大村さん。頼れる人が他にいなくて、こんな無茶なお願い……」
俺は左手を自分の頭に添えて、頭を下げた。
里奈とは初対面だというのに、女子高生が家に帰れなくて困っていると電話で相談すると、彼女は快く一晩泊めてくれると答えてくれた。
本当に申し訳ない。
しかし、頼めそうな人は大村さんしかいなかったのだ。
大村さんは、いつものように優しく手を振って答える。
「いえいえ、気にしないでください。困っている時はお互い様です」
彼女は本当にいい人だと思う。
俺には天女様に見えるほどだ。
あの夢の女神様より、よっぽど神々しく見える。
「こいつは櫻欄女子高二年の大槻里奈です。ひょんなことから知り合いになったんですが、今晩泊まるところがないと相談されまして。ほら、俺がホテルに泊めさせるのもどうかと思うでしょ? だから、大村さんには本当に、ご迷惑おかけします」
俺が再び頭を下げると、大村さんは困った顔をした。
「そんな、頭を上げてください。私たちは全然構いませんから。話し相手も増えて、将もきっと喜びます」
大村さんの言葉に、救われる気分だ。
最近の俺の周りからの扱いが随分雑だったからか、彼女のように優しい言葉をかけられると感動のあまり、涙が出てきそうだった。
しかし、俺とは打って変わって、里奈は途轍もなく不満そうな顔をしていた。
いつも愛想のいい里奈にしては、殊の外、ぶっきらぼうな態度だ。
折角、こっちが頭を下げてまで泊めてくれそうな相手を探したというのに、どうしてこんなに不満そうなのだろうか。
昼間に変なものでも食って、お腹でも痛いのか?
すると、大村さんは俺から里奈に視線を移して、優しく尋ねた。
「ご飯はもう食べた? 夕飯の残り物で良かったら、カレーがあるけど、どうかしら?」
里奈は急に話しかけられて、緊張したのか少し体が強張り、返事もたじたじとなっていた。
「あ、いえ……。いただきます……」
やっと素直になったのか、申し訳なさそうに頭を下げる里奈。
そんな里奈を微笑ましそうに見つめる大村さんの姿があった。
「遠慮しないでね。お風呂も沸かしてあるから、もしよかったら入って」
あまりにも優しい言葉に、里奈もやっと安心したのか、小さく笑って、「ありがとうございます」と小声で答えた。
なんだか、こんな里奈を見るのも新鮮だ。
里奈は大村さんに案内されて、部屋の奥へと向かう。
玄関の奥を覗くと、ちらっと将の姿が見えた気がした。
部屋に入る前に里奈は俺の方に振り向いて、目を細くしてべぇと舌を見せた後、部屋の奥へと消えていった。
今度会ったら、本気でアイアンクローを味わせてやろうかと思った。
俺が丁重にお礼を言って、帰ろうとした時、大村さんは見送りのつもりか、俺と一緒に外に出て、玄関の扉を閉める。
そして、扉を背にし、上目遣いで見つめてきた。
その潤んだ瞳に釘付けになる。
「たまには私のこと、頼ってくださいね」
何気ない言葉なのに、彼女の何とも言えない色気のある口調と仕草にどきんと鼓動が激しくなった。
一瞬、彼女を女として意識してしまう。
もともとそういう目で見てきたから、余計に恥ずかしくなった。
交際を断ったのは自分の方だというのに、俺はなんて優柔不断な男なのだろう。
耳まで真っ赤になっていることに気が付いて、慌てて彼女に背を向けた。
「あ、あの。このお礼は必ずしますから! 本当に今日はありがとうございました!」
半ば捨て台詞のような形で、俺は大村さんのマンションから急ぎ足で離れた。
あれ以上あの場所にいたら、どうにかなってしまいそうだ。
階段を降り、マンションのラウンジを抜け、外に出ると呼吸を整える。
そして、なんとなく目線を感じた俺は、マンションを振り返って見上げた。
3階のベランダから、誰かがこちらを見ているのが分かった。
薄暗くてぼんやりしていたが、あれは間違いなく将だ。
将は俺の顔を見た後、シニカルな笑みを浮かべ、部屋の中へと戻っていった。
一体、なんだって言うんだ……。
翌朝になって、里奈からメッセージが届いていたことに気が付いた。
内容を読んだ俺は、思わずくすりと笑ってしまう。
『昨日はありがとう。大村さんには親切にしてもらって、本当に助かりました。敏郎からもお礼を言っておいてね。それと、大村さんって敏郎の何なの? ただの会社の同僚って聞いてたけど、怪しい!! 今度会ったら、絶対問い詰めるから覚悟しておいてね!』
最後は里奈らしい文面で、少し安心した。
俺はいつも通り、会社に出勤し、変わらずのルーティンワークをこなしていた。
午後からの外回りの予定はあるが、それ以外は簡単な仕事ばかりだ。
俺が空いた時間を利用して、一階のエントランスホールの自動販売機まで来ると、ベンチに大村さんが座っているのが見えた。
近づいていくと、彼女も気が付いたのかぱっと顔を上げる。
「お疲れ様」
俺は軽く大村さんに挨拶して、自動販売機の前に立ち、いつもの缶コーヒーを買う。
一緒に煙草を吸おうとしたが、大村さんが煙草を吸わない人だと思い出し、出しかかっていた煙草の箱を胸ポケットに戻した。
昔と違って、喫煙者も随分肩身が狭くなった気がする。
缶のステイオンタブを開けて、一口飲んだ。
今までずっと缶の開け口をプルタブだと思い込んでいたが、先日事務員の並木に不満げに指摘されて初めて知ったのだ。
覚えにくい名前なのが、またけしからん。
俺は里奈のメッセージのことを思い出し、再び大村さんにお礼を言った。
「昨日は助かりました。あいつからも、お礼を言っておいてくれって」
大村さんは優しく首を横に振る。
「こちらこそ、楽しい夜でした。里奈ちゃん、本当にいい子ですね。礼儀も正しいし、私、感心しちゃいました」
「見た目こそギャルですが、案外しっかりしているんですよ。たまにものすごぉく子供っぽくなって、手に負えない時がありますけどね」
俺の言葉に大村さんは手で口を押えながら、笑っていた。
俺もつい、気持ちが緩んで、笑みが零れる。
大村さんは目の前で立っている俺を見上げて、ベンチの隣の席をポンポンと叩いて見せた。
座ってくださいと、俺を誘う。
彼女の言葉に甘えて、隣に座った。
「将も楽しそうでした。里奈ちゃん、年下の扱いにも慣れているんですね」
「そうなんですよ。あいつにも10歳下の弟がいて、面倒見がいいんでしょうね。ああ見えて、しっかりしてるんですよ」
「そうですね」と俺の言葉に、大村さんは頷いていた。
しかし、どこか寂し気な表情を見せる。
「なんだか、羨ましいなぁ……」
彼女の呟くような小さな声にどきっとした。
彼女らしからぬ発言に思えたのだ。
そして、彼女はベンチの上に両手を置き、こちらに顔を近づけるようにして、俺を見つめてきた。
「土方さんの近くにあんなにかわいい子がいて、私、嫉妬しそうです」
あまりにも大胆な発言に俺は驚愕した。
顎ががくがく動いて、言葉が出ない。
すると、大村さんはふふふっと笑った。
「なぁんちゃって。ちょっとドキドキしました?」
彼女がそんな悪戯を仕掛けるとは思わず、完全に不意打ちだ。
俺の顔は真っ赤になって、今にも沸騰しそうだった。
その発言は、人が悪すぎる……。
大村さんは満足したのか、ベンチから立ち上がって、「戻りますね」と言って手を振った。
彼女の階段を上がる足音を聞きながら、俺は一人ベンチの上で固まっていた。
数分間、そのままでいると、タイミングが悪く、外回り終わりの沖田に出くわした。
そして、頭を抱える俺を見て、にやっと笑いながら話しかけてくる。
「なんすか、土方さぁん。もしかして、便所ですか?」
「ちげーよ!」
なんでそうなるんだよと俺は突っ込みたかった。
そして、改めて沖田は考え、突然ごそごそと鞄の中を探り始め、俺にPTPシートに入った薬を差し出した。
「安心してください! 便秘薬、持ってますよ!!」
元気いっぱいにそう答える沖田を、本気でどつきたい気持ちでいっぱいになった。