第21話 舎弟、小林に諭される
市子と別れてから、数日経っていた。
俺は里奈にも、市子にも連絡が取れないまま、時だけが過ぎていた。
心のどこかで、これでいい、俺は部外者なんだと言い訳をしているようだった。
そして、いつものように馴染みのマッグのカウンターで食事をしていると、後ろから急に目隠しをされる。
「だぁれだ!」
こんなことを所構わずしてくる無礼者を、俺は二人しか知らない。
一人は姪っ子の晴香と、そしてもう一人は……。
「何やってんだよ、大槻!」
「あちゃぁ、ばれてた?」
俺は顔から里奈の手を放し、振り向いて答える。
里奈は苦笑しながら、舌を出していた。
ばれてたじゃ、ねぇよ……。
俺は散々里奈のことを心配していたのに、里奈はあの日のことがまるでなかったように振る舞っていた。
それがむしろ痛々しく感じる。
「なんか、手から変な臭いするぅ」
里奈は隣の椅子に座りながら、俺の顔を触った手をくんくんと嗅ぎ、汚いものでも触ったように遠ざけた。
自分からしておいて、その反応はないと思う。
しかし、この間の市子と言い、里奈と言い、あまりにも人の臭いの話ばかりしてくるから、本気で自分の体臭が気になってきた。
中年のおっさんの心は、シカクナマコよりもデリケートなんだぞ!
「……それよりお前、なんであの時、逃げた?」
俺は少し間をおいて、落ち着いて質問する。
里奈にとって話しにくい話だとは分かっていたが、どうしても聞いておきたかった。
たとえ、ここで里奈に嫌われたとしても、これ以上見て見ぬ振りができない。
もし、それで里奈に嫌われて、縁を切られたとしても、それはそれでいいと思った。
市子の言う通り、彼女自身が助けを求めない以上、俺たちは何もできない。
里奈は気まずそうに笑って、天井を見上げた。
「ああ、やっぱり気になっちゃうよねぇ。ごめんね、あの時は。無視するつもりはなかったんだぁ。急だったから、ちょっとびっくりしちゃって」
俺もそうだろうなとは思っていた。
里奈が、理由もなく人を遠ざけるような奴ではないことぐらいは分かる。
「そのことでさ、うちも言いたいことがあって。もう、敏郎は知ってるんでしょ、うちの家の事情」
その言葉を聞いて、一瞬言葉が詰まる。
きっと、市子からすべて聞いているのだろう。
俺が気まずそうにしていると、里奈はバツが悪そうに笑って、いいのいいのと手を振った。
「コンビニで見つかった時点で、いつか話さないとなとは思ってたんだ。最近じゃ、痣も目立っちゃって隠しきれてないし。これでもね、化粧で隠すの上手くなったんだよ。もしかしたらうち、特殊メイクの才能あるかもなぁって思えるくらい……」
無理に楽しそうに笑う里奈の顔を見ていた俺の表情は、暗い。
里奈もそれに気づいたのか、明るい雰囲気を取り戻そうと必死になって、元気な声で話しかけてくる。
「ほらほら、敏郎に辛気臭い顔なんて似合わないって! 表情筋全部緩ませて、卑猥な目を向けてないと、敏郎って感じしないよぉ」
「俺って、普段からそんなにいやらしい顔してんの!?」
俺はつかさず突っ込む。
「うぅん、歩くセクハラって感じかな?」
もう、俺、外を歩けないと思った。
里奈は一通り笑った後、冗談と訂正を入れてくれた。
そして、満足したのか、再び真面目な顔に戻り、ぽつりぽつりと話し始める。
「……敏郎、ごめんね。心配かけたよね。でも、うちは大丈夫だから。暴力とか慣れてるし、卒業したら家出るし、後少しの間だけだから」
「そういう問題じゃないだろう!」
俺はつい、里奈に向かって大声を出していた。
暴力に慣れるとか、少しの間とか、そんな言葉で片付けられるわけがない。
殴られて痛くない人間など、いないのだから。
その時の里奈の目はとても悲しそうだった。
そんな目で見つめられたら、何も言えなくなる。
「いいの。全部、分かってるから。分かって、うちはこの人生を選んでる。お市や敏郎がうちを心配してくれるのは嬉しい。けど、うちはこのままでいい。だから今は、そっとしておいて……」
その言葉はあまりに切なく、返す言葉がなかった。
俺が里奈に何か言葉を掛ける前に、彼女は席を立って店を出ていってしまう。
こんなおっさんになって、10代の女の子一人も助けられないかと思うと自分が情けなくなった。
俺がマッグからの帰り道、またもや見慣れた顔の人物と出会った。
蟹股で肩を切るように歩き、サングラスと派手なアロハシャツ、そして短パン姿。
何も尋ねなくても、どういう人物か外見で一目瞭然だった。
「兄貴!」
あちらも俺に気が付き、笑顔で手を振って、こちらに近づいてくる。
俺は立ち止まって、小林と対面した。
「その呼び方はやめてくれ。俺までそっち側の人間と勘違いされるだろう?」
「勘違いも何も、兄貴はお嬢の男なんでしょ? なら、将来的には俺の兄貴分じゃないっすか」
小林は嬉しそうにそう話した。
お嬢の男? 俺が?
とんでもない思い違いをしていると思い、慌てて訂正する。
「俺は小野の彼氏じゃないぞ。ただの知人だ!」
俺の答えに、小林は俺を指さして笑った。
「まっさかぁ。冗談きついっすよ、兄貴。今までお嬢とまともに会話できた男なんざ、兄貴ぐらいっすよ。女子校育ちってのもありやすが、お嬢の家のこと知ったら、みぃんな、頭抱えて逃げちまう。けど、兄貴はそうじゃなかった。だから、お嬢に見初められたんでしょ?」
全く小林の言っていることは理解できない。
確かにどんなにかわいい女の子でも、それが極道の娘と知れば、誰も彼女に近づこうとは思わないだろう。
俺もまともな出会いであれば、きっとそうだった。
しかし、今更、尻尾を巻いて逃げ出す理由もない。
「お前、そのこと小野に話したら、殺されるぞ。あいつはまだ、高校生だぞ? 40過ぎたおっさんに恋心を抱くわけないだろう?」
「年齢なんて関係ありやすかねぇ」
俺の言葉に、小林はあっさりそう答えた。
意外な言葉に、俺の言葉が詰まる。
「惚れる理由に歳なんて関係ないっしょ。お嬢は兄貴が好き。兄貴もお嬢が好き。それだけで十分じゃないっすか」
小林にしてはまともなことを言うなと感心していた。
するとそんな俺の心も知らずか、話を変えてくる。
「しかし、どうしたんです? えらく辛気臭い顔して。もしかして、お嬢にまた叱られたんすか?」
お前と一緒にするなと心の中で叫んだ。
市子と喧嘩をしたからって、ここまで思い詰めることは、たぶんない。
こんなことを小林に話したところで、どうしようもないことだとわかっていても、気が付けば小林にこぼしていた。
「……助けたい奴がいて、でも、そいつにほっといてくれって言われて、どうしていいかわからなかったんだ。あいつが嫌がっているのに、勝手に出しゃばって、場を荒らすことはあいつのためにはならないよなって……」
その俺の言葉を聞いて、意外にも小林は真剣に悩んでいた。
そして、質問をしてくる。
「俺にはよくわかんねぇですけど、兄貴はそいつを助けたいんですよね?」
「助けたい!」
俺は淀みなくはっきりと答えた。
「じゃあ、助けりゃいいんじゃないんすか?」
「だから――」
やっぱりこいつに相談すべきではなかったと後悔した瞬間、小林が続けた。
「兄貴が迷ってる理由、俺にはわかんないっすよ。大事なのは、自分が助けたいか、助けたくないかだけじゃないんすか? 相手にどう思われるとか、相手のためとか、そんなの兄貴がわかることじゃないっすよ。なら、自分のやりたいようにやる、それの何がいけないんすか?」
小林のあまりにもまともな言葉に、俺は絶句する。
「それで相手に嫌われる。上等じゃないっすか。それでもそいつを助けられるなら、もう十分っすよ。だって、嫌われる後悔より、助けられなかった後悔の方がでかいっすから」
その通りだと、俺は小林の言葉を聞いて思った。
俺は里奈に嫌われるのが怖かったのだ。
里奈が嫌がることをして、軽蔑されたくなかった。
けど、それでも助けなきゃならない瞬間ってあるだろう。
虐待は命に関わるんだ。
このまま何もしなかったら、俺は一生後悔する。
俺は顔を上げて、小林に感謝した。
「ありがとう、小林。俺、決心着いたわ。悪いんだけど、一つ頼みがある。里奈の住んでいる場所を俺に教えてくれないか?」
小林は俺の変わりようを見て、ぽかんとしていたが、すぐさま答えた。
「無理っすね。お嬢の友人の個人情報は、そんなに簡単には教えられません!」
今、そこを気にするかぁ!と心の中で盛大に突っ込んだ。