第20話 家庭の事情を知る
俺は家に帰った後も、ずっと里奈のことが気になっていた。
あの体中にあった痣は、恐らく誰かに殴られたり、蹴られたりしたものだ。
俺は一時期、同じような痣をよく見ていた。
散らばるような痣。
目立つような場所は避け、背中や腹に複数点在していることも多い。
あの痣の付き方は、どこかにぶつけたものなんかじゃない。
それだけははっきりわかっていた。
なぜなら、それが父親からの暴力を受けていた母の痣とよく似ていたからだ。
あの時、必死に隠そうとしたのもその証拠だ。
先日、俺の家に里奈が来た時には、そんな痣は見当たらなかったが、妙に化粧が厚い日は何度かあった。
恐らく薄くなり、定着し始めた痣を化粧か何かで隠していたのだろう。
俺もあまり若い子の露出した肌を露骨に見てはいけないと思い、そんな変化にも気が付かなかった。
しかし、こうして知ってしまった以上、放っておくわけにもいかない。
俺は取引先との打ち合わせと称して、夕方会社を抜け出し、里奈の通う櫻欄女子高校へ向かった。
高校までは来たものの、どうやって里奈を探すべきか迷った。
何故なら、櫻欄高校の校門はずいぶん開けた場所にあり、名前の通り女子高なので、校門から出てくる生徒は女子しかいないのだ。
そんな校門の前で中年のおっさんが待っていたら、誰だって不気味に思うだろう。
校門前の警備員も、こちらに警戒の眼差しを向け続けていた。
里奈に心の中で早く出て来いと叫んだが、願いは虚しく、結局一時間は女子高生たちの晒し者になっていたと思う。
そんな俺に、聞き慣れた声の女子高生が話しかけてきた。
「あんた、そんなところで何やってんのよ?」
目線を向けると、そこにはいつもの制服姿の市子が立っていた。
「……小野」
ほんの少し、救われた気持ちになる。
「部外者の中年男が、こんな場所で長々と居座らないでよね。臭うから」
え?臭いの問題?と、相変わらずズレた発言をする市子に呆れた。
最初はただの嫌味だと思っていたが、次第に本当に加齢臭がしているのではないかと気になり始め、一度自分の体を嗅いでみたりする。
大丈夫、たぶん匂ってはいないはず。
だが俺は念のため、帰宅時にドラッグストアによって、柿渋エキスの入ったボディーソープを買おうと決めた。
しかし、これも市子なりに気を遣っているのだろう。
俺は市子に合わせるように歩いた。
里奈に会えないのなら、市子に聞いておきたいことがあったからだ。
後ろで相変わらず俺に睨みを利かせている警備員のおっちゃんがいたが、俺はとりあえず無視をした。
俺と市子は近くの公園に寄り、話をすることにした。
市子も里奈から話を聞いていたのか、俺がここに来た理由を察している様子だ。
俺たちは近くのベンチに座ったが、しばらくの間は何も話せなかった。
そんな中で口火を切ったのは、市子の方だ。
「里奈から聞いた。昨日の夜、コンビニで里奈に会ったんでしょ?」
俺は小さく頷いた。
「深夜のコンビニで里奈を見かけた時には、驚いた。あんな時間に未成年が出歩いていたら、補導されると思って、注意しようと声を掛けたんだ。ただ、なんだかいつもと様子が違って、落ち込んでいるみたいだった。体にもところどころ痣が出来ていて、これは何か事情があるんだろうなと察したけど、逃げられちまってな……」
「そりゃあ、乙女の肩を力づくで掴んだんなら、嫌われて当然ね」
市子の言葉は厳しかったが、それも正論だ。
俺はやりすぎてしまったと、情けなくて溜息が出た。
そんな俺を横目で見ながら、市子は肩を落とした。
そして、何かを語り出すように暗い表情でぽつぽつと話し始めた。
「……見てわかったでしょ? 里奈、昔から、父親に暴力を振るわれているの。里奈の家は、里奈が小学生の途中までは父親がいなくて、母親と二人暮らしだったんだけど、七年前に戻って来たらしくて、そこから家庭内暴力が始まったんだって。そもそも、里奈の父親は新しい恋人ができて家を出たんだけど、その女とも別れて、金がなくなったから戻ってきたらしいの。だから、今は働かずに母親の稼いだ金で生活してる。酒癖も悪くてね。昼間から飲んでばかり。始めは怒鳴ったり、家から閉め出したり、ご飯抜きにする程度の虐待だったんだけど、里奈が成長して父親に反抗できるようになった頃から、手も出すようになった。最初は痣も、背中に一カ所か二カ所だった。けど、日を追うごとに数が増えていって、腕や顔なんかにも痣を作るようになった。さすがに顔に痣ができると、誤魔化せなくなるから、そういう時は学校を休んじゃうんだよね。里奈ってああいう見た目でしょ? だから、周りから誤解されやすくて、学校サボってるんだとか言われちゃうの」
市子は悲しそうに語った。
俺も居た堪れない気持ちになってくる。
「母親はどうしているんだ? やっぱり、里奈と一緒に暴力を受けているのか?」
その俺の質問に、市子はゆっくりと顔を横に振った。
「どちらかと言うと、逆かな。父親がいなかった時は、母親が里奈に八つ当たりしてたから、今も里奈が暴力を受けていても、見て見ぬふりしてる。それに父親が帰ってきてから、里奈に弟ができてね、半分里奈がお母さん替わりなの。だからきっと、里奈は弟を守ろうとして父親に反抗したんだと思う。里奈と弟の永久は、本当に仲がいいんだ」
二人のことを思い出した市子の表情からは、微かに笑みがこぼれる。
二人の関係がとても良好であることを察することができた。
「学校はこのこと、知ってるのか?」
その質問に、市子の表情は強張った。
そして、少し間をおいて答えた。
「……多分、気が付いているけど、家庭内の事情には口を出さないのがうちの流儀だから。もともと里奈は特待生で入学してきたの。だから、学費も免除されていて、学校側からしたら面倒な事には関わりたくないんだと思う」
俺はその話を聞いて、なんで助けられる大人たちが誰も動こうとしないのかと胸糞悪くなる。
目の前に虐待を受けている子供がいるのに、大人が一人として声を掛けたり、助けようとしないのが情けなかった。
「警察には言ったのか? 児童相談所とか、あるだろう?」
「あるけど、里奈自身が否定するから。今の所、弟は暴力を受けてないんだって。だからもし、自分が父親から解放されても、今度は弟が被害に遭うかもしれないって思うと、言い出せないんだよ」
その気持ちは分かる。
だからと言って、里奈だけがこんな仕打ちを受けていい理由にはならない。
そして、俺はそっと市子の顔を見た。
「お前は、このままでいいのか? 里奈は親友なんだろう? 助けたいとは思わないのか?」
その質問が愚問だったことに、俺はすぐに気が付いた。
市子のその険しい表情と、ぎゅっと自分のスカートを握りしめる姿を見たら、市子の方が長い間苦しんできたのだなと理解した。
「……助けたいよ! でも、助けられないじゃない。私が里奈を助けるってことは、里奈にそれだけの重責を背負わせるってことになるの。だから、里奈が私に助けを求めない限り、私は助けたくても、助けられないの!」
市子は感情がヒートアップして、立ち上がり、俺を涙目で睨みつけると、足早にその場を離れて行った。
俺は心の中で「しまった」と、悔恨の念に駆られる。
あの市子が里奈を心配していないはずはないのだ。
しかし、彼女の立場から考えれば、簡単に手出しはできない。
彼女はあくまでも極道の娘なのだから。
助けることの重みが違う。
そんなことはわかっていたのに俺は、市子を責めるような言い方をしてしまった。
俺は一人ベンチで頭を抱えながら、俺は何をやっているんだと自分を責めた。