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第122話 剣道を再開する

俺は楠と島田さんの力を借りながら、少しずつ負債の回収作業を進めていた。

しかし、結局、予定の半分以下も回収できていない。

来客数が以前よりずっと減ったこともあり、契約数はぐっと減り、今月の前年売上費は90%を下回った。

こんな状態で、山南にどう報告すればいいものか。

楠が言うように、返済能力のない奴は強制的に島流しにするか、内臓売却を強制することで、無理やりでも負債を取り戻すことはできたかもしれない。

それでも俺は、それを選択できなかった。

それは、俺の弱さなのか、それとも偽善なのか、もうわからなかった。



実はうちの組織には道場がある。

道場だけでなく、ジムや銭湯まであり、組員は割引が効くらしい。

まるでカタギの会社の福利厚生のようだったが、俺にとってはありがたかった。

道場に関しては、自主練には金がかからず、師範からの指導を受ける場合は費用が必要らしい。

俺は久しぶりに剣道具を揃え、道場に向かった。

そして、一人そこで竹刀を振るう。

こうしていると、昔じいさんに教えられていた時のことを思い出した。

早朝五時には起こされ、袴に着替えさせられ、道場の掃除から始まり、朝のランニングからの発声練習、足さばきを意識しての素振りを毎日500回以上。

手にはタコや豆だらけだった。

とにかく、礼儀にはうるさく、道具の扱いから、仕草一つ一つまで丁寧に指導されていた。

幼かった俺はそれがどうしても嫌で、何度も稽古をサボり、家出も繰り返していた。

その度にすぐにじいさんに連れ戻され、泣きながら稽古を続けた記憶がある。

決められたカリキュラムを達成しなければ、飯も食わせてもらえず、稽古に慣れるまでは姉貴がこっそり俺のところに握り飯を作って持ってきてくれた。

じいさんがそのことを知っていたかは知らない。

けれど、俺はじいさんに逆らうこともできず、ただ今を逃れたくて、稽古を続けた。

実力がついたと感じたのは中学生の頃だった。

それまでは同じ道場の奴らとしか打ち込み稽古をしたことはなく、相手はほとんど年上の学生か大人ばかりだったため、始めたばかりの同級生との戦いはいつも圧勝で、敵なしの状態だ。

いつの間にか、その噂が学校中に広まり、剣道の強い俺は人気者になった。

部活の時間には女の子が何人も俺の稽古を覗きに来ていたし、年上の先輩には可愛がられた。

試合には多くの同級生や知り合いが応援に来て、地域ではちょっとした有名人だ。

それが俺にとって心地よかったのだ。

誰かにこんなに求められたことも、注目を浴びたこともない。

皆が俺を認めてくれている。

だからこそ、それを失いたくなくて、俺は一層稽古に励んだ。

じいさんの血族だからだろうか。

割と剣道は俺に向いていて、上達も早かった。

大会には何度も優勝したし、同級生に敵なしの状態だった。

周りからは世界大会も夢ではないと言われ、一時期雑誌の取材まで受けたほどだ。

この瞬間ばかりは、俺の人生も捨てたものではないと思った。

しかし、じいさん自身が俺を認めてくれたことも、褒めてくれたことも、労ってくれたことすらなかった。

ただ、険しい顔で俺を睨みつけ、ああだ、こうだ、と指摘するばかり。

最後は「お前は全く身が入っていない。お前のそれは剣道ではない。ただのチャンバラごっこだ」と言われ、何度も大喧嘩した。

俺は剣道を真剣にしているつもりだったし、じいさん以外の周りの人はみんな認めてくれていた。

それをどうしてわかってくれないのかと俺は何度も心の中で嘆いていた気がする。

しかし、あれから25年経って、やっとわかったような気がした。

俺は決して剣道と向き合ってなどいなかった。

己と向き合うこともなく、いつも頭の中は他人の目線でいっぱいだった。

自分の実力を誇示し、自分の価値を他者の中に見出そうとした。

あの時の俺は、剣を振るう意味を全く理解していなかったのだ。

こうして、久しぶりに握る竹刀はそれを実感させられる。

なまり切った手足は思うように動かない。

しかし、体の感覚だけは微かに覚えている。

里奈の父親を倒そうとした土壇場で出た動きはきっとこの感覚だったのだろうと思った。

しかし、だからと言って、今まともに誰かと戦って勝てる気はしなかった。


「なぁんだ。敏郎も稽古、始めたんだ」


道場の入り口で市子の声が響く。

俺は驚き振り向いた。

早朝の道場には俺しかいないと思っていたからだ。


「私も朝稽古、時々するの。昼間になると道場生来ちゃうでしょ?その前に一人でやりたくて。どう?久々の剣道は。手応えある?」


俺はゆっくり首を横に振った。


「全然だめだ。体が思うように動かない。やっぱり、若い時とは違うよな」


俺がそう答えると、市子は小さく息をついて廊下に荷物を置き、礼をして中に入り、俺に近づいてきた。


「でも、さすが幼い頃からやってるだけあるわね。それだけ長いブランクがあっても体幹は整っているみたい。筋は悪くないわ」


彼女はそう言って笑った。

なんだか少し嬉しかった。


「せっかく始めるなら、他にも稽古してみない?うちにはいろんな武術の師範が来るから。剣道だけでなく、柔道、空手、合気道、古武術、太気拳、少林寺拳法、居合道、古流剣術、太極拳、ムエタイ、プンチャック・シラットと様々よ。護身術にもなるし、多数習っておくのはおすすめよ」


一瞬、俺の思考が停止した。

柔道、空手、合気道まではわかる。

しかし、少林寺拳法とか太極拳は道場で教えるものなのだろうか。

そもそも太極拳なんて漫画の世界ぐらいでしか見たことないし、ムエタイ?プンチャッ……ってああ、もう覚えられないけど、それが何なのかすら理解できない。

ヤクザというのはそこまで武術を鍛えなければならないものなのだろうか。


「いや、俺は剣道だけで十分……」

「私はやっぱり、最低限護身術として合気道は習っておくべきだと思うのよね。小林なんてすごいのよ。ほとんどの武術をマスターしちゃってるの。特にムエタイの師匠になんて絶賛されていて、小林なら10秒で二、三人はノックアウトできるって褒めてたわよ」


それってやばい気しかしない。

今後は決して、小林を怒らせないようにしようと思った。

もし怒らせたら、10秒後には俺の命はないような気がする。

ってか、あいつ、そんなにすごい奴だったのか。

若い衆の噂でも、小林の身体能力はオリンピックレベルだと聞いたことがある。

本気でアスリート目指していたら何かしらの選手になれただろうと。

まさか、冗談だと思っていたが、あながち間違いではないのかもしれない。

恐るべし、市子のボディーガード。

伊達じゃないと思った。

俺が困惑していることに気が付いたのだろう。

市子はふっと笑って、突然、俺に昔話を始めた。


「私がね、いろんな武術を習うようにしているのは、どんな時でも自分の身は自分で守れるようにするためなの。私がまだ、5歳ぐらいの時、他の勢力の組員に誘拐されたことがあってね、殺されかけたことがあったわ。きっとじいちゃんを脅そうと思ったんでしょうけど、じいちゃんが電話越しに言ったのは、「好きにしろ」だった。私が組織の足手まといになる存在だというなら、そいつの運命はそこまでなんだろうって。助けようとはしてくれなかった。だから私は殺されずにはすんだけど、訳の分からない外国人に売られる前に何とか助けられて今ここにいる。実際助けたのだって、父の率いる一部の構成員だけで、じいちゃんは何もしなかったわ。両親が死んだ後、じいちゃんは私に言ったの。組織に関与したくなければ、自分の身は自分で守れって。組織に恩を売った瞬間から、私は部外者ではいられなくなる。だから、小林が私の護衛につくまで、私にはちゃんとした世話係なんていなかったし、基本的には自分で自分を守るようにしていた。そのためには、あらゆる護身術を学ぶ必要があったのよ」


その話を聞いて思い出していたのは、小林が市子に会った時の話だった。

小学生とは思えない身のこなしと度胸。

きっとこういった経緯があったからこそ、市子はあの時あのような行動をとれたのだろうし、だからこそ、小林が一生ついていきたいと思えたのだ。

運命とはなんという巡り合わせなんだろうと思った。

それに市子の話してくれた親父とのエピソードは容易に想像ができた。

一般的な家庭ではありえないと非難されそうな話でも、この極道という世界ではそれが通用してしまうのだ。

組織のためなら家族を捨てる。

他人との関係を優先し、血の繋がりのある家族を見捨てるなんて考えにくい話なのだろうけど、きっと親父ならやるのだろうと思った。

今だってそれは変わらない。

巨大組織を背負うというのはそういうものなのかもしれないと思った。

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