第115話 新しい部署に異動する
ついに俺の次の部署が決まった。
池袋の中でも端にある、北池袋駅にほど近い、割と住宅街と言っていい街の小さな店だった。
就任早々、そこの店長に抜擢される。
未経験者がいきなり店長なんて言われても、従業員たちは納得できないだろうと思っていた。
初日から反発されて、仕事がやりにくくなる可能性もある。
しかし、そんな不安はただの杞憂に終わった。
「いやぁ、マジ助かりましたぁ。次の店長も厳つい面やばい奴だったらどうしようかと思いましたぁ」
女性従業員の一人が鏡片手に呟いていた。
その隣にいる、俺とさほど変わらぬ年齢の女性従業員も彼女に同意する。
「こういう仕事してるとさぁ、まともな上司に当たらないのよねぇ。顔怖いし、話しかけられないし、やっと落ち着く職場になりそうだわぁ」
「わかります!これからはみんなで協力し合って、ばんばん契約とっていきましょうね!僕、土方さんが上司なら頑張れそうな気がします!!」
最後は気の弱そうなメガネの青年が握りこぶしを見せて、ハイテンションに答えた。
あまりにも想定外な事態に肝を抜かれた。
「そもそもぉ、ワタシら、どっちかって言うとアンチ山南派なんですよねぇ。山南さん、とにかくルールにうるさいし、やりにくいんですよぉ」
「そうそう、私らだって精一杯契約とってんのに、まだ足りないってすぐに催促するのよねぇ。ほんと、勘弁してほしいわぁ」
「この機に山南さんを見返してやりましょう!ね、土方さん!」
そんな彼らの声に俺の方が圧倒されそうになっていた。
彼らは正式雇用ではなく、うちの派遣会社と契約した派遣社員らしい。
彼らも生活のために、なかなかブラックな街金の仕事も文句も言わずこなしてきたが、いい加減不満が溜まっているようだった。
俺としては逆にやりやすいのでよいのだけれど。
「まぁ、彼らのことは大目に見てやってください。やっぱり現場は大変なんですよ」
そう言って、俺にコーヒーを運んでくれたのは、以前、鉄矢が頼りにしていい人だとアドバイスをくれた武田さんだった。
基本的には本社勤めのようだが、こうして自分のエリアに新人が入ってきた場合、その調整役として出向に来てくれるという。
武田さんは23区の北エリアで池袋全体を見ているそうだ。
今回は何とも運が良かった。
吉村とは違って、教え方は丁寧だし、言葉遣いも落ち着いている。
組員として違和感はあったが、俺としてはそういう人との方がやりやすかった。
部署移動を告げられた時はどうなることかと思っていたが、案外どうにかなりそうだ。
「とにかく、土方さんは少しでも多くの契約を取ってください。貸した分だけ、利子が回収できるんですから、この店の実績は全て土方さんのものです」
「でも……」
そうはいっても実際契約を取ってくるのは俺ではなく、従業員の彼らである。
こんな奥の席に座って、彼らの回収してくる契約書に印鑑を押すだけでいいというのはさすがに心苦しい。
「大丈夫ですよ。ここのメンバーはとても優秀なんです。前回の店長がかなり強引な方だったのでうまくいかなかったことはありましたが、土方さんなら大丈夫です。彼らに任せてください。土方さんは彼らのモチベーションを下げないようにしてくれればいいんですから」
それが一番難しいようにも思ったが、とりあえず返事はしておいた。
ここでの仕事は俺が思ったよりもわかりやすかった。
こんな住宅街の中にあっても客数はそれなりに多く、わざわざ遠くから金を借りる客もいる。
いざというときにはトラブルを解消しに来るスタッフまで配備されていて、俺はとにかく彼らに少しでも多くの契約を結ばせ、売り上げを上げることだと言われた。
契約の分だけポイントがもらえ、契約数の多い店は表彰されるらしい。
わからない時はエリアマネージャーである武田さんに聞くことが出来、周りのスタッフも俺の言うことは素直に聞いてくれた。
たまに鉄矢が店に顔を出して、差し入れなんかも持ってきてくれて、社内はどこか和気あいあいとしていた。
これならばきっと、実績に思い悩むことはないだろう。
気づけば、12月。
市子たちと野外クリスマスパーティーをしてから一年という月日が経っていた。
つい最近の出来事だと思っていたが、時間が過ぎるのは実に早い。
今年もひっそりと市子と一緒にクリスマスパーティーを催そうと考えていた。
店の皆に頼み込んで、時間をもらい、俺はデパートまで市子へのクリスマスプレゼントを買いに出かける。
女の子にまともなプレゼントを買うのは久しぶりで緊張した。
まずは店員さんに話しかけるのに勇気が必要で、店の前でウロチョロしていると向こうから声をかけてくれた。
店員さんのおすすめもあり、俺はハート形のキラキラとしたネックレスを買うことにした。
今時の子がどんなものを好むのか俺にはわからなかったが、店員さん曰く、こういう定番の形を選んでおけば間違いないそうだ。
きっと市子ならどんなプレゼントを渡しても、文句は言わないだろうと思った。
その帰り道、久々にある少年と出会った。
彼は俺の顔を見て、思い切り指をさしてくる。
「出たな。裏切者」
開口一番にその言葉とは、まるで女神様のようだと思った。
「久しぶりだね、将君。お母さんは元気?」
俺はひとまずその言葉を流して、当たり障りない質問をする。
しかし、彼はそんな俺を逃してはくれなかった。
「ええ、元気ですよ。とっても元気です。一時期、あなたに振られて母は元気を失い、食事ものどを通らぬぐらい落ち込んでいましたが、時が解決してくれたんでしょうね。以前ほどとは言いませんが、元気にしてます」
彼の言葉は俺の胸を鋭利な刃物で突き刺すように痛かった。
正確に言えば、振ったのは俺ではなく、大村さんの方なのだが、それでも俺が傷つけたことには変わりがない。
将君が嫌味を言いたくなる気持ちは理解している。
「当初、僕に対し、あんなに母を想っている風に語っていたのにもかかわらず、あなたはあっさり他の女のところへ行ってしまい、あの時の僕らの気持ちはなんだったのかと思いました。はっきり言って裏切りですよね。やっぱりおじさんはバツイチ子持ちの女より若いきれいな女に流されがちなんですよ。ああ、やだやだ。これだから大人は」
将君の嫌味は終わらない。
しかし、彼の言っていることも彼の立場から見れば間違ってはいないのだ。
俺は散々、大村さんや息子の将君に期待をさせておきながら、最終的には彼らを選ばなかった。
その方が平和だとわかっていても、直前にしてそれを選択できなかった俺がいる。
「まぁ、いいんですよ。母も納得しているようだし、僕は母が幸せならなんでもいいんです。けど、僕はあなたにずっと聞きたかったことがあります」
将君は改まって俺の顔をじっと見て、質問してきた。
俺はなんだろうかと首をかしげる。
「あなたのその愛は自己犠牲ではないのですか?」
俺はその質問に驚き、言葉を失った。
それはおそらく俺が市子を助けるために、極道に入ったことを言っているのだろう。
仕事を辞め、まともな生活を捨て、立場を捨て、女のために身を投げた。
それは以前、将君に話した自己犠牲そのものではないかという彼の疑問を理解した。
彼は俺が言った『自己犠牲で人を幸せにすることはできない』という言葉を確かめたかったのだろう。
俺はなんだか嬉しくて、小さく笑みをこぼしてしまった。
それに対し、将君は不思議そうな顔をする。
「これは自己犠牲なんかじゃないよ、将君。俺は自ら望んでこの世界に飛び込んだんだ。それが唯一、彼女のそばにいられる場所だったからね。だから、俺は後悔もしていないし、彼女の近くにいられることは幸せだと思ってる」
まだ少し納得のいかない顔をしていたが、それでいいと思った。
大人の愛とは複雑なものだ。
まだ小学生の彼に、何かを捨て去ってでも得たい幸せが何かだなんてわからなくていいのだ。
「なら、いいですけど。僕にあれだけ偉そうに言っておいて、結局、自己犠牲だったら許せないと思っただけですよ」
将君は素直なんだか、素直じゃないんだか、わからない態度をとっていた。
しかし、それもまた子供らしくて愛らしい。
やはり、彼はもう少し子供のままでいてほしいと思った。
それから俺たちは別れを告げて、職場へと帰った。
将君にあったことで久々に昔の職場のことを思い出してしまった。
当初はいろいろと不満はあったものの、今では全てが懐かしい。
しかし、もう戻れないのだと自分に言い聞かせて、午後の仕事に勤しむことにした。