第11話 市子が会社に現れる
俺の日常は何も変わらないと、そう信じていた。
定時に出勤して、スケジュール通り取引先を回り、昼になったら沖田のプロテインバーを齧りながら会社のまずいコーヒーを飲む。
そして午後からは苦手な報告書を課長に提出するために勤しむ。
そんな当たり前の日常。
それが崩されたのは、ほんの一瞬だった。
「土方さん。取引先の方が土方さんを訪ねていらっしゃいますが、あのぉ……」
経理の新庄さんが気まずそうに俺に話しかけてきた。
今日は午後からの取引先との面会は予定していない。
突然の来訪とは何事かと入口に出迎えに行くと、そこに立っていたのは市子だった。
隣には里奈もいた。
里奈は「やほぉ」と手を上げて挨拶をしてくる。
俺は驚きすぎて言葉を失った。
「どう見ても女子高生にしか見えないんですけど、合ってます?」
新庄さんが俺に聞いてきた。
なんてこった。
こんな場所に市子が来るなんて。
確かに素性を明かした時に疑われないように名刺は渡したが、まさか直接来るとは思わなかった。
しかも、取引先などと何でそんなすぐバレる嘘をついたのか俺にはわからない。
真っ青な顔をしたまま、俺は2人を廊下の奥へと追いやろうとした。
要らぬ疑いをかけられたら大変だ。
しかも、このオフィスには大村さんだっているというのに、見つかればどう言い訳をしたらいいのかわからない。
よく見ると2人の後ろには、まだ人が立っていた。
俺の知らない人だ。
柄が悪く、ヤンキー上がりのような若い男。
こんな男が俺の取引相手なわけがない。
俺が不審な顔をして男を見ていると、市子の方も不思議そうな顔で俺を見つめる。
「小林よ。あんたたち知り合いなんでしょ?」
こ、小林さん!?
確か前、市子のフルネームを知っている件で誤魔化すために挙げた架空の人物。
まさか本当に知り合いの中にいて、しかもここまで連れてくるとは思わなかった。
想像していた人物より随分年上だし、何より柄が悪いのがいただけない。
女子高生である市子が、こんな奴と関わり合っているのかと思うと呆れてしまう。
しかし、そんな場合じゃない。
小林さんが来たということはここで俺と彼が初対面だとバレてしまう。
バレたら市子のフルネームを知っていた理由が説明できない。
俺はどうしたらいいのかと頭を抱えて悩んだ。
「小林! あんたの取引相手なんでしょ? 覚えてないの?」
市子は小林という男にそう話しかけた。
柄が悪そうな癖に市子にはへらへらと笑って腰が低い。
「いやぁ、俺、すぐ人の顔とか忘れちまうんですよぉ。土方さんでしたっけ? どこでお会いしやしたかね?」
小林は俺に近付いて質問してきた。
俺も知らねぇよ、初対面なんだからと心の中で叫ぶ。
しかし、ここは小林が忘れていることを利用するしかないと思った。
「忘れたんですかぁ、小林さん。先日、品川でお会いしたじゃないですかぁ」
俺は誰でも行きそうな場所を適当に選んで答えた。
すると、小林は怪訝な表情をして俺を見る。
「品川ぁ? 俺、品川にはあまり顔出すことないんですけどねぇ?」
一瞬にして小林の顔色が変わる。
まずい。
品川でなく、若者が好きそうな渋谷とか言っておけば良かっただろうか?
しかし、もう相手はしっかり疑っている。
このままでは、俺と彼が面識のない事がバレてしまうと思った。
すると、今度は市子が小林の腰を突っついて答えた。
「あんた、この間、じいちゃんのお供で品川行ってたじゃない。その時、知り合ったんじゃないの?」
「ああ、行きやしたねぇ。すっかり忘れてやした」
小林はそう言って手を叩く。
俺はその瞬間、助かったと胸を撫で下ろした。
本当にこの小林という男は、頭が弱いらしい。
お陰で何とか誤魔化し切れそうだった。
「そ、そうですよぉ。忘れないでくださいよ、小林さぁん」
俺も恰も知り合いのように装う。
こうでもしないと市子に殺されてしまいそうだった。
社会的にという意味で。
じゃあと言って市子はオフィスの中に入ろうとした。
俺はそれを必死で止める。
「ちょ、ちょっと、何入ろうとするんだよ!?」
俺は入り口に壁のように立ちはだかった。
まさかこの状態で職場訪問するつもりか?
こいつらの事を会社の人間にどう説明しろって言うんだよ。
いくら女子高生でもそれが迷惑だってことぐらい、理解できるだろうと思った。
しかし、そうでもないらしい。
「なんで止めるのよ。ここ、あんたの会社なんでしょ? なら、うちと取引したってことじゃない。私が顔を出して、何がおかしいのよ?」
「お前、何言って――」
そう言えば、俺は小林と仕事で知り合ったと言った。
それはつまり小林と仕事の約束事を交わしたということだ。
小林が俺のクライアントで、だから市子は訪問しようとしているのだろうか?
仮にそうだったとしてクライアントである小林が訪問できても、女子高生を一緒に連れ込むわけがない。
「とにかく今日はダメだ! ここは子供が来る場所じゃないんだ」
俺はひとまず市子を止めることを優先した。
小林にはまたこちらから伺うと言えば、話が通じるだろうと思ったからだ。
「子供なんて関係ないでしょ? うちとここが取引したってことは、ここがうちの管轄になったってことじゃない。だから、私がじいちゃんの代わりに、ここの社長に顔を出そうとして何が悪いの?」
うちの管轄?
何のことだ?
そんな言い方をしたらまるでマフィアのような……。
俺はこの間、MAGで市子と交わした言葉を思い出した。
確か、市子はあの時、カタギがどうだとか言っていなかったか?
命がないとか物騒なことも言っていた気がする。
そして、この柄の悪い小林という男。
小林に金を借りたのかとか、そんな話もしたような気がする。
もし、この男がどこかの組の人間なら今までの話も全部理解が出来た。
俺はこの小林を通して、市子の実家の暴力団と手を組んだ。
つまり、俺は反社と取引してしまったということになる。
大問題だ。
こんなこと会社にバレたら100%クビだ。
ここはどうにかして市子たちに、無理矢理にでも帰ってもらうしかない。
「そ、そう。今日は社長が出張でいないんだよ。君のおじいさん?にご足労かけるのもなんだし、今度俺の方からご挨拶に行くから、今日は帰ってもらえないかなぁ」
今はこう言って、誤魔化すしかない。
当然反社になんて訪問できないし、ここの会社員として挨拶に行くなどもっての外。
なんとかこの場を凌いで、今はとにかく市子たちに帰ってもらうしかない。
市子は不満そうな顔をしていたけれど、小林も面倒だったのか、「今日はいいんじゃないですかぁ?」と俺の提案にのってくれている。
よくやったと小林を心の中で褒めながら、俺は3人をとにかくこのビルから追い出そうと階段の手前まで追いやった。
そのタイミングで、誰かが階段を上がってくるのが見えた。
大村さんだ。
なんでこのタイミングで大村さんが外から帰ってくるのかと、絶句した。
女子高生2人と柄の悪い若者を相手にしている俺のこの状況を、一番見られたくない相手だったというのに、彼女にどう説明すればいいのだろうか。
そう戸惑っている間に、大村さんは俺たちに気が付いて顔を上げる。
市子と大村さんも目が合っているようだった。
大村さんは階段を上り切って、俺に優しい顔で尋ねた。
「こちらの方たちはどなたですか? 土方さんの御親戚の方?」
大村さんが天然で良かったと思った瞬間だった。
けれど、市子たちを目の前にして「そうです」とか、「ただの知り合いですよ」とか言えるはずもない。
市子も自分たちに対する対応の悪さに不機嫌になり、彼女の前で声をかけてくる。
「敏郎? これはどういうことなのよ!?」
俺はこの状態を全く解決出来ないまま、固まってしまった。