第108話 家族の絆を感じる
「土方さん、来てください!」
朝食を終え、片づけをしていると、廊下の向こうから馬越が俺に向かって叫んだ。
俺は何事かと顔を出す。
「なんだよ。俺、まだ皿洗いが残って――」
すると馬越は突然、俺のジャージの袖を引っ張って無理やり連れて行こうとした。
「そんなことやってる場合じゃないんすよ。門の前に、あんたの家族っていう二人が来てて」
「俺の家族?」
俺は馬越に引っ張られながら、脇玄関へと急いだ。
自分の家族と言われても思いつくのは姉貴の家族くらいだが、姉貴にはあの日、別れを告げたはずだ。
それにどんな理由で俺に会いに来たのかわからなかった。
「そうっすよ。しかも、その二人、総長に直接話がしたいって、総長の車の前で立ち往生してて、これ、マジで土方さんの家族だったらやべぇって思ったんっすよ」
馬越の言うように本当に俺の家族なら大問題だ。
俺も大急ぎで外履きに履き替えて、長屋門の前まで急いだ。
馬越が言うように入り口には総長専用のセンチュリーが停車していた。
そして、その前には二人の若い男女が車の進行を妨げるように立っている。
「おい、てめえら、そこをとっととどけ!車が出られねぇじゃねぇか!」
真っ先に出て行った楠が、その二人に叫んだ。
しかし、彼らは微動だにしない。
「晴香!それに勇志まで!!」
俺は二人に気が付いて、慌てて二人に近づこうとしたが、そんな俺を引き留めたのは市子だった。
彼女は既に制服に着替え、学校に向かう途中だった。
そして、晴香や勇志もまた制服姿だ。
市子の手が俺の腕を強く掴む。
「離してくれ、市子。今すぐあいつらを止めなきゃ、大変なことになる!」
しかし、市子は辛そうな表情をしたまま、首を静かに振った。
「敏郎は行ってはダメ。敏郎は家族と縁を切るって、組に誓ったんでしょ?こんな場所で二人に接触したら、誓いが嘘になる。それはもっと危険なことよ」
市子の言葉ではっとさせられた。
確かに彼女が言っていることは正しい。
俺は家族と縁を切ると約束したのだ。
ここで二人を庇ったら、その誓いは破られたことになる。
俺だけの処分になるならまだいい。
二人を巻き込むのはもっと危険だ。
それに、それは市子にも迷惑をかけることになるだろう。
「くそっ、どうしたらいいんだ!」
俺はその場で前髪を掻きむしった。
なぜ、二人が朝早くから小野組の邸宅に現れ、親父と話をさせろなんて言い出したのだろうか。
晴香はまだしも、それが危険ということぐらい、勇志にはわかっているはずだ。
「としちゃんを返してください!としちゃんは私たちの家族です」
そう言い始めたのは晴香だった。
勇志もそれを隣で黙って聞いている。
「あなたたちがどんな規則で縛ったって、としちゃんが私たちの家族であること変わらない。だって、この体に、この血の中にその証明があるんだから」
俺は晴香の言葉に言葉が出なくなってしまった。
まさか、晴香の口からそのような言葉が出るとは思っていなかったからだ。
どこかで家族であることを拒んでいた晴香。
俺を男として愛し、禁忌さえ恐れなかった晴香が誰かの前で血の繋がった家族であると、その真実が捻じ曲がることはないと主張している。
嬉しいと思うと同時に、やるせなかった。
家族という絆が、晴香をここまで動かし、今まさに危険を冒そうとしている。
俺は心の中で、俺のことは構わず逃げてくれと思った。
今ならまだ逃げ切れるかもしれない。
しかし、親父の車の中から伊東さんが出て来た時、俺は終わったと思った。
今日ほど、組に入ったことを後悔したことはない。
「おい、お嬢ちゃん。としちゃんっていうのは、土方敏郎のことか。あんた方は、土方のどういった関係だ?」
晴香は伊東さんを目にして、一瞬ひるんだが、すぐに目線を戻してはっきりと答えた。
「私は土方敏郎の姪の晴香です。としちゃんは組の掟のために私たち家族と縁を切ったんですよね。でも、そんなの意味ない。だって家族ってそういうものでしょ?掟やルールで縛ったって、家族という事実は絶対に変わらないんだから。そんな圧力で私たち家族は屈しない。それぐらい、としちゃんは私たち家族にとって大切な存在なの!」
その言葉を聞いて、伊東さんは驚いた表情を見せた。
俺は俺がここに乗り込んできた時以上に、恐怖と緊張で頭がおかしくなりそうだった。
晴香の気持ちは嬉しい。
けれど、だからってこんなことはしてほしくなかった。
「俺は甥の勇志です。大変恐縮ですが、叔父に伝えていただけないでしょうか。叔父がどんな立場になろうと、どんな人と関わっていようと、俺たちの関係はいつまでも変わらないと。叔父には今までもずっと俺たち家族を支えてきてもらいました。そんな叔父が自分の幸せのためにこの場所を選んだというのなら、俺たちは反対しません。けど、だからと言って、俺たちを守るために縁を切る必要なんてないんです。縁なんて言葉や約束事で繋がっているわけではないですよね。叔父がどんなに拒もうと俺たちは一生家族なんです。俺たちはそう思ってこれからも生きていきます」
勇志の目はまっすぐだった。
こんな威圧的な集団に囲まれて、怖くない高校生などいない。
けれど、ひるむことも後ずさることもなく、相手にまっすぐ向き合って、自分の率直な意見を述べている。
こんな不合理なこと、いつも冷静な勇志が言うとは思わなかったが、それは俺の思い違いだ。
勇志はおとなしい男だが、心の内側は誰よりも熱く強い男なのだ。
俺はそんな二人を見て、どう受け止めればいいかわからなかった。
すると二人の後ろから姉貴が必死になって走ってくる。
そして、後ろから二人の肩をつかんで、長屋門の前から遠ざけようと引き下げる。
姉貴は二人の前に立って、親父や伊東さんに向かって深々と頭を下げた。
「大変申し訳ございません!どうか、どうか、この子たちをお許しください。お願いします!!」
姉貴は必死だった。
今はただ、家族を守りたい一心なのだろう。
俺も心の中で許されることを願った。
すると、伊東さんは車の中にいる親父に小声で何か話しかけ、再び顔を上げた。
「親父は気にしていないそうだ。けどなぁ、俺からひとつ言わせてくれねぇか。あんた、土方の姉貴なんだろう。あんたの子供らがこんなに必死になって家族を取り戻そうとしている中で、あんたはそうやって自分たちの保身に走るのは違うんじゃねぇか?こいつらがやっていることは、褒められたことじゃねぇけど、その根性だけは認めてやる。そうだろう?」
姉貴は伊東さんの言葉に何も言えなかった。
ただ震えながら、二人の子供を守っている。
伊東さんが再び車に乗り込むと、車は静かに発進した。
その間、姉貴は深々と頭を下げ続けていた。
車が出ていくと、俺はゆっくりと3人に歩み寄り、静かな声で告げた。
「頼むからもう帰ってくれ。俺はもう、お前らとは無関係なんだ」
晴香や勇志の気持ちは痛いほど伝わっている。
それでも俺は自らこの道を選んだ。
だからもう、こうして家族に会うことはない。
たとえ、心の中で繋がっていようと、物理的に接することはないのだ。
そして、門は静かに閉ざされていった。
閉め切る前に、姉貴が顔を上げて俺に叫んだ。
「敏郎!私たちはずっと待ってるからね。私たちは敏郎の居場所だから!」
そして、門扉は静かに閉ざされた。
俺は何も言わず、その場で黙って佇んでいた。
そんな俺に市子がゆっくりと近づいてくる。
「……敏郎」
気が付けば俺は泣いていた。
泣きたいなんて一つも思っていないのに、涙が止まらなかった。
誓ったはずだろう。
決心したはずだ。
なのに、家族を目の前にした時、それがとても恋しくなった。
目の前で必死に訴える晴香や勇志を強く抱きしめてやりたかった。
でもそれはもう、叶わぬ夢だ。
こうして、あの3人が助かったことだけでも幸運だったと思えばいいのに、どうしてこんなに寂しさを感じてしまうのだろう。
市子はそっと俺に寄り添って後ろから抱きしめてくれた。
家族っていったい何なのだろうか……。
俺は家族に苦しめられ、同時に家族に救われてきた。
俺が選んで来た道は正しくなかったのかもしれないけれど、それでも俺はこのまま歩みを止めるわけにはいかない。
優しく包んでくれる市子の手を重ねて、しばらくの間泣いた。