第102話 総長である親父に進言する
俺は市子と島田さんを連れ、総長のいる控室へ向かった。
控室の前に市村が控えていて、俺たちが近づくとゆっくりと目線をこちらに向けた。
「土方さん。それに市子お嬢様まで。何か御用でしょうか?」
彼は優しげな表情で尋ねた。
しかし、その微笑とは裏腹に、全く隙がなかった。
彼がただの会計部課長という役職を持つ男ではなく、俺と同じように総長、そして小野組という組織に忠誠を誓った一人だと感じた。
「総長……、いや、親父に話がある」
そうはっきりと告げると、市村は一瞬、無表情で黙り込んだが、すぐに表情を変えて俺に告げた。
「そうですか。少々お待ちください」
彼はそう言って襖越しから親父に声をかけ、中に入る。
数分間話し込んだ後、静かに襖が開き、市村は俺たちに声をかけた。
「お待たせいたしました。謁見のお許しをいただきましたので、どうぞ、中へ」
俺たちはその案内に従って部屋の中に入った。
先ほどほどの大きさはない六畳ほどの部屋だが、十分に豪華絢爛な和室だった。
その中央、上座に向かって背を向けるようにして、親父が和室椅子に座り、ひじ掛けに肘をかけていた。
少し砕けた様子だったが、前に立つことをためらうほどの重圧感は十分にあった。
そんな親父の隣には一人の女がいた。
きれいな着物を着た美しい女性ではあったが、年齢はおそらく俺とそう変わらない。
女は俺たちを見てから親父に会釈をし、いそいそと部屋を出て行った。
親父は一度椅子に座り直し、咳払いをした後、俺の名前を呼んだ。
「敏郎。話とは何だ」
俺はすぐさま親父の前に正座し、頭を下げる。
その後ろには、市子と島田さんも並んで座った。
「親父にお願いがあって参りました」
「お願い?」
俺の突然の申し出に親父も驚いていたようだ。
少し考えた後、親父はゆっくりと答えた。
「よい。述べよ」
俺は再び深々と頭を下げ、落ち着いてゆっくりと告げた。
「市子様を、親父のご令孫を大学に行かせていただけませんでしょうか」
その言葉に驚いたのは親父だけではなかった。
後ろにいた市子や島田さんも驚いている。
俺のこんな立場でそんなことをお願いできるはずがないのだが、もうこのタイミングしかないと思ったのだ。
「お前は市子を哀れんだのか?お前のせいで、市子が未来を投げ打ち、次の後継人の女に成り下がることが。情けない男よ。そんなことでしか、女を守れぬのか」
親父は俺が市子を哀れんで、こんな頼みごとをしていると思っている。
けれど、それだけの思いで申し出たところで親父が話を聞くとは考えていなかった。
「お言葉を返すようで申し訳ございません。しかし、私が市子様を哀れんでいるわけではございません」
俺はしっかりとした目線で親父を見据えた。
後ろにいる市子が息をのんでこちらを見ているのがわかる。
俺は親父の返答が来る前に答えた。
「現在の小野組、ひいては組織全体において、人手不足が喫緊の課題として浮上しております。この時勢、ただ人員の数を増やすだけでは、効率的な問題解決には繋がりかねると思っています。
となれば、性別や年齢に関わらず、使えるものはすべて使い、それぞれの能力を最大限に引き出すことこそが、これからの組の存続と発展に不可欠であると確信しております。
故に、市子様には、ただ後継人という立場に収まるだけでなく、大学に進学していただき、経済や法律の専門知識を習得していただきたいのです。これにより、彼女の存在は組の未来を担う上で、新たな戦力、そして組を盤石にするための戦略的な一手となるでしょう。組の存続と繁栄のため、今こそ、あらゆる可能性を追求すべきであると存じ上げます」
その言葉を聞いて、一瞬親父の眉間に深い溝を作ったが、すぐに大きな声で笑い始めた。
「お前はつくづく、妙なことを言い出す奴だな。しかし、組織における人手不足は、確かに懸念材料だ。お前の言うことも、分からぬではない」
そして、その後、親父の目線は市子の方へ向かう。
その瞳は、市子の内奥を見透かしてしまうのではないかと思うほど、鋭いものだった。
「どうだ、市子。お前にはその覚悟があるか?ただ、大学に通うのではない。お前は組織にとって、使える『駒』として学びに行くのだ。女であるお前がこの組織の中で立場を得られるほど甘い世界ではない。だが、お前は次なる長の為に働き、長の為に知恵を絞れるのか?」
その言葉に市子は一瞬ためらいを覚えたが、すぐに意を決して頭を下げた。
「覚悟はございます」
その言葉は力強く、彼女の決意の強さを感じるような重みのある声だった。
ならよいと親父は俺たちを下がらせた。
少しの間考えるということらしい。
俺たちはもう一度親父に頭を下げて、部屋を後にした。
俺たちがその場から離れ、市村に話が聞こえないぐらいの場所に来ると、後ろから付いてきていた市子が俺の裾を思い切り引っ張ってきた。
俺は驚いて振り向くと、市子が怒った表情で立っていた。
「どうして、私の相談もなしにじいちゃんにあんな進言したの?大学に行かないと決めたのは私よ。敏郎が私に負い目を感じて頼み込むことじゃなかったわ」
俺は市子の方へ向き直して、彼女の肩をぐっと掴んだ。
彼女の顔は明らかに驚いている。
「そうじゃない。これは負い目なんかじゃないんだ。俺はただ、市子に多くの可能性のある未来を失ってほしくなかっただけなんだ。女の人生は子どもを産むだけじゃない。それ以上の人生が待っている。市子が知恵や知識を身に着ければ、組での立場も変わっていくだろう。もうカタギに戻してやることはできないけれど、市子に一生日の目を見ない人生なんて送らせたくなかったんだよ」
「……敏郎」
市子もやっと俺の想いに気が付いてくれたのか、表情が一気に和らいだ。
そうだ、俺は市子に幸せになってほしい。
これからは勢力争いという内部抗争が始まるだろう。
情けない話だが、そこで生き残る自信など、今の俺にはないのだ。
ならばせめて、市子にだけでも逃げ道を作ってやりたかった。
親父がもし、この世からいなくなった時、この組織の中でも市子は完全な孤独になってしまう。
それではあまりに残酷だ。
俺たちは互いに見つめ合う。
市子は俺を思い、俺は市子を思って生きている。
それが通じ合えただけで嬉しかった。
「大変恐縮ではございますが」
突然、島田さんが俺たちの間を割るように入ってきて、咳払いしながら告げた。
俺は慌てて市子から手を放し、お互いに若干距離を取る。
「宴の席で若頭がお待ちです。他の組員の方々も気にされている頃でしょう。お急ぎください」
島田さんの言うとおりだ。
俺は覚悟を決めて、宴の席へと急いだ。
宴の座敷の襖は開け放たれていた。
その入り口にはぞろりと並んだ厳つい表情の男たち。
おそらく彼らは他の組員の護衛か何かだろう。
俺がその場所を通ると、男たちが殺気に満ちた目線を向けてくる。
オオカミに囲まれた野狸のような気分だ。
俺はそこから座敷に入り、伊東さんを探した。
伊東さんも俺にすぐさま気が付き、手を上げた。
「おお、やっと来たか。まあ、座れ」
伊東さんはそう言って俺を隣の席に招いた。
その瞬間すらも多くの組員や幹部の鋭い目に晒された。
俺はどぎまぎしながらも伊東さんに近づき、指定された席に座った。
席に着いた瞬間、伊東さんに徳利を傾けられたので、反射的にお猪口を手にしてご相伴に預かった。
その時に感じた、向かい側にいた統和会傘下の組長たちの目線。
冷たく、元カタギである俺を蔑むような目線だった。
当然、奥にいる山南も俺を歓迎するムードはない。
俺にいい意味で興味を示しているのは、伊東さんだけのようだ。
「まあ、気にすんな。最初はこんなもんだからよ。俺も親父と盃を交わした時はこんな感じだったなあ。疎外感が半端ねえんだよ」
酒を飲んで上機嫌なのか、そう言って伊東さんはげらげら笑った。
伊東さんほどの威厳のある優秀な人でもそうなのだから、この世界は想像以上に厳しいのだろうと感じた。
「おめえが入ってきたら、話しておこうと思ったことがあったんだよ。俺とお前は今日からライバルだからよ。お前に俺の過去を教えてやる」
その声はからかっているようで、同時に闇を感じる深く重い声だった。
俺はごくりとつばを飲み込んで伊東さんの話を聞いていた。