八
急な川を遡ってゆくと、あるところで辺りに霧が立ち込めた。
伸ばした腕の先も見えなくなるほどに濃い。先行していた小雷は次に飛び移る岩を見失い、動けなくなった。
「攸?」
不安になって男を呼ぶ。それほど離れていたわけではないため、すぐに相手も霧の向こうから呼び返した。
間もなく攸が小雷を見つけ、はぐれぬうちに肩に乗せる。
「妖怪の仕業じゃないだろうな? 小雷、わかるか?」
「うんと、水璃は水を操る妖怪だから――そうだ、霧を吐くんだ。霧は結界になって、相手を出られなくする」
「水璃が近くにいるのか」
「いない。水璃は竜になれるくらいすっごく強いんだぞ。近くにいたらもっと気配がする。ここに結界を張っといてるだけだ。たぶん」
「するとこれは城壁みたいなもんか。普通に歩いてても霧は抜けられないんだな? どうすりゃいい?」
「爸は雷一発で破った。最強だから」
「よし、やるか」
攸は右手でむんずと毛玉を掴む。
「投げる気か⁉」
今度は直前に気づけた。体全部で攸の腕にしがみつき、小雷は頑として離れない。
「ここで立ち往生してても仕方ないだろう」
「どこ飛んでくかわかんないんだぞ⁉ 着地でぶつかるのほんとにすっごく痛いんだからな⁉ 我にばっかやらせないでお前がなんとかしろ!」
「俺にどうしろってんだ。こっちは妖怪なりたてで妖術もなんも使えねえのに」
「やーだーっ‼」
どんなに拒否したとて結局小雷がやるしかないとしても、今は嫌なのだ。力の限り腕に爪を立ててやれば、さすがに攸も観念した。
「わかったわかった、小雷、わかった。俺に考えがある。今思いついた」
攸はその場にしゃがみ、わめく小雷をなだめすかして足元に下ろした。
そうして帯と、両腕に篭手がわりに巻いていた布を取り、繋げて一本の紐にする。さらにその端を小雷に握らせた。
「なにする?」
「練習しよう」
「なんの?」
「お前が雷になって狙ったところに駆けるための練習。俺は妖術指南なんぞはできないが、武器の扱いならよく知ってる。例えば弓を射る時には、弓引く手から的まで一本の糸で繋がってる想像をすると当たりやすい」
「なにゆってるかわからん」
「聞け。俺がこっちの端を持っててやるから、お前は雷になってこの紐を辿って駆けてみろ。地面にぶち当たる前に受け止めてやる。それなら痛くないかもしれないだろ?」
「そんなことできるのか?」
「わからんが、やってみる。ただし勢い余って俺を殺すなよ。加減しろよ。いいな? やる時はやるって言ってからやれよ」
何度も念を押し、攸は紐の端を持って慎重に後ずさる。すぐにその姿は霧の中に見えなくなり、汚れた紐がぴんと張られた。
「小雷、お前自身が矢になるんだ。紐の上を走ってみろ。いつでもいいぞ」
「ひもをはしる……?」
遠くに狙いをつけるのでなく、そこまでの軌跡を意識する。実際、この霧の中では紐しか目印にできるものがない。
痛いのはもうたくさんだったが、少しちがうやり方を示され小雷はほんのわずかに興味が湧いた。
躊躇の末、一回くらいは試してやってもいいかと思う。
「いくぞ!」
紐を放し、それが落ちるより速く雷光に変じて駆けた。
まっ白になる視界の中、意識した紐の筋だけが薄い影のように見えている。その上を辿って、影が途切れるところで変化を解く。
「――とぃっ!」
雷光が毛玉に戻った瞬間、攸は脇で小雷を捉えた。勢い余り、岩の上で回転し尻もちをつく。
小雷は逆さまになって、攸の股の間にずるりと落ちた。
「……おー?」
どこも痛くはない。
攸が受け止められたということは、狙った軌道で小雷が飛べたということだ。
それでも一瞬で飛んでくる毛玉を掴むなど常人のできる芸当ではないが、これは攸が妖怪になったからできた、というわけではない。この男の持つ天賦の成せるわざであった。
「見ろ、小雷」
小雷の駆け抜けた後、霧がちょうど大きな包丁を差し込まれたかのようにぱっくり割れている。どうやら小雷の雷でも結界は破れそうだ。
「この練習法で良かったみたいだな。自分ではどうだ?」
攸はひっくり返っている毛玉をまともに戻す。とりあえず痛くはなかったので、小雷の機嫌も損なわれなかった。
「うん、まあ、悪くないかな。なんとなくわかった気がする」
などと、やはり調子に乗り出す。
攸は生前、己の子を持たなかったが、いくらかの人生経験から、子に何かをやらせたい時は調子に乗らせるのが良いことを知っていた。
「霧の中なら襲ってくる敵もなさそうだ。もう何度かやってみよう」
ここまでは良かった。小雷も嫌だとは言わなかった。
しかし、小さな雷の生んだ音は風を破り、思わぬ遠くまで駆けていき、この地の支配者のもとまで届く。
間もなくして、視界を覆っていた濃い霧が勝手に晴れた。
「なんだ?」
辺りの景色も様変わりしている。
そびえ立つ岩壁を彫って作られた石の宮が現れた。その傍に落ちる滝つぼが、これまで辿ってきた川の源だ。
そこには、小雷が総毛立つほどの冷気が満ちていた。
「――水璃だ!」
叫んだ途端、石の宮から大量の水鉄砲が噴き出した。