五
火の粉の爆ぜる音がしていた。
夢うつつに、小雷はどこぞで山火事でも起きているのかと思う。
雷になった雷来が落ちると、時々そういうことがあった。
雨雲より生まれ火を生む雷は、水気と火気のどちらもあわせもつ。よって小雷は火の気が嫌いではない。なにより、温かい。
気持ちよく寝返りを打つと、何かが頭に触れてきた。乾いて広がりはじめた髪をどうやら誰かがいじっている。ふわふわの毛の感触を楽しんでいるようだ。
「ん~っ」
うっとうしくなった小雷は寝ながら腕を闇雲に振った。
安眠を妨害されるのは好まない。特に今はひどく疲れているのだ。
邪魔な手を払い、また少し眠った。
そうして、ある瞬間に突然眠気が消え、飛び起きた小雷の傍には、まったく知らない顔があった。
「なんだお前!?」
「おうおう。暢気に寝こけておいてまあ」
相手は苦笑していた。
その者は目鼻口があり、手足があり、まるで人間のような姿である。上着を脱いでいるため厚い筋肉がわかる。雷来と同じ、戦う者の肉体だ。
しかし顔は黒目が大きくやや幼げで、鋭い牙も爪もなく、特に恐ろしげなところがない。
気配を嗅ぐと、湿気た土のような匂いがした。
(雨の匂い?)
小雷はそう思った。特に嫌なものではない。
それにしても見たことのない妖怪だ。
小雷は目の前の相手が危険な輩なのか、そうでないのか咄嗟に判じられず行動に迷った。
男はそんな小雷の警戒をよそに、先ほどまで敷布団になっていた上衣を羽織る。
小雷は、自分が川で力尽きてしまったことを思い出した。それが今は崖の途中にぽっかり空いたどこかの岩窟の中にいる。
下に川が流れ、辺りは靄に覆われている。明るさからして朝になっていることがわかった。
小雷をここに運んで寝かせたのも、焚火をおこしたのもこの男だろう。
「お前、なんだ?」
もう一度尋ねた。
すると男は短い黒髪をがしがしと掻く。
「そいつは俺にもよくわからん。元はと言えば人間の、まあ、なんだ。攸という名の平凡な男だったさ」
「人間? なんで人間がいるんだ?」
「だから、もう人間じゃなさそうなんだよなあ」
「なんだそれ」
小雷がいるのは幽界。
かつて雷来が帝の置いた門を破ったために、開きっぱなしになっているそこから人界との出入りは容易いが、非力な人など幽界ではたちまちに喰われてしまう。
ゆえに小雷も人間を間近に見るのは初めてだった。上空から雷に追われているところを雷来と一緒に見たことはある。
「かいつまんで言えば、俺は人界でいっぱしの将をやってたんだが、なぜか叛心を疑われて処刑されてな」
「ショケイって?」
「殺されたってことだ。釜で茹でられた。確かに死んだはずが、どういうわけか生き返った」
「生きてるなら死んでないだろ」
「普通の人間は茹でられたら死ぬんだよ」
「ふうん?」
「起きた時には土の下にいたからな。死んだことには死んだんだろう。心当たりが一つあるとすれば、処刑前夜に隣の牢にいた爺さんに妙な丸薬をもらったことくらいだが」
腕組みし、なにやら深刻そうに男は唸っていた。
「爺さんの顔やら話した内容やら、細かいことはどうも思い出せねえ。ただ小さな丸薬をもらって飲んだことは覚えてる。たぶん俺は妖怪か、もしくは仙人にでもされたか」
「お前が仙人?」
小雷の世界における仙人とは、厳しい修業の末になるとされている神の一種。生まれながらに天にいる神より格は落ちるが、不老不死となり妖怪でなくとも空を自在に飛んだり、その場にいながら千里先まで見通したりできる。
決してそこらによくいるような存在ではない。
この攸と名乗る男を小雷はさほど特別なものには感じなかった。ただの人間と言われれば、それが最も雰囲気に近い。
「あれは仙丹ってやつだったんじゃねえかな。死んでからだいぶ経つが、腹は空かねえし眠くもならねえ」
「空飛べる?」
「いや無理だが」
「じゃあ、ちがうと思う」
「飛べなきゃちがうのか。やっぱ妖怪あたりが関の山かぁ」
男は残念そうだった。
「妖怪になったからこっちに来たってこと?」
「そういうことだ。で、川に落ちてたお前さんを拾った。俺はここらに来たばかりでよくわからんのだが、なんかあったのか? きのう、おかしな鳥が飛んでから妖怪どもが妙に騒がしい」
途端に小雷のふわふわの髪の先がしょげた。自身の現状を思い出して膝をついてしまう。
「おい、どうした」
攸は本当に何も知らないらしい。
生意気そうな様子から打って変わって、今にも泣きだしそうな幼子姿の妖怪を純粋に心配しているふうだった。
こんな人間に話したとてどうなるわけでもないが、小雷はぽつぽつと事情を語った。他にこれからすべきことが、まったくわからずにいた。
人界からやってきた攸でも雷来の名は知っていた。
それは時折現れる災厄として、畏れとともに何百年も昔から言い伝えられている。ただ、その災厄にいとし子がいたことまでは知らない。
すべて聞き終え、攸は小雷に問いかけた。
「それで、お前さんはどうする気だ?」
死んで妖怪になったと言っても、攸はほとんどの部分が人間のままである。事情を聞いたところで、闇吞とやらに小雷を献上し、自らを庇護してもらおうなどという発想には至らなかった。
「どうしょうもない」
小雷はいじけてうずくまる。
ただひたすらに、怖かった。
「仇を討とうとは思わんのか」
「カタキって?」
「……そういや妖怪は六徳を持たんのだったか」
攸は少しばかり憐れむ気色を顔に浮かべた。
「父亲を殺した者をこのままにしておいて良いのかと聞いている。死ぬまでそいつから逃げ続けるのか?」
「知らないっ」
「知らずにいられるか。お前自身のこれからをお前が決めずにどうする」
「そんなことゆったって決めようがない!」
小雷は震えながら、攸を精一杯睨んだ。
「わ、我は爸みたいに戦えない。戦ったこともない。最強の爸を喰うような奴、我じゃ、敵わない……」
殺せるのならばいくらでも殺そう。
しかし黒い恐怖が身も心も凍り付かせる。あれにはどうしたって勝てないのに、小雷が一体何を決断せねばならないというのか。
「お前も喰われて良いと?」
「いいわけないだろ! けど、けどっ」
「喰われたくないなら、戦うしかないだろう」
結論を攸が言ってしまう。
小雷は喉からぐうと鳴いた。
「仇の意味がわからんならそれでいいさ。いずれにせよ生きるためにはそいつを殺さねばならん」
「ムチャゆうなよぉ……」
「まあな。今のお前さんは大将首を取られた敗残兵だ。まずは態勢を立て直さねばな。――ところで、本当に戦えないのか? 雷来大王は巨大な雷に変じて地上に落ちると伝承に聞くが」
「……雷になるのは、できるけど」
「そうか。なら希望が持てるな」
攸が腰を上げた。
その見つめる先、靄の向こうに黒い影がある。
煙臭さと獣臭を放つ、九つ頭の狼が、いた。