四
「雷来、敗レタリ! 闇吞大王ガ喰ッタ! コノ地ノ妖怪ハ皆、大王ニ服従セヨ!」
それは小雷の見たことのない妖怪だった。
カラスのようだがカラスよりも二回りは大きく、けたたましい声がどこまでも響き渡る。
「雷来ノ子、小雷ヲ大王ニ献上スルノダ!」
それから鳥は何度も同じ言葉を繰り返し、飛び去っていった。
(爸が負けた……?)
小雷には信じられない。そんなことは絶対に起こり得ないはずだった。
「う、うう嘘つくなバカぁっ! 爸は最強なんだぞ! 負けるわけないっ! そんなの嘘だ!」
影の通り過ぎた空に向かって懸命に叫ぶ。
声高に言えばそれが事実に置き換わると思い込みたかった。
しかし雷来が本当に生きているならば、このような侮辱を喧伝する鳥は一瞬で灰になっているはずだ。なのにいつまで経っても鳥の声がやむことはなかった。
小雷はまたグズグズと泣き始める。
「っ、爸は最強でっ、爸は、爸は……わ、我がいなきゃ、負けたりなんか」
その時、ぬるりと首筋をなでるような気配を感じた。
急いで振り返り、薄闇に目を凝らせば、たくさんの妖気が草陰に窺えた。雷来の縄張りにいた妖怪たちだ。
それらが遠巻きに小雷を見ている。
小雷のイタチのような尻尾の毛がぶわりと広がった。
闇から目をそらさずに少しずつ後退する。
小雷が下がると、気配の輪が狭まってくる。
(こいつら、我を捕まえる気?)
先ほど鳥が喧伝していたことを忠実に果たそうというのだろう。
妖怪たちはより強い力に従う。まだ闇吞が何者なのか誰も知らないが、取り入るならば手土産は必要となる。
雷来に甘やかされて、威張っているだけの小雷の力量を妖怪たちは皆、知っていた。雷来が死んだ今、もはや枷はない。
「――っ」
あるところでついに小雷は駆け出した。
途端に、隠れていた気配が津波のように背後に迫り来る。
小雷は雷に変じることなく、短い足を素早く回して岩場を跳んでゆく。これでもそれなりに速いが、追手を振り切るにはあまり十分でなかった。
(爸、爸、爸っ)
心の中で小雷はずっと呼び続けていた。
まだ信じられない。それでも、闇に呑まれかけている雷来の姿が脳裏にこびりつく。
恐怖そのものに追いかけられ、小雷は必死に走った。
木々の生い茂る山中で小さな幼子の体は利点にもなる。速さでは振り切れなくとも、小雷は藪の下に潜り込み、最初の追手をやり過ごした。ちょうど傍に満開の木蓮があり、匂いも多少それで紛れた。
「どこに行った?」
藪の下に小雷は伏せ、息を殺す。少しの気配も勘付かれてはならない。
辺りをうろつく妖怪たちの様々な足が隙間から見えた。
「あのガキは力が弱過ぎてよくわからん」
「雷来大王はどこにおられても妖気が身を突き刺してくるようであったのになあ。それがもはや感じ取れぬのだ、やはり喰われたというのはまことであろうよ」
「埒が明かん。鼻の利く奴を連れてこよう」
「ならば九頭あたりか」
気配の塊がどこかに行ったのを見計らい、小雷は藪から身を出した。
「ここにいらしたか」
そして頭上からかけられた声に思いきり跳び上がった。
まるで伸びた餅のような妖怪が覗き込んできている。まっ白な体に口だけがあり、根元はどこかに繋がっているようだ。
小雷が駆け出す前にすばやく回りこみ、「私はお味方です」などと言う。
「み、みかた?」
小雷は後ずさって背後の木にへばりつく。そこを白い妖怪が尾を引きながら一周した。
「えぇえぇ、塗籠と申します。まさかまさか、雷来大王が喰われたとは信じ難い。きっときっと恐れを知らぬ雑魚妖怪の虚言にございましょうとも」
「……そう、思う?」
「えぇそうでしょうとも。ささ、こちらへ。大王のお迎えまで愚か者どもから御身を隠されよ」
小雷は塗籠に誘導されるまま、おずおずとその後に付いていった。よく知らぬ妖怪だったが、今はなんでも良いから助けがほしかった。それにあれだけの強さを誇った雷来を信じる子分がいたとておかしくはない。
「ささ、この中へ」
塗籠が指したのは、大木の根元に掘られた巣穴であった。熊も出入りできそうな広い穴の口の奥から塗籠の餅のような体が伸びていた。
中は真っ暗で、夜目の利く妖怪でも容易には見通せない。なにやら空恐ろしく、入口でにわかに小雷は怖気づいた。
「こ、ここにいたら見つからない?」
「えぇえぇ、しかとしかとお守りいたしますとも」
「本当に?」
「えぇえぇ」
にやつく口が不気味に見えてきた。
なおも迷っていると、業を煮やしたように塗籠が小雷の背を押した。
「わっ」
小雷は穴に転がりかけて、直前に横合いから襟を引っ張られた。
するとそれを追って穴の奥から巨大な白い化け物の大口が飛び出し、間一髪、上下の歯が空を噛んだ。はじめに小雷をおびき寄せた塗籠はその化け物の額から生えていた。
小雷は袍を引っ張った者と揉み合うように地に転がった。
その相手は、四つの緑の瞳を持っている。
「四目!」
「こっち!」
四目はすぐさま小雷の手を掴んで走った。
「チッ、邪魔をするな!」
その後を塗籠の本体が追おうとするが、突如、雷音が辺りに響き、素早く巣穴の中へ身を引っ込めてしまった。
雷来の元子分なればこその抗えぬ反射である。死んだと聞けども畏れが消えるわけではない。
「鳴鳴!」
小雷はもう一匹を呼んだ。
木から降りた鳴鳴も四足で駆け、先の二匹に追いつく。
嘘の雷音は危機を脱する助けとなったが、同時に小雷を探す妖怪たちを引き寄せることになるだろう。
小さな三匹は草陰に飛び込む。
そこで四目は己の頭をぱぱぱと叩くや、元の赤みの強い髪色を白金色に変えた。さらには髪を逆立て、遠目にはまるで小雷のようになる。背丈もちょうど似通っていた。
「我と鳴鳴で小雷のフリをする。小雷はその間に縄張りの外まで逃げろ」
小雷は驚いた。四目と鳴鳴が駆けつけてくれた瞬間から、ずっと驚いている。
「な、なんで?」
「雷来大王が喰われたのはほんとなんだろ」
小雷は息を呑んだ。
冷静に事実を突きつけてくる四目を前に、止まっていた涙が溢れ出す。
「ふ、ぐぅぅっ……」
こらえきれない嗚咽が漏れた。しかし妖怪たちはどんなに幼い見てくれでも、同情して共に泣くなどということはしない。
「小雷は弱いくせに偉そうだからみんなに嫌われてる。ここにいたって喰われるだけだ」
「そんなの知ってるぅ!」
「しー」
鳴鳴が小雷の口を塞ぐ。その手を小雷は無理やり剥がした。
「そうだよっ、爸がいなかったら我はなんもないっ。雷も落とせないし空も走れないし、子分どころか自分のことだって守れないっ。お、お前らだって我のこと見捨てるんだっ」
「じゃあわかった、今から小雷は我と鳴鳴の子分な」
「ふぁ?」
「ほんとの小雷は弱いんだからいいだろ? 我は親分として子分を守ってやる」
ふん、と四目は鼻を鳴らした。
小雷はぽかんとしている。そのぼわぼわした頭を鳴鳴が「子分、子分」と嬉しそうになでていた。
「我はあの黒いやつを大王にしたくない。雷来大王は怖かったけど、わけわかんない怖さじゃなかった。小雷以外はどうでもいいと思ってるだけでわかりやすかった。でも、あの黒いやつにはそういう決まりが見えない。全部に怒ってる。あいつはきっと誰のことも生かしておかない。最後はみんな喰われる。我にはわかる」
四目は四つの瞳であらゆることを見通す。
それが今すべて、小雷にまっすぐ向けられた。
「さっきほんとの小雷は弱いってゆったけど違うぞ。雷来大王の子が弱いわけない。今は仕方ないから子分にしといてやるけど、小雷は後でちゃんと我たちの親分になれ」
「なれ、なれ」
「う、えぇ?」
小雷は困ってしまった。自分が弱いことはもうわかりきっているのに、四目たちはそれを許してくれないのだ。
二匹は左右から小雷に抱きついて、ぐりぐり頭を押しつけ匂いを移す。十分に付けられたら、離れてしまう。
「待って四目、鳴鳴っ、おいてかないで!」
親分でない小雷はもう命令できない。四目は伸ばされた手を振り払った。
「川をのぼって山を越えろ。水の中なら九頭でも追えないはずだ。またな、小雷」
「またなー」
茂みを出て二匹は行ってしまう。
いくらか離れたところで、鳴鳴がまた雷の音をまねて鳴く声が聞こえた。それを追っていく複数の妖気も感じられた。
小雷は奥歯を噛み締めて耐え、やがて辺りが静まってから、四目たちと反対方向へ走り出した。
「っ……うぇっ、ぁっ」
息を切らせながら合間に嗚咽を漏らすので苦しい。
四目の忠告どおり川に入り、冷たい飛沫に震えながら、川床から突き出た岩を跳び、流れを遡っていく。
足場は当然、濡れている。小雷は疲れから一瞬気を抜いてしまい、ある時には滑って川に落ち、流されて底の岩に何度も体を打ち付けられた。
途中、大きな岩にぶつかりやっと止まった。水から上がると、毛玉のような髪は濡れてしょぼくれてしまい、尻尾も針金のように細い。
小雷はひどく惨めな気持ちになった。
もはや泣き出す体力も残っていない。走って、隠れて、痛い思いをして、四目たちを囮にし、今は独り。もう休みたかった。
「爸ぁ……」
情けない声は山の深い夜に呑まれて消える。
白々した月が中天に昇ってきた。
その冷たい光に震え、小雷は、やがて力尽きた。