三
上空を飛んでいた金色の大鵬が陽を横切った時、黒い妖怪は伸び上がってそれを掴んだ。
紙のように容易く折れる羽。
甲高い悲鳴を上げる鳥の頭から丸ごと、呑んでしまった。
崖にいた妖怪たちは物音一つ立てず、呑まれゆく鳥を見ていた。
動けはしない。見つかれば喰われる。
己より強い存在、それすなわち死を支配する者だ。今、小雷たちはこの得体の知れぬ黒い妖怪に命を握られた。
金色の鳥は無限の胃の腑へ落ちて、さらに濃さを増した闇が目の前に開かれる。
「我が肚に還れ、禍の子らよ」
上から口が落ちてきた。
牙が地面を抉り、岩ごと妖怪たちを飲み込む。大地を舐めるように食みながら進んでいく。
「キャア!」
老蛙に止められても無理だった。小雷たちは蛙の細腕を振り払って逃げ出す。
すると黒い猪の鼻先がそちらを向いた。
「小雷」
闇が呼ぶ。
小雷はその瞬間に、まるで縛られたように手足が固まった。
地に転げた体がびりびりする。妖術などが使われたわけではない。ただ得体の知れぬ闇に名を知られていることの恐怖が、このちっぽけな妖怪を縛ったのだ。
「――天の匂いだ。お前か、お前であろう、小雷」
黒い妖怪、闇吞は興奮しており、口より先に手を伸ばした。
小雷などネズミのようなものだ。片手で簡単に潰せてしまう。四目も鳴鳴もとっくに逃げていたが、小雷だけが動けない。
「爸……っ」
か細く鳴いた、その時だ。
激しい閃光が闇を引き裂いた。
小雷に覆いかぶさろうとしていた手がちりぢりとなり、真白な光の中に雷来が立っている。
ぶわりと広がった白金色の髪先から放たれる雷撃が、小雷の周囲に舞う闇の欠片を残らず潰した。
「爸ぁっ!」
雷来の雷を浴びた途端に小雷の体は動くようになった。
短い手足を目一杯に振り上げる。
それで雷来は我が子の無事を認め、振り返ることなく、そびえる闇に向かって駆けた。
雷撃により、闇吞の鼻から眉間にかけてぱっくり裂けた。
中からは血ではなく、真っ黒な泥が噴き出す。巨体を伝ってぼたぼたと地面に降った。
「ぐ、うぅっ」
「お前はなんだ?」
残った右手で額を押さえ、苦悶する闇吞の頭上にすでに雷来はいる。
見下ろす金色の瞳に冷徹な怒りが満ちている。
「死ぬまでに言え」
声を荒げないかわりに、天地を揺るがす轟音が三度闇吞の体を裂いた。
胸が割けてさらに濃い泥が流れ出る。だがその泥だまりはあるところで流れが止まり、今度は逆流を始めた。
「ふ、は、は」
笑う闇吞の体へ泥が戻っていく。最初に潰された左手も再生しようとしていた。
「雷来……雷来! 我の後に生まれ、我に続き天の裁きを受けた者っ……禍の薄れた地上において、なお天を脅かせる力は、お前だ。ゆえに」
闇吞は迎え入れるように、胸を広げる。
「我に喰われろ、雷来。ともに憎き天を滅ぼし尽くそう」
「間抜け」
繋がりかけた体をいくつもの雷撃が粉砕した。
闇の絶叫がこだまする。
「お前ごときに喰えるものかよ」
雷来自身も雷に変じて縦横無尽に宙を駆けた。
何者も雷を掴むことなどできはしない。
すると闇吞は何を思ったか、自らの腹に両の手を差し込み、落ちてくる雷来に向けて開いてみせた。
その無限の闇を籠めた腹中から、幾十匹もの黒い大蛇の形をした影が空へ勢いよく吹き上がり、宙をうねって雷来を追う。
大蛇はいくらでも闇吞から生まれ出でた。
一匹が追いつけなくとも十匹五十匹と雷来を囲い込む。
「はっ」
しかし、雷来はそんな必死の攻勢を嘲笑う。
まるで腕が千本あるかのような武神との死闘に比べればあまりにぬるい。
雷に変じるや、瞬きよりも速く大蛇の頭を残らず打ち抜き、闇吞の太い首を切り破った。
猪のような頭がぼとりと落ちた。
破けたところは焼け爛れ、中の泥も多くが蒸発している。
だが闇吞はまだ息絶えておらず、泥を伸ばしてどうにか首を繋げようとしていた。そこへ雷来が容赦なく雷撃を降らせる。
闇吞のしぶとさは並ならぬ妖力を身に蓄えているせいだろう。一方で、雷来も地上では無尽蔵の力を誇る妖怪だ。
天地の気を大いに吸い上げ、闇吞が再生する間もないほど速く、攻勢を緩めない。
「ははっ! いいぞ何度でも死ね!」
愉しくなってきた雷来はさらに激しさを増し、逆に閃光に晒され続ける闇はその身を失っていく。
「雷爸最強!」
小雷などは調子に乗って、腕を振り回していた。
地の底から出てきたはじめはあんなに強大に見えた妖怪も、雷来の前ではちっぽけだ。
もう怖いことなど何もない。
山のようだった体はすでにその半分にも満たないところまで砕かれてしまっている。闇の蛇を飛ばそうが何をしようが、闇吞では雷来を捉えられないのだ。
だが興奮していく雷来とは対照的に、闇吞はどれだけ身を裂かれようが、怒りも、悲愴も、悦びもない。
ただ揺るぎない憎悪のみを核としていた。
「――そう、そうだったな。光を掴もうとて、無理な話よ」
体を二つに割られて天を仰ぐ。
その腹から飛び出した格別大きな蛇が、木陰に向かった。
そこに、小雷はいた。
「えっ」
小雷としては、十分安全な距離を取っていたつもりだったが、避難するには蛇が速過ぎた。
小雷では逃げられない。
ゆえに雷来が宙を駆けた。
「爸!?」
黒い蛇は雷撃で潰した。しかし、着地と同時にその足元から湧いた影に雷来は横腹を貫かれた。
「落ちる場所が知れておれば、雷も捉えられよう。……あぁ、生き返るようだ」
地から出てきた触手のような影は闇吞に繋がっており、雷来の血を吸い上げている。
「こぉのっ!」
雷来が雷撃を放つが、太い触手は焼き切れなかった。
力がみる間に吸われてゆく。雷にも変化できない。
闇吞はさらに影の触手を増やし、地に縫い留められている雷来の体に次々と突き刺した。
「がはっ!」
雷来が血を吐いた。
その雷撃が触手に効かない。父から感じられる力がどんどん弱まっている。
小雷は目の前の事態がまったく呑み込めなかった。
「爸ぁ……?」
雷来は最強の妖怪だ。何が相手でも苦戦などありえない。
現に、ついさっきまで闇吞を圧倒していたではないか。こんなことで終わるはずがない。
終わっていいはずがない。
「小雷っ!!」
雷轟のような父の叫びに、小雷は飛び上がるほど驚いた。
その胸倉を掴んで、雷来は雷撃とともに小雷を宙に放った。
「駆けろっ!!」
木よりも高く空に上がり、小雷は逆さまの視界で闇に呑まれゆく雷来を見た。
白金の髪に血が散っている。
双眸を眦の切れるほどに見開いている。
予想だにしない、切羽詰まった父の姿だ。
小雷を逃がそうと、そのために力を使った隙にまたさらに何十本もの触手が体に刺さった。
同時に小雷のほうにも闇吞が黒い蛇を飛ばしており、小雷の尻尾に喰いつこうとしたその鼻先を、雷来の雷が打ち蛇を退かせる。
「爸ぁっ!!」
小雷は喚いた。
喚いたが、雷来の元に戻ることはしなかった。
雷来が捕まったのが自分のせいであることはわかっている。小雷は雷来の弱点だ。自分がいる時に父は最強になれない。わかっていたのに忘れていた。
老蛙に聞くばかりだった父の戦いぶりを間近で見たくなってしまったこと、地の底から這い上がってきたあの妖怪を侮ってしまったことを、後悔した。
遠く飛ばされ父の姿が見えなくなっても、雷の音はまだ聞こえる。あの状態でも雷来は戦い続けている。
弧の頂点を過ぎ空から落ちる小雷のほうには、一瞬退いた黒い蛇がまだ追ってきていた。
それらを早く振り切り逃げねばならない。そうでなければ雷来が負けてしまう。
(木、あ、あの木にするっ)
小雷は雷への変化ができないわけではなかった。
教わらずともやり方は生まれた時から知っている。
ただ、うまく制御できるかは別の話だ。
空中で一本の杉の木に目標を定め、小雷は閃光となって宙を駆けた。
「――フギャッ!」
一瞬後、小雷は地面に埋まっていた岩に顔面を叩きつけられた。それでも勢いが止まらず、二、三跳ねた拍子に谷へ転がり落ちる。
狙いをつけた杉の木とはまったく別方向に落下したのだった。
「う……ぁぁああ痛いぃっ!! 爸ぁっ、ぁぁあああっ!!」
谷底の石の間で、雷来がこないことを知りつつ転がりながら泣き叫ぶ。無駄でも叫ばねばとても耐えられなかった。
ただ、雷に変じて思いきり駆けたおかげで黒い蛇は振り切れた。小雷がどんなに喚こうが闇吞に見つかることはない。
小雷の泣き声に負けず、ここまで雷の音は響いている。
それが聞こえる限り、雷来の生きていることがわかる。
「爸ぁ……爸ぁ……」
小雷は日暮れまでグズグズと泣き続けた。
しばらくして雷音は遠くなり、辺りに薄闇が満ちる頃には何も聞こえなくなった。
そうなってからやっと小雷は身を起こした。
もともと丸い頬がさらに腫れてぱんぱんになっている。雷の聞こえていたほうの空を見上げ、掠れ声で、爸、とまた呼ぶ。
水面に大量の血を流したような、気味の悪い空の色であった。
(爸、勝った?)
敵を滅ぼしたから雷の音がやんだ。小雷はそう信じた。
だが、直後に黒い鳥の影が谷間の空をよぎった。
「雷来、敗レタリ! 闇吞大王ガ喰ッタ! コノ地ノ妖怪ハ皆、大王ニ服従セヨ!」