一
そこは千年変わらず無秩序な幽界。
空を飛ぶのは人の顔を持つ鳥で、口利く獣が二足で走り出す。あらゆる化生のものが蔓延る世を支配するのは、今も昔も純然たる暴力だ。
強者が弱者を制圧し、弱者は子分として強者におもねり、時に狡猾な者が下剋上を狙う。またはある日、突然新たに力を持つ者が生まれれば簡単に順位がひっくり返る。
まったく油断のならぬ幽界で、しかし能天気に暮らす妖怪が一匹、存在していた。
「――そんなものか、水璃!」
舌足らずな声が山中の川原に響く。
手ごろな大きさの石の上で、ふわふわとした白金色の小さな毛玉が、意気揚々と長い木の枝を振り上げていた。
その毛玉は暁のごとき真っ赤な双眼を持つ。
袍を着せられ、まるで三つかそこらの幼い人の子のような見てくれだったが、決して人の子でないことは尻から生えたイタチに似た尻尾でわかる。
川原には他にも二匹の化け物がいた。一匹は目の中に緑の瞳が二つある子供の姿で、一匹は下腹がぽこりと膨れた一つ目の餓鬼のような姿。
「竜ならば今すぐ飛んで我を捕まえてみせよ!」
毛玉の口調はやけに芝居がかっている。
「忌々しや雷来! 我が濁流で呑み込んでくれる!」
すると両目に瞳が二つずつある妖怪が応えた。
毛玉はこの小さな者を竜と呼んだのだ。
すかさず下腹の膨れた妖怪が口を半開きにして水の渦巻く音を出す。音だけが妙に現実味があり凝っている。この妖怪は声まねが得意なのだった。
要するにこの三匹の妖怪はごっこ遊びをしている。四つ目の妖怪の名は水璃ではないし、毛玉も多少見た目は似ているものの雷来ではない。ただ、どちらもすっかりなりきっていた。
「魚ごときに我が呑まれるものか! くらえ!」
木の枝を毛玉が勢いよく振り下ろす。下腹の膨れた妖怪が、ぴしゃん、と鳴いた。雷の音であろう。
四つ目の妖怪は大げさに「ぎゃあああ!」と叫んで川の中に仰向けに倒れた。
「……なんかちがうなー!」
わずかの沈黙の後、顔を上げた毛玉は不満げだった。
「鳴鳴、音が小さい。ずばばばーんってやって。爸の雷はもっとすごくすごいんだぞ!」
偉そうに声まね妖怪へ指図する。鳴鳴というその妖怪は、「えー?」と毛の薄い頭を掻いた。
「小雷、無茶言うなよ。雷来大王の雷の音を本気で出したら鳴鳴の喉が破れる」
ずぶ濡れで川床から起き上がり、四目という妖怪が冷静に言った。
しかし毛玉――小雷は納得しない。
「だって爸は最強なんだぞ! それに、そんなちっちゃい音の雷じゃ水璃を倒せない! 水璃はもうちょっとで竜になれるくらい強い水妖だったんだ! ね、老蛙?」
小雷は川下に同意を求めた。座って清流に足だけ浸し、日がな一日ぼうっとしているまだら模様の青蛙がいる。
長い白髭の生えた顎を杖の頭に置いて休んでいる。
しらみの湧いていそうな襤褸をまとい、体の大きさは人の子ほどもある、立って二足で歩ける蛙の妖怪だ。
一体いつから川辺に座っているのかわからないこの妖怪は、大変な長生きらしく、そのせいか普段は呆けていることのほうがほとんどだ。
小雷たちには老蛙と呼ばれ、たまに正気に戻った時には小さな妖怪たちが生まれる前の昔話を聞かせてくれるのだが、この時の老蛙は小雷の問いかけに「……んむぅ」と呻きを漏らしただけ。そもそも耳が聞こえているかも怪しい。
「ほら老蛙もちがうってゆってる!」
「ゆってない」
四目は小雷の勢いに押されない。四つの瞳でいつも冷静に物事を見つめていた。
「そんなにこだわるなら小雷がほんとに雷を落とせばいい」
「え」
「やればできるんだろ。小雷は全然やらないけどさ。大王の子なんだから。できないわけない」
「わけなーい」
「う」
鳴鳴がやまびこのように四目の言葉尻を繰り返す。
小雷は石の上で固まってしまった。
ふわふわの髪の下に冷や汗がじわりと滲む。
「で、できるよっ、できるに決まってる。我は雷爸の子だもん。でも、お前ら黒こげになっちゃうぞっ、それでもいいのか!?」
「当てないようにできるだろ。大王の子なんだから」
「子なんだからー」
「ぎゅうぅ……っ」
脅しがうまく効かず小雷は奇妙な鳴き声を上げた。もう後には退けない。
ことに妖怪界隈では舐められたらおしまいだ。ゆえに小雷は二匹の前では常に偉そうに振舞っているのだ。
力は見せつけて初めて尊敬を集められる。意を決して小雷は木の枝を振り上げた。
「お……」
落ちろと言おうとした、その瞬間。
凄まじい雷が頭上から降った。
「ひゃあっ!?」
予期せぬ雷光に小雷はよろめいた。
だが川に落ちる前に、それをむんずと長い手が掴まえる。
「ここにいたかよ、小雷」
片手で小雷を顔の前まで持ち上げ、雷来はにっかりと牙を見せた。
他の妖怪ならば尻尾を丸めて逃げたくなる獰猛な笑みであったが、小雷は雲間に陽が差したように顔を明るめた。
「雷爸っ!」
大好きな父の顔に飛びつく。
雷来の白金色の髪先はまだバチバチ鳴っており、小雷も感電するがまったく痛くはない。この妖怪親子が雷で傷つくことはあり得ないのだ。
「れ、雷来大王だっ!」
一方、四目と鳴鳴は転げながら逃げてしまう。
この辺りは大王と呼ばれ畏怖される雷来の縄張りであり、か弱い妖怪たちは子分として雷来の威を借り平和に暮らしているのだが、そんな子分たちにとっても雷来はなるべく目の前にしたくない存在だ。
偉そうなだけの小雷ならともかく、もし雷来の機嫌を損ねれば黒焦げでは済まされない。逃げずにいるのはぼうっとしている老蛙だけだった。
雷来のほうは、姿を見ただけで逃げる小物も呆けた蛙も視界にさえ入らない。
「何をしていた?」
小雷を顔から剥がし、雷来は赤子のように大事に抱える。
穏やかに子に話しかける様子は、かつての空から地上を支配していた暴君に程遠い。
「雷来ごっこ!」
「またそれか」
「我が爸でー、四目が水璃になった。鳴鳴は色んな音を出す。ねえねえ、水璃は強かった? 竜になれるような妖怪だったんでしょ?」
「水璃? んあぁ、あの魚か。少しは歯ごたえがあったかもしれん。あんまり覚えとらんが」
「雷爸最強!」
手足を振り回して小雷は歓声を上げる。
雷来は少し落ち着かせるように子を左右に揺らしてやった。
「我になるなら、小雷、そろそろ雷の一つも落とせるようにならんとな?」
「わ、あ~……」
わかりやすく小雷の声が萎んでいく。雷来の雷で逆立っていた髪もしんなりとしてしまった。
「さあ鍛錬するぞ」
雷来はそのために小雷を探していた。
子を片腕に抱え直し、雷来はその身を雷に変じる。小雷の視界はまっ白になり、一瞬後には空にいた。
雷来は足裏からぱっぱっと雷光を散らし、白い雲の真下に浮いている。
「ほら小雷、あの木に落ちてみろ」
ひと際高い山の上の杉を指した。
「根本まで真っ二つに割れるぞ。愉しいぞ」
ほらほらと急かされるが、小雷はちょっとだけ下を見て、その高さに尻尾を丸めた。
地上がとても遠い。
雷に変じたとて、こんなところから落ちたら痛いで済まないのではないかと思う。なにせ四目たちと走り回っている時に転んで鼻を打っただけでも泣き叫ぶほど痛かったのだ。
小雷は胸元に垂れている雷来のぼさぼさ髪を掴み、厭だと駄々をこねた。
「爸、やだ。怖い」
「怖い? む、う?」
雷来は小雷の感じているものがさっぱりわからない。
「怖くない。外しても木はお前にやり返さない。奴らは我らに裂かれて焼かれるためにあそこに生えておるのだ。見ていろ」
雷来は雷に変じ、瞬きの間に杉の木を縦に真っ二つにしてみせた。
辺りに轟音が響き渡り、近くで寛いでいた妖怪たちが逃げていく。
「どうだっ」
と言われても、抱えられていた小雷は視界が雷光でまっ白になり何も見えていなかった。
「むり。怖い」
雷来の首に抱きつき小雷は断固、鍛錬を拒否する。こうして粘っていれば、大抵雷来のほうが折れてしまうのだ。
「怖い、か。そうかー……お前は、あれだな。思慮深いのだな」
「シリョぶかい?」
「賢いということだ。きっと朱娘に似たのだろ」
「朱娘妈妈?」
「そうだ」
雷来は小雷を掲げ、朝焼けのような赤い双眸を愛おしげに見つめた。
そして再び空へ駆け上がると、雲を抜け、さらにのぼる。
上空には冷えた風が吹き荒び、飛ばされぬよう小雷は衿の合わせから雷来の懐に潜り込んだ。
「見ろ。あれが天界の門だ」
雷来が指す先には、大きなシャボン玉のようなものが浮いている。とても《門》には見えない形だが、天神がくぐればその先の天界に行けるのだという。天神以外は天界に入れない。
「朱娘はあの向こうにいる。こじ開けたいが我の力だけではかなわなかった。お前が強くなったら、あやつを迎えにゆこうな」
小雷はごそごそと動いて、雷来の懐から門を見上げた。
「天神たちが妈妈をさらっていったんだっけ?」
「そうだ。天界の帝とやらが、我が朱娘を孕ませたのに大層怒ってな。朱娘の奴も朱娘の奴で、おとなしく連れていかれやがった。天神は帝に逆らえんものらしい」
生まれてすぐに母と引き離された小雷は朱娘のことを覚えていない。
だがそれは小雷にとって特に悲しいことではなかった。そもそも妖怪には親などないことも多いのだ。現に雷から生まれた雷来がそうである。
親もなしに不意に生まれて、己の力だけで食うか食われるかの世を生き抜かねばならない。よって、こうして強い父の懐に匿われている小雷は、妖怪の中ではかなり恵まれた生まれと言えた。
とはいえ、母に会ってみたくないわけでもない。なにせ天女で武神だという母なのだ。想像するだにわくわくする。
小雷は臆病で争いが不得手なくせに、父母の武勇伝を聞くのが大好きだった。時折正気に戻る老蛙にねだる話はいつもそればかりである。
「爸は妈妈と何十年も戦ったんだよね?」
「どれだけ戦っていたかは知らん。どれだけ戦っても我は朱娘にだけは勝てなかった」
「妈妈のほうが最強?」
「おう」
「妈妈も雷出す?」
「雷は出さん。だがあいつの太刀は雷より速いぞ。それにあいつはなんでもよく知っている。我にたくさん物を教えていった」
共に夕陽を見たあの日から、朱娘は雷来の敵から師にかわり、間もなく師から愛しい妻へとかわった。
穏やかに過ごせた時は戦っていた歳月よりも遥かに短いものだったが、それは雷来の中に欠けていた何かを埋める尊い宝となった。
その証が小雷である。
ゆえに雷来は小雷をこよなく可愛がり、甘やかし、ひたすら大事に育ててきた。
だが近頃はそろそろ、この子が弱肉強食の幽界を生き抜けるよう仕立てねばならぬのではないかと思い始めている。
「小雷、お前は最強の妖怪と武神の子なのだ。怖いことはない。早く戦えるようになれ」
雷来は懐で縮こまる小雷をなでてやる。それからゆっくり、地上へ降りていった。
「でも、爸がいれば我が戦うことない。みんな爸が怖いから我のこと襲わないもん」
「そらぁ、我の子分どもはお前を襲わんが、この間妙なのが縄張りに入り込んでいたこともある。どうも気味の悪い奴だった。いざという時はせめて我のもとまで逃げられるように空を駆ける鍛錬だけはするぞ」
「え~」
風のぬるくなるところまで下りてきても、小雷は甘えて雷来の懐から出なかった。
「今じゃなきゃだめ? 爸、我ちょっと疲れてる」
「む?」
「雷来ごっこはすごく力を使う。走ったり枝振り回すのがたいへん。だからしかたない」
「そうなのか。うむぅ、力を使い過ぎて死んでは事だしな。明日にするか」
「うん!」
今日もまんまと鍛錬を免れて、小雷は親子の寝床としている岩山の洞窟まで運んでもらい、誰もが恐れる雷来のぼさぼさ髪を布団に昼寝などをして、平和な一日を終えるのだった。