十七
「うおっ!?」
今ほど下ってきた山の頂から、亀裂が小雷らの足元に走った。溝に落ちかけた小雷は慌てて攸の肩まで登る。
山頂から砂塵を巻き上げ、半人半虎が猛然と駆け下りてきた。
「小雷っっ!!」
爆砕の狙いはすでに焔狗から移っている。
小さな雷妖怪の姿はまだ捉えられていないが、敵は土地の気が集まっている場所をひとまず目指しており、事実そこに小雷がいる。
爆砕は大きな気配の漏れ出る洞窟を目がけ、一切の躊躇なく拳を振り抜いた。
その巨大な拳の触れたところから万物の崩壊が始まる。
硬かろうと柔らかかろうと関係がない。それが生きたものであれば魂魄まで粉砕する。爆砕の司る災禍は破壊であった。
洞窟は山ごと一撃で砂になり、消し飛んだ。
すると崖下に溜まっていた灼熱が噴き、再生の終わった焔狗が火の海を引きずり現れた。
「なんだてめえか」
「くっふふふ、うはははっ」
黒い炎が笑っている。
息吸うだけでも喉が焼けつく熱気を前に、爆砕はどうでも良さそうであった。
「小雷はどこだ」
「雲の中におるだろうさ」
実際は岩陰に隠れているが、辺りに焔狗の妖気が充満しているせいで爆砕には小雷の気配が掴めない。
「邪魔くせえなてめえ」
まず焔狗を倒さねばならないという状況は、変わらなかった。
爆砕に己が前座程度に見なされていても、焔狗には屈辱も怒りもない。
何もなくとも目の前に立つものは焼き尽くす。
闘争に理由など必要なかった。
「雨が降るまで、とことんやろう」
焔狗が吠え、再び大妖たちがぶつかり合う。
戦意の高揚とともに、焔狗は火に薪をくべるがごとく体がどんどん大きくなってゆく。焔狗の足元では岩が溶け、川のように流れ始めた。
一方、爆砕は襲い来る灼熱を散り散りに粉砕する。
後からいくらでも湧く炎に、いくらでも繰り出される拳で対抗していた。
純粋な力と力のぶつかり合いである。大妖たちの一挙一動で地が壊れ、天まで揺らぐのだ。小雷らもひとところに隠れたままではいられなかった。
「小雷、俺たちもやるぞ」
すると攸が抱えていた小雷を置いて、岩陰から飛び出した。
「攸!?」
小雷の悲鳴のような呼び声を背に、男は飛刀を投げ、焔狗に拳を叩きつける寸前の爆砕の鼻先をかすめて注意を引いた。
「っ、てめえ!」
今は姿を隠してくれる霧がない。
先に窪地で裂いたはずの爆砕の片目は再生しており、激しい殺気が矮小な人の身に直接突き刺さった。
「見えたぞ!」
災禍が攸を捉えた。
怒りとともに嬉々と振りかぶられる拳から攸は全力で飛び退ったが、それでも破壊の範囲から抜けられない。
そこへ、今度は焔狗が飛び込んだ。
拳が振り切られる前に爆砕の丸太のような腕を掴み、巨体を宙に投げ上げた。
焔狗が触れたところから肉が焼け中の泥まで蒸発する。そのまま炎は全身に広がるはずだったが、爆砕が泥を吐き出すとそれが炎を押し包んで消してしまった。
さらにその泥が溶けた腕の新しい肉となる。轟音を立て着地する頃には元に戻っていた。
焔狗の放つ熱気は絶えず爆砕を焼くが、焼かれたところは絶えず再生する。
闇吞と同じであった。
「うはははっ! まだ愉しめるな!」
喜ぶ焔狗は雷来とやはり同類である。
背後の海から火を呼びさらに体を膨れ上がらせた。
「バカ攸! 死んじゃうぞ!?」
小雷は岩の上に立って叫んだが、ちょうど爆砕の破壊の音にかぶった。
攸の体では焔狗の灼熱に耐えられない。または爆砕の虎の足の一つに踏み潰されでもすれば終わりだ。
元人間であれば己が化け物の闘争に交ざれぬことくらいわかっていよう。
だが、攸は紙一重の立ち回りをしながらも逃げなかった。
ここで焔狗を死なせてはならぬとわかっているがゆえである。
小雷は、迷っていた。
破壊から逃げつつ、炎と砂でけぶる天を見上げる。
そこでは黒い煙がとぐろを巻き、まるで雨が降りそうな昏さだ。
雷来が闇吞と戦っていた時、小雷の存在は邪魔だった。
今はどうであろう。
爆砕を倒すために己にできることがあろうか。
「雨雲を喚ぶくらいなら、手伝ってやっても良い」
燃える石の欠片を銀の槍で打ち払った銀鮒が、小雷に言った。
槍の先は火に触れた瞬間にじゅわりと消えた。
「え?」
「一度しか言わぬぞ。貴様はそれだけの力を持ちながら何を恐れる? 例外はあれども、忌々しいが妖怪の強さは生まれが決めます。大妖に挑めるものは大妖のみ。ここで手を出せるのは貴様の他にいないのです」
さんざん小雷を見下してきた妖怪の本音であった。
目立った力のない妖怪たちからすれば、小雷は強烈な雷の力をまるでないものと思い込み、取るに足りぬ小物にすら怯える奇妙極まりない存在に思えるのだ。
ゆえに、皆そこを馬鹿にしていた。
(……あの時逃げるんじゃなくて、我が雷を落として爸を助けられてたら、爸は喰われなかった?)
逃げ続けているうちは、その仮定に答えを得ることはできない。
小雷は黒い天を見上げた。
銀鮒が手のひらの竜玉を光らせると、水気が昇り雲を生む。小雷は周囲の火気を吸い込み、雷に変じて雨雲のもとへ駆けた。
小雷が入った途端にそれは雷雲となる。
暴れる風の音と、時折視界の端に現れる光は生まれた時から慣れ親しんできたもの。怖いどころか、まるで母の胎内に還ったかのような、父の懐に抱かれているかのような、安心感がある。
人界で雷来とそうしていたように小雷は雲の底から地を見下ろした。
(集めて吸う)
厚い雲の上方と、大地に蔓延る雷気が小雷には視える。
小さな手を雲から伸ばしてそれらを引き寄せようとすると、大地の雷気はぐうっと持ち上がり、頭上の雷気が小雷を目印に下りてくる。
(まだ、もっと)
黒雲は上下左右に広がってゆく。緩慢ながらも着実に天を覆う。
それにつれ、かつてないほど身の内に溜まり始めた力が興奮を呼び起こし、小雷は奇声を上げて胸を掻きむしりたくなった。
愉しい。怖い。
気持ちいい。苦しい。
色んな感情と刺激が交互に襲い来てわけがわからなくなる。
「っ、ぅう、あぁあっ」
恐怖が勝ってきた。
もはや雷雲は山頂を覆うまでに成長している。心の底ではまだもっとだと叫ぶ者がいたが、頭の中にいる者はこれ以上は危ないと警告しており、小雷は後者の脅しに屈した。
(あいつ、あいつを狙えっ)
興奮を抑え、敵を改めて見定める。
巻き上がる焔の渦から突き出ている、巨大な災禍の影。爆砕のその脳天に狙いをつけた。
「――落ちろっ!」
雷の柱が降った。
空を破る轟音が響き渡る。
この苛烈な音と光が、小雷にとって初めて自らの存在を天地へ知らしめる布告となった。
雷撃は爆砕の脳天を見事に割った。
裂けたとこから黒い煙が上がり、なおも暴れる雷気が肉を焼き続け再生を阻害する。
溜まりに溜まった雷気はすべて放出され、雲は過半分が散ってしまった。
「もっと来い小雷っ!!」
焔狗の高笑いが空まで届く。
爆砕は体を縦に半ばまで裂かれ、虎の四つ足をよろめかせたものの、まだ死に至ってはいなかった。
左右に開こうとする頭を無理やり片手で押さえつけ、指の間から天を睨む。
「て、めえっ……」
まだ足りない。たった一撃では仕留められぬのだ。
小雷は喉をひくつかせながら、再び天地の気を集め始めた。
あわせて銀鮒が竜玉から水気を生み出す。焔狗もますます火勢を強める。爆砕の殺気は途轍もなく恐ろしかったが、攸が飛刀を放ちその気を逸らしてくれた。
「やれっ!!」
小雷の髪がぶわりと逆立つ。
もう一度。
あらゆる気の手綱を掴み、暴れ出しそうな力をどうにかまとめあげようとしていた時。
ふと、小雷は気の流れに変化を感じた。
(え?)
と、思った時には雲を吹き飛ばされていた。
嵐のような突風が天地の間をかき混ぜ始めた。
「うぎゃああっ!?」
小雷は風に揉まれて上下も左右もわからなくなる。
その中で一瞬だけ、翡翠のような光を見た。輝く鳥の羽を持つ、子供のような大きさの何かが、暴風の中心にいる。
「――ィっ!!」
誰かの声がかすかに風の間を抜けてきた。
小雷は目を瞑り、雷に変じておおまかな方向へ駆ける。
雷光は風を裂いてまっすぐ落ちた。が、地上で変化を解くと小さな体は再び風に舞い上げられる。
そこで近くの岩にしがみついていた攸が咄嗟に小雷の腕を掴んだ。
しかし、それが悪かった。
「ぅおっ!?」
助けたはずの攸の体も浮いた。
寄る辺を失った一人と一匹は落ち葉のように無力である。
突如現れたこの嵐は何者の仕業か。
敵か味方か。自分たちはどこへ攫われるのか。
何もわからず決着もつけられないままに、小雷たちは空の彼方へ飛ばされた。