十三
「見ろ小雷」
激しい音と光が暴れる雷雲の中で、雷来が懐に抱えている我が子に下界を指し示した。
赤と青の大軍が二つ、ぶつかり合っている。地上では雄叫びと剣戟が凄まじいものであったが、小雷にはまるで蟻が雨の中でもがいているように見える。
「なにしてんの?」
「人間どもが戦っておるのだ」
「ふーん」
この時、小雷は人間を初めて見たのだが、どこにも興味を惹かれる点はなかった。塊になった群れは動きが鈍く、群れの最前列でちゃちな武器をちまちま打ち合わせているだけの戦いはまったくもどかしい。
その日は雷来が小雷の暇潰しに人界へ連れてきてくれたのだが、退屈だった。これなら四目たちと走り回っているほうがずっと愉しい。
「爸、つまんない」
懐まで垂れるぼさぼさ髪を引っ張り訴えた。だが雷来は予想通りだと笑む。
「見ていろ」
言うや否や、数十の雷撃を大軍の至るところに落とした。
途端に赤と青の両軍は混乱に陥った。逃げ惑う彼らを追って雷撃は雨のように落ち続けるのだ。一つ一つはそう強いものではなく、雷来からすればほんの爪の先ほどの力を出したに過ぎなかったが、人間たちは戦いどころではなくなった。
巣をつつかれたように走り回る兵たちの様子に小雷は手を叩く。
「愉しいだろ」
「もっとやって!」
「よぉし」
いとし子に囃された雷来も調子に乗ってしまい、次の雷撃は少しばかり力んだ。小雷は惨事を期待して目を開く。まさに落ちる雷の真下で大刀を構える者が見えた。
一瞬より疾く。
振るわれた刃が雷撃を二つに裂いた。
「うわっ!」
小雷は思わず声を上げた。
「はっ! 人間が我の雷を斬ったか!」
雷来は膝を叩いて喜んだ。地上へ向ける目に獰猛な光が灯る。
「見たか小雷? 見たな? あいつを覚えておけ。世にはたまにああいう者がいる。ひ弱な見かけに騙されるな。殊更に力を誇る者より、そういう輩のほうが油断できん」
「あいつ強いの? 爸くらい?」
「まさか」
ふと雷来は我に返り、殺気を引っ込めた。
「我とやり合えるほどの者ではない。せいぜい、そうだな、小雷の鍛錬には使えるか。雷を思いきりあいつに落とせ小雷。我にかわって仕留めてみせろ」
言われてその気になった小雷は、さっそく目を凝らし件の人間を狙おうとした。この頃は父と同じことが自分にもできると信じていたのだ。
しかし少し視線を外していた隙にもう、逃げ惑う群れに紛れて的がどれであったかわからなくなってしまった。どんな姿形をしていたかもよく覚えていない。
今となっては、夢うつつにその人間の影がぼんやり頭の隅に残るだけ。
「――起きろ!」
「ふぎゃっ!?」
蹴飛ばされ、小雷は石の床をぽんと跳ねた。打ちつけた背中をさすり、見上げれば銀鮒が仁王立ちしている。
傍で今朝も瞑想していたらしい攸が、肩越しに驚いた顔を向けているのも見えた。
「なんなんだよ!?」
「いつまで暢気に寝ているのですか。早く水璃様の御為に働きなさい」
「なんでだ!」
小雷たちは白面を倒し、水璃の石宮の一角に寝床を与えられた。
この石宮は水璃が人界にあるものを模して作ったのであるが、部屋の中に調度品などはなく、冷たい床に寝転がるしかなく居心地は岩窟の中にいるのと変わりない。
それでも、ようやく安眠できる場所を得て人心地ついたところであったのに、蹴り起こされては小雷も腹が立った。だが銀鮒は小さな雷妖怪の抗議などどこ吹く風だ。
「食客とは水璃様をお守りするために戦うものなのでしょう?」
「ちがう!」
「ちがわんぞ」
攸は先に腰を上げた。
「また妖怪退治か?」
「ええ」
次の瞬間に銀鮒が石宮の外へ飛び出し、入れ替わりに大量の水が流れ込む。
「ぅわっぷっ!?」
幼子がちょうど沈むくらいの水嵩があり、流されかけた小雷を攸が掴んで外に出た。
ゥグルォォ——
化け物の咆哮がこだました。川幅いっぱいの甲羅を背負った亀が、水を逆流させながら滝つぼまで登ってきたところへ小雷らは遭遇した。
「でっか!」
思わず小雷が叫ぶほどの、巨大な亀は左右の岩壁を削り無理矢理石宮の前に出てきた。甲羅から出ている頭や手足は、剣のように鋭利な鱗に覆われており、触れただけでもただでは済まない。
「ゥィィ……イリーィィィ」
牙の隙間から漏れる生臭い息の中に、狂気の匂いが入り混じる。
「様子が変だな。小雷、この妖怪はなんだ?」
「知るか! ――あ? でっかい亀って聞いたことある気が」
「青湖王。下流の湖の主です。正気を失っているようですが」
小雷らの傍に銀鮒が降り立った。一晩で元通りとなった両腕の鱗の一片から銀の槍を生み出す。
それを隣で攸が羨ましげに見ていた。
「なあ銀鮒、俺にも槍をくれ。そろそろ丸腰じゃきつい」
「貴様の武器はそれでしょう」
と、銀鮒は攸の肩に乗っている小雷を指した。
「こいつはだめだ。口答えする武器なんぞ使いにくくてかなわん。投げれば怒るし」
「あったりまえだ! 我を物扱いするな!」
「いずれにせよ貴様に我が槍は扱えぬ」
銀鮒は槍を攸へ放り、飛んだ。一拍遅れて攸たちが避けた場所を、巨大な亀の手が凪ぐ。
着地した先で体勢を立て直し、槍を構えた攸だったが、機を見計らっている間に銀の槍が急に溶け、鱗の一片だけが手の内に残った。
「ぅお、なんだ?」
「術が解けたんだよ。あいつの力じゃ、自分の手から離れて術を長くは保てないんだ」
銀鮒のかわりに小雷は教えてやった。世間知らずの箱入りでも、このくらいのことは妖怪の常識として知っていた。
「しょうがねえ。覚悟はいいか小雷」
「ま、まて! このでっかくて硬そうなのに我を投げつける気か!? ここは水璃にまかせて逃げても」
「そうはいかんだろ!」
攸は小雷の襟首を掴み、大亀にではなく上空へ放り投げた。
「ぅあああっ!?」
落ちるまでの間に、小雷は叫びながらもしっかりと地上を見ていた。
手足や尻尾を岩壁にぶつけ暴れ回る大亀の甲羅には、深い亀裂があった。その金剛石より硬い殻にヒビをいれたのは誰あろう、かつての雷来である。小雷はそこを目がけて想像の紐を張った。
閃光が駆ける。だが、わずかに狙いが逸れて甲羅に弾かれた。
「ぶむんっ!」
すると変化が解けて落ちた小雷を銀鮒が引っ掴み、大亀の首に投げつけた。
「ぅおい!?」
咄嗟に小雷は雷に変じたが、軌道が不規則に曲がり、暴れる尻尾の先を切り裂いた。正気を失った大亀の怒号が響く。
「まだまだぁっ!」
さらに回り込んだ攸が小雷を拾い、間髪入れず甲羅の隙間に投げつけた。しかし、剣のような硬い鱗にも弾かれてしまう。それでも攸らは諦めない。
「いい加減にしろぉぉっ!」
好き勝手投げ続けられた末、空中で痛みと恐怖と怒りの限界を迎えた小雷が、雷を喰らわんと天にそそり上がった亀の大口へ、雷光となり自ら飛び込んだ。
厚い肉を焼き切り、亀の尻を突き破って、勢い余った小雷は滝つぼに突っ込む。
「ィ、リ……」
大亀は黒い血を大量に吐き出し、天へ首をそらしたまま息絶えていた。
「——さぁて」
妖怪の死を確認した攸は、亀の傍にしゃがみ込む。そこへ滝つぼから自力で這い上がってきた小雷が、びしょびしょの尻尾を引きずり、恨みがましい顔でやってきた。
「お、無事か」
「オマエコロス」
「いい加減慣れただろ? それより見ろ。この鱗、武器にできそうだ。銀鮒、少しだけ槍を貸してくれ」
濡れ鼠の呪詛に構わず、攸は一人喜んでいる。逆立った鱗は刀剣の刃先に似ており、銀鮒に頼み込み槍で鱗を抉り取ってもらうと、手のひらほどの武器となりそうであった。
「こんなの使えるのか?」
「飛刀というものがあってな」
攸は肘を直角に曲げたところから素早く鱗を投げ、二十間離れた岩壁に突き刺した。
「よし使える。これですぐにお前を投げなくて済むぞ。剥がすの手伝ってくれ」
小雷と銀鮒は、遠くの岩に突き立った鱗に目を丸くしていた。
「……人間って、みんなお前みたいなのばっかり?」
小雷が素朴な疑問を投げかけた。
「もっとうまい奴は百間離れた的にも当てる。どちらかというと俺は長柄武器のほうが得意でな。本当は大刀か槍が欲しいところだが、まあ丸腰よりはましだろ」
人間をひ弱な生き物だと思っている小雷からすれば、攸の技量は驚異的なものであったが、当人はさほどの自覚もないらしい。
ふと小雷は今朝の夢を思い出した。
(こいつ、なんか……)
地道に鱗を剥がしている男の姿が、雲の中から見下ろした人間に重なる。大刀で一度だけ雷来の雷を斬った、小雷があの時に仕留め損ねた兵士のことだ。
(ちがうかな?)
攸の膝にのぼり、耳を引っ張ってみた。
「攸、雷斬れるか?」
「ああ? 手伝わないならどいてろ」
小雷が追い払われた頃、石宮から水璃が出てきた。陽に噛みつかんばかりの体勢で死んでいる亀を見上げる。本来は亀の進撃を結界で阻むこともできたのだが、この水妖はあえてここまで通し、小雷らに片付けさせたのだった。
「やだ。脳味噌かしら」
亀の眼窩から流れ出ているものを見て、水璃が独りごちた。その傍に銀鮒が無言で控える。
「水璃、こいつほんとに青湖王なのか? なんか、なんか変だったぞっ」
小雷は老蛙に聞いた亀の妖怪の話を思い出した。
古くから幽界に住まう妖怪であり、雷来の雷撃から生き残れるほど硬く、普通ならもっと苦戦する相手のはずだ。それがまともに喋ることもできず雷に食らいつこうとするなど、まるで気狂いのようだった。その辺りは水璃も同じ感覚を抱いている。
「青湖王は古き賢者よ。正気であればこんな無様を晒すことはない。時間稼ぎのつもりかしら」
「時間稼ぎ?」
鱗を剥がしながら攸も話に加わる。
「闇吞側の刺客ということか?」
「この血の色は、お前が殺した毒の妖怪のものに似ている。おそらくあれが毒でおかしくさせておいたのでしょう。闇吞自身はまだ動けないのかもしれない。雷野郎を相手にして、まさか無傷で済んだはずがないのだから」
「すると、傷が癒えるまで襲撃を防ぐための時間稼ぎというわけか。ならばどうする? 今すぐ攻め入るか?」
水璃は答えず、ずぶ濡れの小さな雷妖怪を見下ろした。
「お前、まだ天気を操れないの?」
思わぬ問いかけに、小雷はすぐにむすりとした顔を作った。
雨雲を喚び雷を落とす、その術のことを水璃は言っている。だが小雷にはそれができない。
すると水璃が腰に手を当てて命じた。
「小雷。焔狗を子分にしてきなさい」
「……は!?」
仏頂面を維持するのに一生懸命であった小雷は反応が遅れた。
「焔狗って、あの焔狗!?」
「暑苦しいのが二匹も三匹もいてたまるものか」
それは水璃と並び立って雷来の武勇伝に登場する大妖怪の呼び名であった。
今度は火山を縄張りとする火の化身である。とてもじゃないが小雷の太刀打ちできる相手ではない。そんなことは水璃も承知のはずだ。
「焔狗は爸と互角に戦えるくらい強かったんだぞ!? 我の子分になるわけない!」
「私の子分にするのよ。お前がかわりに奴を下してここへ連れてくるの。食客とは主のかわりに戦うものなのでしょう?」
「ちがう!」
「ちがわんが、荷が勝ち過ぎている気はするな」
攸は焔狗のことを知らなかったが、小雷の取り乱しぶりからおおよそ察した。
「今そいつを子分にすることに意味があるのか?」
「いちいちうるさい小物どもね」
水璃は気分を害したようだった。
「お前たちがすべきは、闇吞に力をつけさせないこと。焔狗が従わぬのであれば一片も残さず消してきなさい。従うのであればお前たちともども使ってやるわ」
「だったら水璃がいけばいいじゃんか! 焔狗は水気に弱いはずだろ!?」
うろたえつつも小雷は最も合理的な意見を主張した。火に水をかければ消えるもの。だが水璃もそんなことは承知の上だ。
「また銀鮒を付けてやる。焔狗ごときは自力でどうにかしなさい」
「でも焔狗はっ」
「黙れ」
水璃の見開かれた黒目に殺気が滲んだ。大妖怪を苛立たせることは死期を早めることに繋がる。
「う……ぅうう」
もう何も言えない小雷に水璃は機嫌を直し、すれ違いざま銀鮒の手元に何かを落として、石宮へ戻っていった。
「――では行きますよ貴様ら」
さっそく張り切る銀鮒に追い立てられ、小雷らは想定外の仕事に赴くこととなった。