十一
「――だめだ、死ぬまでやらなきゃ愉しくない」
その羽の色を、小雷は忘れもしない。
魂をねじ切られるような絶望の夕暮れに、父の死を喧伝していた黒い鳥。
それが川辺の岩に降りると少年の姿に変化した。
肌色悪く不健康そうな面をして、周囲には黒い靄のようなものをまとわりつかせている。にやつく口の端から牙が小さく覗いていた。
「誰だ」
「お、前っ、闇呑の鳥だろ!」
銀鮒の誰何に小雷が答えた形となった。
少年は小雷に向かって、嬉しげに片手をひらひら揺らす。
「鳥に化けられるだけで鳥なわけじゃないがね。孕毒と呼んでくれ。良い名だろ?」
「おお、ぬしは闇呑の子分なのか」
渡りに船とばかりに白面は喜んだ。
「儂はこれから闇呑大王のもとへゆこうとしておったのだ。連れていってくれぬか」
「いいとも。猿は闇呑の大好物だ。喜ぶぞー」
笑顔の孕毒に白面はひくりと喉を鳴らした。
「いやさ、儂は喰われにゆくのではないぞ?」
「闇吞の子分になりたいのなら貢物が必要だ。身一つのお前が他に何を差し出せると?」
「うぬぅ……」
「小雷を連れて来い。それならお前を喰わないように闇呑へ口利きしてやろう。わかったら死ぬまでがんばれよ」
「くそっ、小童が」
悔しまぎれの悪態を返し、白面は川底から水を跳ね上げた。
それは勢いよく水柱となり、小雷たちのいる岸辺へ大波として襲いくる。
ただし水璃のそれと比べればさほどの水量ではない。攸は小雷を担いで木に登ってやり過ごし、銀鮒は波を身隠しに利用して死角から白面を狙った。
ところが、波の間を抜けた銀鮒の目前には猿でなく、少年姿の妖怪がおり、ぷっ、と顔に黒い息を吹きかけられた。
途端に銀鮒は岩の上で膝から崩れ落ちる。
「なっ……?」
槍が手の中で溶けてしまう。孕毒の体は黒い靄に変わって消えた。
「来るぞ銀鮒!」
続けて白面が迫っていることを攸は木の上から警告したが、銀鮒は震えるばかりで動けない。
「多対一は卑怯だろ?」
今度は攸の背後で少年が囁いた。
「っ!」
攸はすぐ飛び降りて逃れたが、孕毒の吐いた黒い息を少し浴びてしまった。攸に抱えられていた小雷も同様である。
「ぅぁ……?」
手足の先がぴりぴりする。力が抜けて、攸の衣を掴んでいられなくなった。
十中八九、毒であろう。
「少しは加勢してやらなきゃ可哀想だよね」
木の上の孕毒は明るい声で言った。
一人、まだ動けた攸は川へ飛び込み、自分と小雷の体に付いた毒を洗う。
「大丈夫か小雷」
「だ、い、じょば、ん」
「だめそうだな」
上流から赤い筋が流れてくる。
どうにか小雷が首を回して見やれば、銀鮒が白面に切り刻まれていた。
手の内から槍を生み出しかろうじて防御するが、一撃ごとに槍は壊れて、素材となる鱗もそろそろ大部分がなくなってきた。
鱗の剥がれたところは薄皮が張り、ちょっとした衝撃で簡単に破れ出血してしまう。
「力をうまく使えないだろ? これは魂を痺れさせる毒なんだ」
孕毒はすでに見物を決め込んでいる。
「死ねや銀鮒!」
「ぅ、っ……!」
槍が砕け、血飛沫が散る。
小雷は血塗れの父の最期が頭をよぎり、気づけば叫んでいた。
「我を投げろ!」
攸は小雷を投げた。
胸まで浸かる川の流れに妨げられながらも、攸の人並外れた力が乗って小雷は白面のほうへまっすぐ飛んでいく。
(う……)
雷に変じようとしたが、いつもより妖力が体に伝導しにくく、遅れた。
白面に避けられた後で小雷は雷に変じ、でたらめに飛ぶ。今度は川に落ち、流されたが倒木の一つにたまたま引っかかった。
「うおっと、ぬしは動けるかっ」
敵が思うほど満足に動けるわけではないが、雷になっている間はいつもと感覚が変わらない。変じるまでの初動が遅れるだけなのだ。はじめから雷となって駆ければ白面に小雷の雷撃は避けられない。
これは厄介と見て、白面は再び幻影を多数出現させた。一度川に潜って視界から消えたため、やはりどれが本物かわからない。
いったんは白面の猛攻から解放された銀鮒のもとにも、どうにか倒木にしがみつく小雷のもとにも猿が群がる。
「さっきと同じだ小雷! 一匹ずつ紐を張って走れ!」
攸の大声が聞こえた。
(一匹ずつ、ひもを……)
自分のもとから、目前に迫る猿の腹を貫く紐を想像する。いくら的が増えようと要領は先にやってみたことと同じ。
小雷は駆け出した。
白い視界の中、猿の影を破った先の岩影の上で変化を解く。一回目は勢いが止まらず地面に転がり落ちた。だが、ここでぶつかると覚悟していたからか体が事前に準備をしており、すぐに起き上がって次の紐を張れた。
川の両岸へ交互に飛び移りながら二匹目、三匹目。
四匹目の頃にはだいぶ毒が抜けてきた。着地の時に尻尾を回し、転げる前に次の紐を走った。
五匹、六匹、七匹。
雷に裂かれるごとに幻影を生む靄は薄くなり、分身たちの姿も薄らぼけてくる。
まもなく、小雷は薄れぬ猿を一匹見つけた。
水中に逃げ込もうとしているところで、怯える白い猿顔が、いやにはっきりと見えた。
「――あああっ‼」
轟音とともに小雷の雄叫びが響く頃には決着している。
白面の体が紙風船のように破け、焦げた肉片が川のあちこちに飛び散った。
そして着地点を見誤った小雷もまた落ちて流される。今度は倒木にも引っかからない。どうにか川面に顔を出しても次々に覆いかぶさる水量に溺れかける。
すると、銀鮒が追って飛び込んだ。
白面の死体を確認するよりも憎き雷の子の救出を優先した。
「もう終わり? せっかく手伝ってやったのに」
残念そうに肩を竦めた孕毒のもとへ、その時凄まじい速さの石が飛んできた。
「おっと」
石は少年の頭のあった位置の幹にめり込んだ。間髪入れずに、着地した孕毒のもとへ銀鮒の槍を拾った攸が迫る。
はじめから孕毒には男の動きが見えており、着地と同時に黒い毒の息を盛大に吐きかけてやった。
孕毒からすれば、むざむざやられに来たようなものだ。濃い毒をまともに浴びて男は膝をつく――はずだった。
「っ、……あ?」
黒い泥が孕毒の口から溢れた。それは人間で言えば血と同じ。
攸の握る槍は、孕毒の薄い腹を貫通していた。まともに毒を浴びた男に変化は見えない。
「なん、で、効か、ない?」
攸は軽く首をひねった。
「もう死んでるからかもな」
そのまま槍を上へ薙ぐ。
孕毒の体は二つに裂けて、黒い泥を左右から噴き出しながら、地に溶けた。泥に触れた周囲の石まで腐食していく。体の中にはよほどの猛毒を溜め込んでいたらしい。
銀鮒の槍も、泥に触れたところから飴細工のように溶けてしまった。
敵はこれですべて消滅した。
さて小雷はと振り返れば、川下から銀鮒に抱えられ、びしょぬれの毛玉が戻ってくるところだった。
「ありがとう銀鮒」
銀鮒は小雷を攸のほうへ投げ捨てた。
「小雷に『助けてやった』などと思われては屈辱です。これで相殺になさい」
つまり先ほどの危機を救われた礼ということである。
攸の腕の中で小雷は水を吐いては唸っており、銀鮒の声はどうやら聞こえていない。
「素直じゃねえなあ」
案外と彼らは情けも義も知っている存在なのかもしれない。
そんなふうに攸は思い、今日はよくがんばった小さな背をさすってやった。