十
水璃の縄張りは山中の水源から川下の大河まで長く伸びており、その子分たちには水棲のものが多かった。
白面という猿の妖怪も水辺のものである。一度は奇襲のため水璃の寝床の石宮まで川を上ってきたが、あえなく失敗し押し流された。だから川の途中のどこかに身を潜めているはずだと銀鮒はいう。
「その白面とやらは何ができる妖怪なんだ?」
道中、これからの戦いに備え、攸は銀鮒に詳細な情報を求めたものの、銀鮒は一瞥するだけで何も答えない。すまし顔で川床から生えている岩を飛び移っていく。
水璃から離れ、少し余裕を取り戻した小雷は岸辺から銀鮒へ毛を逆立てた。
「おい魚っ。我たちにそいつを倒してほしいんなら、ちゃんと教えろっ」
「勘違いをするな小雷。水璃様は貴様らをわざわざ試してやっているのです。あんな小物、水璃様にかかれば脅威でもなんでもありません。それから私の名は銀鮒だ。水璃様にいただいた誉れ高き名で呼びなさい」
「だが、水璃は白面を取り逃がしたうえに正確な居場所も掴めてはいないんだろ?」
尋ねた攸へ、銀鮒がぎろりと黒い眼を向ける。同時に鱗に覆われた手の中から銀色の槍が現れた。
「何が言いたい? 人間」
「落ちつけ。喧嘩を売ったわけじゃない。要するに白面は搦め手が得意ということだろ? 正面きって水璃とやり合うだけの力がないかわりに、知恵が回る。さすがに猿だ。あるいは特殊な妖術が使えるのか? それなら厄介だと思ったんだよ」
攸が意図を説明すると、銀鮒は一拍の間の後に槍を手の内に引っ込めた。
「……白面は多彩な術を使う。それをもってして水璃様に気に入られ子分になりました。初見で奴の術を破ることができれば、貴様らも水璃様に認められるやもしれません」
「敵の術を見破るところから試しってわけか。ならしょうがねえ」
「バカ攸っ、納得するな! ぜんぜんしょうがなくないぞ⁉ よくわかんない術使ってくるやつなんかと我は戦いたくない!」
裂けた腹から黒い蛇を出す闇吞のわけのわからぬ術に父は敗れたのだ。知らぬ敵と戦うことはとても危険なことだと小雷は学んだ。
だがかつての雷来であれば、得体の知れぬ妖怪にも神にも片端から勝負を挑んでいた。その勇猛さの欠片も受け継いでいない憐れな二代目の取り乱しぶりに、銀鮒は遠慮なく嘲りを向けた。
「安心なさい小雷。貴様が死んだ後で白面は私が殺してやります」
「だったら最初からお前がやれ」
子分たちもおらず小雷は今さら見栄を張る意味もない。攸の肩の上でいじけてしまっている。
「では競争としましょうか。私と貴様のどちらが先に白面を殺せるか勝負です。結果は目に見えていましょうが」
銀鮒が川にざぶんと飛び込んだ。先行して白面を見つけるつもりだろう。
「小雷、お前なあ」
「な、なんだよっ、我は悪くないぞっ」
すると攸は笑顔を見せた。
「おうとも悪くない。狙ってやったなら策士だぞ」
「? なにが?」
「これで監視役が一緒に戦ってくれる。とどめを譲るわけにはいかんがな。急ぐぞ」
銀鮒を追って攸も川岸を走った。はや水面下に魚影は見当たらない。
ところがしばらくすると、辺りに靄が出てきた。
「ん? また結界か?」
水璃の霧の結界ほど深くはないが、いくらか視界を邪魔され攸は足を止めた。
「なんかいる」
小雷は攸の肩に立ち先へ目をこらした。川中の、小柄な娘の影はどうやら銀鮒に見える。水面に佇み、小雷たちを振り返った。
「なにをしているのです。早く付いてきなさい」
「? おう」
けげんな顔で応えた攸は即座に伏せた。小雷のぼさぼさ髪の先を鋭い何かがかすめていく。
「なんだ⁉」
「敵襲だ!」
大きな水音がし、川底から跳び上がったもう一匹の銀鮒が、自らの鱗をもとに生み出した槍を岸辺へ投げつけた。先ほど小雷たちが川面に見た銀鮒はすでに消えている。
敵の幻術である。
本物の銀鮒は気づかれずに魚の姿で川に身を潜め、死角から敵が小雷たちを攻撃した瞬間に現れて槍を投げたのだ。しかし奇襲の奇襲は失敗し、青い大猿が岸から川の中へ飛び退いた。猿は流れる川面の上に立っている。
「あああいつが白面か⁉」
「だろうな。やるぞ小雷っ」
「やだ!」
「覚悟!」
攸は小雷がしがみつくより速く、大猿の背へ雷の子をぶん投げた。
相手は銀鮒に気を取られており隙だらけであったが、小雷はそのだいぶ手前で怖気づいて雷に変じてしまい、またおかしなふうに宙を曲がっては、対岸の木々をなぎ倒して転がった。
「うわっは、こりゃたまげたっ」
川中で猿は手を打ち喜ぶ。手のひらは赤く、青い毛のよけた顔だけが白い。
小雷の折った木々の三本が川のほうへ倒れ、良い具合に足場となった。それを飛び移り、攸は頭を打ってわめく小雷を回収する。
「わ゛れ゛を゛な゛け゛る゛な゛あ゛っ!」
「どっから声出してんだ?」
そうこうする間に白面は銀鮒の二の槍をかわし、隙をついて両足で小娘の腹を蹴り飛ばした。銀鮒は綿かのように軽く吹っ飛び、小雷たちの傍の木にぶつかった。
「大丈夫か⁉」
思わず声をかけた攸への返事のかわりに、銀鮒は手の内から新しい槍を出す。
靄がいっそう濃くなってきた。
「銀鮒、そやつは小雷じゃないか? まさか主が怨敵のもとに降ったのかよ?」
白面の挑発に対し、銀鮒は血のついた鱗を一片吐いた。
「間抜けの猿め。逆ですよ。小雷が水璃様に降り貴様の始末によこされたのです。ですが貴様は私が殺します」
「わ、我は水璃の子分になったわけじゃないぞっ」
なけなしの意地で抗議する小雷だったが、水妖たちには無視された。
「先を見る目のない奴よのぅ。あの雷来が喰われたのだぞ。水璃なぞ終わりじゃ終わり。儂やぬしのような半端な力しか持たぬ者は媚びる相手を誤ってはならぬ。やぁ、まぁ、しかし水璃の首はちと難しかった。ゆえにほれ、そこな小雷を土産に闇呑のもとへともにゆかぬか銀鮒」
「私がお仕えするお方は水璃様以外にあり得ぬ。これ以上、水璃様の縄張りの内で不快に啼くならば、今すぐ喉を突き破ってやりましょう」
「はて。ぬしにさほどの力があったかな?」
白面が言い終わらぬ間に銀鮒の投げた槍が、大猿の青い喉に突き刺さった。
「ん?」
小雷は目をこすった。
槍が刺さった途端、白面の姿がぶれて二つに分かれたのだ。
「増えたぁ!」
「お、お? 妖術か?」
「まだまだぞ」
素直に驚く小雷と攸に気をよくし、白面は瞬く間に四匹、五匹まで増えた。そしてそれぞれが首の槍を引き抜き、岸の小雷たちへ一斉に投げ返した。
「破っ!」
銀鮒は眼前に水柱を立て、五方向からの槍をまとめて弾いた。だがそれで視界が塞がっているうちに、水を割って大猿の頭が銀鮒を空へ突き上げた。
「かはっ……!」
白面は川の中から動いていない。首だけが異常に長く伸びていた。木々よりも高く上がった銀鮒は、衝撃をまともに受けながらも、いまだ己の腹に当たっている猿の頭に槍を突き立てようとした。が、すぐに猿も察知し一瞬で首を引っ込めた。
あえなく銀鮒は川に落ち派手な飛沫を上げる。
「首伸びたぁ!」
「伸びたなあ」
見たままを言うしかない小雷と攸。
さて、猿はまだ五匹のままである。
「これは、どれかが本物と考えればいいのか?」
「爸だったら何匹いてもいっぺんに殺せるのに」
一駆けで百でも千でも的を破るか、あるいはこの一帯に巨大な雷となって落ちることのできるのが雷来だ。だが小雷にそこまでの力はない。
「どうした小雷。来ぬのか? どうやらぬしはうまく雷を操れぬようだのう」
五匹の猿が尻や手を叩き煽ってくる。
「まずいぞ小雷。雷撃が当たらんことがばれてる」
「それはいきなり我を投げたお前のせいだ。お前が悪い」
「怒るなって。ここは銀鮒と協力したほうがいい。小雷、もう一度雷になってくれ」
「やだ!」
「頼む。なんだかんだで妖怪どもはお前の力に心底では怯えてるんだよ。奴が雷撃にびびってる間に俺が銀鮒を助けにいく。お前が痛いのも怖いのもよくわかるが、今は生き残るために気張ってくれ」
「う……」
「来ぬのなら、こちらからゆくぞぅ?」
ふざけた猿の声がした直後、横合いの木の陰から青い腕が現れ、小雷の頭をかすめた。咄嗟に攸が伏せて猿の爪をかわしていた。
川の中の猿の数は減っていない。岸に増えたものがあらかじめ潜んでいた本物なのか幻覚なのか、やはりわからなかった。
追い立てられやむなく攸は川のほうへ逃げる。岩に引っかかっているだけの不安定な倒木は足場として頼りないが、かといって川底に立てば流される。この場でどうにか凌ぐしかなかった。
「武器がほしい!」
三つの倒木を飛び移りながら、無手で猿の長い腕をいなす攸が切実に叫ぶ。その背にしがみついている小雷も必死だった。
「落ちる!」
「ふんばれ!」
これでは小雷も雷に変じるいとまがない。
すると頃合いを見て、川面にいた猿の一匹が腕を長く伸ばし、小雷を引き剥がした。
「うわぁ⁉」
「小雷⁉」
猿と格闘している最中の攸に取り返す余裕はない。このままでは殺されると瞬時に悟った小雷は狙いも定めず、その場で雷に変じた。
「――っ!」
体が強く引っ張られ、岸に全身を思いきり打ちつけた。
「キャア⁉」
雷音に遅れ、猿叫がこだました。小雷の力に少しばかり焦がされ、白面の指先から黒い煙が細く上がる。
「貴様か本物!」
叫び声を上げた大猿の背後に、銀鮒が現れた。気を失って川下に流されたふりをして、またしても機を見計らっていたのだ。
槍が白面の背に刺さる。しかし、直前で白面が身を捩ったために致命傷にはならなかった。いくらかの毛皮と肉を剥がしただけで猿にはまた逃げられた。
「おのれ銀鮒……っ」
川に一度潜った白面は、今度は十匹に増えて川面のあちこちに現れた。どれもきっちり同じ場所に傷のある芸の細かさだ。
「きりのないっ」
両手に銀鮒は二本の槍を出す。
そこへ攸が川を渡ってやってきた。
「銀鮒! 俺にも槍を貸せ!」
「やらぬわ退け!」
「なら槍をどんどん作って投げろ! 本物を炙り出すぞ!」
かわりに攸は石を拾った。
素早く四方八方の猿どもに目がけ投げまくる。それを見て銀鮒は舌打ちし、腕の鱗をまとめて剥がし幾本もの槍に変えた。
小雷は攸たちの反対側の川岸に伏せたまま、それらを見ている。今度の幻覚の猿たちは槍か石が当たると一瞬消える。そしてまた同じ場所に現れるが、それはもう偽物とわかる。
あちこちに目を動かしていた小雷は、まだ一度も消えずに川面を逃げ回っている猿を一匹、見つけた。
すると対岸から攸が叫んだ。
「来い小雷っ! 紐の上だ!」
一人と一匹を直線で繋いだ間を、ちょうど件の大猿が走り抜けようとしていた。
小雷は霧の中での練習を思い出す。狙いをつけるだけでなく、軌道まで意識するのだ。今この瞬間だと確信すれば、不思議なくらい恐怖は生じず、小雷は反射的に駆け出していた。
まっ白になる視界の中、イメージした紐の影が点々と見える。その途上にある白面の影を破り、さらに先で待つ影の手前で変化を解いた。
「――っつぉいっ!」
回転しながら攸は小雷を受け止め、尻もちをついた。
飛沫とともに白面の首が飛ぶ。しかし、それも途中で霞となって消えた。
逆さまの体勢で勝利宣言しかけた小雷だったが、一転して悲鳴となる。
「あれじゃなかった⁉」
「ぅおっ、ちがうのか⁉」
攸もてっきり本物と思い込んでいたため面食らってしまった。
だが小雷が雷となって駆け抜けた効果はあり、靄が薄まったことで猿の幻影も姿が薄くなった。どうやらこの靄が妖術のもとらしい。
本物は川の下から首だけを出していた。
「けぇっ、腐っても雷来の子じゃあわな。まともに狙われたら避けられんわい」
「また逃げるか貴様!」
先んじて銀鮒が言ったように、白面は逃亡の気配を匂わせていた。
妖怪たちには雷来に植え付けられた恐怖がやはり残っているのだ。だがそれも、状況が変われば再び引っ込んでしまう。
「――だめだ、死ぬまでやらなきゃ愉しくない」
その時、空から声と羽音がした。