九
咄嗟に攸が小雷を掴んで跳ぶ。
だがうねる水がその足元を捉え、攸が跳んだよりもさらに高く打ち上げた。
「おいおいおいっ⁉」
「んぎゃああっ‼」
雲に触れそうなほどに高く上がり、滝つぼ目がけまっさかさまに落ちていく。
その際、小雷は石宮の屋根に立つ白い影を見た。
足元まで届く真珠色の光沢を放つ髪を持つ、あたかも天女と見紛う美しい妖怪がいる。
それが笛のような声を響かせた。
竜の鳴き声だ。
すると左右から水流が持ち上がり、宙にいる小雷たちを押し潰した。
なす術などない。小雷と攸は水に翻弄され続けた。
やがて、溺れ死ぬ直前で急に水が引いた。
小雷は攸に襟首を掴まれたままの状態で、二人とも打ち上げられた魚のごとく岩場に転がった。
「い、生きてるか、小雷」
「……ギュゥ」
小雷は鳴き声を漏らすのが精一杯だった。
ずぶ濡れのみすぼらしい姿を、美しい妖怪が見下ろしている。
「ずいぶん可愛らしい姿になったじゃないの、雷来」
「……え?」
小雷はむくりと起きた。
滝つぼに注ぐ陽のせいで、水璃に後光がさして見える。低い声が小雷を嘲笑うかのようだった。
「わ、我は爸じゃないっ。我は、小雷だっ」
「ええ知ってるわ。雷野郎が馬鹿ほど可愛がっていた奴の子でしょう」
にっこり笑った次の瞬間、水璃の黒目が広がった。
「誰に口を利いているつもりだ!」
「ひっ!」
小雷は即座に攸の上衣に隠れた。帯を外していたため懐には潜り込めず、背のほうへ回る。
濡れた毛玉が肌をなぞって攸はこそばゆい。
だが小雷の怯えるのも無理がないほど、辺りは水璃の怒りに満ちている。
まだ左右に残る水柱が落ちてくるだけで一人と一匹程度は平たくのされてしまうだろう。ぜひともここは穏便にいきたいところだった。
「あー、水璃? 突然押しかけた非礼はお詫びする。どうか怒りを収めてもらいたい。俺たちは貴方と争いにきたのではない」
攸は地面に叩頭した。
この領域の王である水璃に尊敬を示す人間式の礼儀だ。
妖怪たちはそんなことは知らないものの、自らの視界を伏せて首筋を晒す行為が敵意の表れとはさすがに思わない。
見慣れぬ男に水璃も形の整った眉をひそめた。
「お前は……なんだ? まさか人間か?」
「一度死んで妖怪になった、らしい。ま、その話を始めるとややこしくなる。俺のことはただの小雷の連れと考えてくれ」
水璃はあまり納得した様子でなかったが、幸い怒気は散らせた。小雷は攸の脇の下からこそこそと成り行きを窺う。
「雷来大王が闇吞という妖怪にやられた。俺たちは領地を乗っ取られた。奴は次にあんたのもとへ攻め入るつもりだ。それを忠告にきた」
実際に闇吞がどこを狙っているかなど攸は知るはずもないが、いずれ闇吞は地上の妖怪をすべて喰らうつもりなのだからまちがいではなかった。
力を取り戻すために最強と称される雷来を真っ先に狙ったのだ、同じく強さで名高い水璃が狙われていたとて不思議はない。
水璃は雷来に比べれば、いくらか問答の通じる相手であった。元は鯉の妖怪でありながら品のある話し方をする。
「忠告ねえ? だとすればずいぶん遅いこと。雷来が喰われた話はすでに幽界中に広まっているわ。不細工な鳥が広めていった。小雷を闇吞とやらに差し出せ、とね」
にたりと笑う。
笑っても水璃の美しい顔には皺も歪みもできず、まるでそういう形の仮面のようだ。それが不気味で小雷は震えたが、攸はあぐらをかきその場に居直った。
「だから俺たちはここに来た。水璃ともあろう者なら、新参者の脅しになど屈しないはずだ」
「はっ、まさか匿えとでも言うつもりか?」
鼻で嗤う。同時に左右の水柱が揺れた。
「この私が雷来の子を? その雷気が縄張りにあるだけで不快だというに! いつまで人間の影にいるつもりだ小雷!」
小雷は攸の脇の下で思いきり跳ねた。
水璃は小雷がはじめて会う雷来に匹敵する強力な妖怪だ。
老蛙の物語から存在を知り、様々に想像を巡らせ密かに憧れすら抱いていた。小雷は自分が非力なために、強い妖怪のことはたとえ雷来の敵であっても好きだった。
だが、目の前にすれば恐ろしさしかない。
血の凍えるような冷気、相手の怒りがそのまま己の死に直結する。
四目たちが雷来を慕いながらも恐れていたわけを本当の意味で小雷は理解した。
盾にできるのは頼りない元人間しかなく、涙が滲んだ。幼子が懸命に泣き声をこらえ、ひくひく喉を鳴らしている音が妙に響く。
それで肩を怒り上げていた水璃も意気を削がれてしまった。
「お前……本当に雷来の子か?」
水璃は腹の底から雷来のことを許せずにいるが、これほど見事な弱者ぶりに殺気をぶつけても甲斐がない。
むしろ己の格が下がるとさえ思え、臨戦態勢を解き、左右の水柱を落としてしまう。その水が波となって軽く小雷たちを叩いた。
「……もう良い。見逃してやるわ。疾く消えなさい」
「待て待て」
うっかり話が終わりかけるところを攸が止めた。殺されないのはいいが縄張りの外に放り出されても困る。どうにかして居座る理由を作らねばならない。
「水璃、匿えなどと図々しいことを言うつもりはない。むしろ逆だ。俺たちを食客にしないか」
「? なんだそれは」
水璃は食客の意味がわからなかった。
当然、小雷も知らない。妖怪たちの間にはない言葉なのだ。
「俺たちはあんたの手足となって闇吞たちと戦う。そのかわりに、俺たちをここに置いてくれ」
「えっ」
寝耳に水の小雷が脇の下から思わず顔を出したが、攸はひとまず無視をした。
背に腹はかえられない。
「何を言ってる? 子分になりたいという話?」
「子分とは親分に守られる者を言うんだろ? ならば違う。食客はあんたとともに戦う。子分ではないが、あんたの命令に従う。あまりに理不尽なものでない限りな」
「ほう?」
水璃はやや興味を示した。しかし、攸と小雷をまじまじと眺めてはやはり鼻で嗤う。
「お前の言いたことはわかったわ。――が、大雷が跪くならばまだしも、小雷と人間ごときがなんの役に立つ?」
「見た目で侮りたくなる気持ちはわかる。うちの大将はなかなか根性の据わらん奴だからなあ」
攸は嘲りを受け流し、いい加減、小雷を脇の下から引きずり出した。いきのいい魚を掴まえておくように逃れんとする小雷を両手で押さえ、水璃の前に晒す。
「なにするやめろっ」
「このとおり、見た目は確かにちっぽけだ。だがこのナリで小雷は闇吞の前からまんまと逃げおおせ、追手の妖怪も討ち果たしたぞ。さっきは霧の結界とやらも破りかけた。だからあんたは慌てて出てきたんじゃないのか?」
「なんだと?」
「一瞬でも雷来と勘違いしたんだろ? 水璃には及ばずとも、小雷には父亲から受け継いだ大きな力がある。さらに母亲は千鬼を下す無双の武神と誉れ高い、かの暁の朱娘だぞ。これで何も成せないわけがあるまい」
水璃に侮られたままではいけないが、あまり挑発しては再び命の危機となる。攸はその辺りをよく気をつけた。
頭の上で勝手なことを言われている小雷は良い心地ではない。
自分の生まれの持つ威容はこけおどしには使えても、いまだに中身がまったく伴わないのだ。早くどこかに隠れたかった。
「よ、攸、あんまり大げさにゆうなっ」
「縮こまるんじゃない。はったりかませ」
男は小声で叱咤してくる。小雷は嫌な予感がして仕方がない。
「――そう。そこまで言うのであれば、一つ試してやろう」
水璃が話に乗ってしまった。
物珍しい人間の言動に、この水妖はいささか興味を惹かれたのである。
「私の首を土産に闇吞へ鞍替えしようとしている愚か者がいる。白面という馬鹿猿よ。そいつを殺してきたら、お前たちを置いてやっても良い」
小雷たちが予想していたよりも早く雷来の死の影響は広まっており、水璃の子分の妖怪までもがすでに離反を始めているのだった。
「わかった。そいつはどこにいる?」
「銀鮒」
水璃に呼ばれ、滝つぼから鮒が一匹高く跳ねた。
それが空中で少女に変化する。見た目は十の半ばほど。黒髪を頭の両側に丸めて括っている可憐な乙女の姿をしていたが、水璃と同じ仮面のような無機質な表情と、両腕の肘から先に銀の鱗のまとわりついているところが、明確に化け物であった。
「銀鮒、まかせたわよ」
「承知」
鮒の少女は小雷たちのもとへ、きびきびと歩いてきた。
「これよりは、水璃様の一の子分であるこの銀鮒が、貴様らに同道しましょう」
大きな丸い黒目は魚のように感情がない。見下ろされる小雷は寒気がした。
「案内役兼監視役か。俺は攸という。よろしく頼む」
「黙って付いてきなさい」
できれば穏便にいきたい元人間に銀鮒はにべもない。
この鮒の妖怪は、子分たちの中でも特に水璃に心酔している。よって、水璃が嫌う雷来の子は銀鮒も嫌いなのであった。
小雷は立ち上がった攸の肩まで登り、その耳元で抗議した。
「おいっ、なんでこんなことになるんだよ? 我は戦いたくないから水璃のとこに来たんだぞっ。おかしくないか?」
「あのなあ、そもそもの話、雷来を恨んでる妖怪のもとに来ておいて、タダで匿ってもらおうとしてるほうがおかしいんだぞ? 妖怪退治の一つで水璃を味方にできるんなら見返りとしては十分過ぎるだろ。腹決めていこうぜ」
「うぅ~……っ」
理屈はわかっても納得はできない。だが他にどうしようもない。
小雷は攸の頭の上で唸ることしかできなかった。