序 最強妖怪と武神天女
去年同人誌に書いたものを少し修正した内容です。
むかしむかし、あるところに人間と妖怪と天神の生きる世界があった。
無論、仲良く暮らしていたわけがない。
その頃すでに世界は三つに分割されていた。
一つは空の上の天神たちの住まう天界、もう一つが大地の半分を占める人界、そしてもう半分が世の災厄たる妖怪どもの跋扈する幽界である。
こんなふうに世界を分けたのは、天地そのものを創造した《帝》と呼ばれる天神である。彼はそれぞれの世界の間に《門》を置き、そこを通らぬ限り境を行き来できぬようにした。
でなくば、魑魅魍魎が地上のどこにでも溢れ、際限なく命を奪ってしまう。帝はそう考えて妖怪たちを閉じ込めておくことにしたのである。
だがそんな平穏も長くは続かなかった。
ある日のこと、空を覆い隠すほどの厚い黒雲が現れた。
まだ昼間から地上は真っ暗になり、腹を空かせた化け物のように雲が絶えず不気味に呻く。天の気と地の気を大いに吸い上げ、雲が空の限界まで膨れ上がった時、瀑布のごとき雷光が地上へ落ちた。
この世が破裂したかのような凄まじい音と光であった。
雷光はかつて帝が土を盛って作った山を真っ二つに割った。
轟々と雨風の荒ぶる中、その雷跡から妖怪が一匹、生まれたのである。
白金の逆立つ髪を持ち、長い手足のあるその姿は天神にも似ていたが、イタチのような尾を生やし、大きな瞳が飢えた獣のごとくぎらぎらしていた。
妖怪がこの世で初めて見たのは、黒雲の下を泳ぐ竜である。
紫色の竜だった。
その竜は帝が地上の見張りに遣わした、そこらの妖怪より遥か格上の神獣だ。それが悠々と嵐の中をゆく。どんな邪悪な妖怪も神にはそうそう手を出せない。
しかし生まれたばかりのこの妖怪は、そんな常識を持ち合わせなかった。
瞬時にその身を雷に変じて空を駆けのぼり、竜の胴腹を真っ二つに喰い破った。
腸を撒き散らしながら神の残骸が堕ちていく。
白金の髪を血に染めて、妖怪は喜色を浮かべた。
「――はっ、ははっ!」
まるで無邪気な嗤い声。
竜の慟哭と雷鳴が、その日、世界に新たな災厄の誕生を知らしめた。
この妖怪は雷の化身。暴の化身。
空を駆り、地上で高々と頭を掲げている者の脳天に落ちることを愉悦とし、他のことは何も知らない。
衝動のままに妖怪はあらゆるものを蹴散らした。
世に名高い妖怪や神獣は無差別に叩きのめし、ついには帝の置いた門を力ずくで破って、人界にも雷雲として現われては、人々の健気な営みを脅かす。
強者を押し潰すことも弱者を追い立てることも愉しかった。
小さき者たちは空の向こうにかすかでも黒雲が見えると、
「雷来」
と叫んで穴ぐらに飛び込む。いつしかそれが妖怪の呼び名となった。
空を支配し地を制する雷に誰が勝てよう。もはや地上に敵はなく、雷来はいよいよ増長した。だが、そんな妖怪の脳天にもある日、天罰が下った。
――次はどいつを潰そうか。
いつものごとく獲物を探し空をうろついていた雷来は、天を突くような山の頂に佇む奇妙な娘を見つけた。
朝焼けのように真っ赤な髪に、真っ赤な瞳。
まだ宵闇の頃だったが、まるでそこだけ先に日の出を迎えたように明るい。金と青の飾り房のついた赤い羽衣をまとった娘は、雷来に微笑んだ。
「なんだお前は」
雷来は目をすがめて問う。自身の雷光よりも娘の姿が眩しい。
「お前こそ、なんだ?」
娘は、くすくす笑っていた。
その次の瞬間に雷来は雷に変じた。
娘の言動に腹を立てたというより、そもそもこの妖怪は戦いの前に長く問答などしないのが常であった。何者かを知るにはまず殴ってみればいい。
ところが、娘はひらりと羽衣を振って雷をかわした。
雷来は天地がひっくり返るほどに驚いた。娘は無傷で、衣に焦げ目すら付けずに立っている。こんなことは生まれて初めてであった。
「なんだお前」
驚きが過ぎ、雷来はまたもや問いかけてしまった。
娘は静かに笑っている。ただしその瞳はひどく冷たい。
「地上の門を破りましたね。神獣を殺し、か弱き者を脅かす、そのことの何が愉しい? お前はなぜ存在しているのです」
ひらり、ひらりと娘は宙を舞う。
なぜ雷が当たらないのか雷来はわからない。
それでも突撃し続けることしか能がなかった。
すると娘が懐から小さな壺を取り出す。振りかぶって、迫りくる雷光にその口をぶつけてやれば、雷来がするりと吸い込まれてしまった。
「反省なさい」
娘は蓋を閉じて、山の頂に壺を置いた。
「何をした!?」
真っ暗な壺の中で雷来が叫ぶ。狭くてとても息苦しい。壺を割ろうとして雷を内側から叩きつけるが、びくともしない。娘のくすくす笑う声が聞こえる。
「このまま他の妖怪に丸呑みされたらどうしましょうね」
「お前はなんだ!」
「私は天の鉾が一振り。暁の武神、朱娘。お前を負かした者の名です。よく覚えておきなさい」
娘の正体は、天界より妖怪退治のために下りてきた戦女神であった。
雷来は負けたのだ。壺に閉じ込められたことに動揺していたこの妖怪は、そのことにすぐ気づけなかった。
油断したとはいえ、本来それはあり得ないことである。そう思い込みたかった。しかし事実はそのままの重みでこの妖怪にのしかかる。屈辱とともに。
「帝は大変お怒りです。ですが私はそうでもなくなりました。こんなに簡単な術に引っかかってしまうのですから可愛らしいこと。反省するなら滅さずにおいてあげましょう。これからは、いい子にできますね? 雷来」
白い指が蓋をなぞる。
雷来は渾身の力で壺に雷を放った。すると蓋が少しだけ浮いた。
「お前には割れませんよ。観念なさい」
天女は優しく諭してくるが、無力に囚われている己を雷来は許せない。何度も諦めずに雷を壺に叩きつける。
「いい加減に――」
ぱきん、とその時ひび割れた。
朱娘が指を離すと雷が彼女の頬を切り裂いた。遅れて轟音が辺りに響き渡る。
振り返れば、怒り心頭で白金の髪を逆立たせ、背から黒雲を噴き出す妖怪が空にあった。
「勝負だ、女」
一声が天地を震わせる。
朱娘は、口を開けて笑った。
「――それがお前ですか」
右頬から血が溢れる。肉の焦げた嫌な臭いがする。だがこの天女はおぞましい妖怪の殺気を前にして、まるで少女のごとく胸を弾ませていた。はじめからこれを期待していたかのように。
右の耳飾りを取って息を吹きかけると、それが長じて大刀に変わる。そして頭上からまっすぐに落ちてきた雷を受け止めた。
さらにそこで変化の解けた雷妖を、ぐるりと身を捻って地へ堕とす。
可憐な天女の細腕にどれほどの剛力が秘められているのか、背に土をつけた雷来は再び大きな驚きをもって空を見上げた。
雷来の生み出した黒い雷雲を背景に、朝焼けのような女神が瞳孔を見開き、喜々と刃を振りかぶる。
「来い、雷来!」
「落ちろ!!」
イタチのような尻尾を伸ばして雷来は空へ駆け上がる。
ともに無尽蔵の力を誇る妖怪と天女の争いは、ここから何年も何十年も続いた。
幾度も勝負がつきそうでつかなかった。
陽が昇り、月が沈み、季節が巡る、長い日々を過ごした。
戦いの合間に、雷来へ恨みを持つ妖怪が漁夫の利を狙い勝負の邪魔をした時には、ふたりで怒りにまかせ叩きのめしたりもした。
そして数え切れぬほど力をぶつけ合ったある日に、雷来はぽつりとこぼした。
「愉しい」
ちぎれそうな腕をぶらつかせ、強がりでなく心から言っていた。
このまま戦い続ければ雷来のほうが死ぬだろう。
それでも逃げたいとは思わなかった。もっといつまでも朱娘と戦っていたかった。こんなに全力を尽くしても死なない相手を他に知らない。
「無邪気なこと」
朱娘のほころびた羽衣には大量の血が沁み込み、顔まで真っ赤に染まっている。
彼女のほうはわずかに雷来を憐れんでいた。
「お前は力そのものです。情けを知らず、義を知らず、邪悪でさえもない。尽きるまで己を振るい続けるだけ」
戦いの中で朱娘は雷来を理解した。
雷来は残忍なのではない。
無差別な暴威は力を振るう理由を持たないから。雷が落ちるのに、本来悪意も善意もない。
だが雷来は雷そのものではない、妖怪だ。魂魄を得たからには感情がある。
すると朱娘は急に刃を引き、雷来に西の空を指し示した。
「ご覧なさい」
焼け爛れた雲の色、ゆらぐ影、山野の向こうに日が沈む、それだけの光景だ。朱娘越しに見れば彼女と大刀の輪郭が金色に輝いて、眩しい。雷来はかろうじて残っている片目をすがめた。
「この世の美しいものを、尊いものを、何か一つ胸に抱いて死になさい」
朱娘の言うことは雷来にはどうも難しい。夕陽など見ても心動かされることはない。
ただ、美しいだとか尊いだとかいうものが、死ぬ瞬間まで抱えて共にありたいものということであるならば。
「それなら、お前だ」
ひしゃげた指を朱娘に向けた。
「あら」
天女は軽い驚きを浮かべ、くすくすと笑っていた。