表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空 犬雲  作者: 甲斐 雫
4/4

4 Dewclaw

Dewclaw・・・狼爪 犬の前脚にある爪。犬種によっては、後ろ脚にも存在する。

 支局の医務室に運び込まれた空は、設備の整った処置室で ふみ先生と手伝いに入った小夜子から手当てを受けた。身体は綺麗に清拭され、首の怪我と左胸の傷も治療され、そして暴行された後の処置も行われた。けれど、彼女の意識は戻らず昏睡状態だった。


 博は病室のベッドの傍で、ふみ先生の話を聞く。

「首の怪我は、多分跡が残るわね。綺麗に縫合できるような形状じゃないの。でも、寧ろ心配なのは彼女の心の方だわ。本来ドッグスパイクチェーンって、呼吸を止めるほどきつくは着けないで鎖を引く力加減で犬を従わせるものだけど、彼女の傷の深さを見るとかなり強く引かれたんだと思う。首を絞められるって言うのは、人間にとって恐怖でしかないわ。痛みと共にそんなことされて気を失うと、臨死体験に近い。それを何度も繰り返されたら、精神的におかしくなっても不思議はないのよ」


 おまけに彼女は、そんな状態で性的暴行も受けている。夏とは言え、地下のコンクリートの床に裸で転がされ、水をホースでかけられていたせいで、肺炎一歩手前の状態だ。

 高熱と悪夢に苛まれているらしい空は、時折苦し気な声を漏らし、右手で首元を探るような仕草をする。汗を浮かせた額とひそめられた眉。かぶりを振るように頭が揺れ、呼吸が乱れていた。

 博は、首の包帯の上を引っ搔くように動く彼女の手を取ると、両手でそっと包み込んだ。


 愛さなければ、彼女はこんな酷い目には合わなかっただろう。

 今更考えても仕方がないことだと解っていながら、そんな思いだけが頭の中を支配する。

 けれど・・・

 博は唇を噛み締めた。

 取り戻すことができた。空は、生きてここにいる。

 悩んだり考えたりは後でもできる。今は、ただ傍にいて彼女のために出来る限りの事をする。

「・・・空、ここにいますよ」

 そう囁いて、静かにその髪を撫で続けた。


 身体が温まり、鎮痛剤も多少効いてきたのだろう。しばらくして、空の右手が動いた。

 また首の包帯に向かうのかと思いその手を止めようとするが、彼女の片手は自分の顔を覆う。

 そして微かに呻くと、寝返りを打って身体を丸めた。

「・・・・っ・・・」

 胎児のように丸くなり、身体を固くして身を守るような姿に、博は両手を伸ばす。ベッドに腰かけ、首に触れないよう気を付けて彼女を抱き起し、そっと腕の中に閉じ込めた。

 補聴器を外した右耳が、しっかりと彼の胸に押し当てられる。

「・・・空、帰ってきていますよ。安心する場所に」

 この鼓動が聞こえますか?と呟きながらしっかりと抱きしめた。

 ゆっくりと、空の身体から力が抜けてゆく。

 そしてそのまま、彼女は再び眠った。


 その後、3日間かけてゆっくりと、空は自分自身を取り戻してった。

 最初の日は、視点も定まらずただぼんやりと宙を見ていた彼女に、博は水を飲ませ食事を与えた。飲み込むことさえしようとしない彼女の喉を撫でおろし、少しずつ時間を掛けて水やお粥を嚥下させる。ふみ先生に教わって、清拭も行い病衣を着替えさせた。

 されるがままで何も反応しない空だったが、2日目には自力で食物を飲み込めるようになり、時折視線が定まるようになる。そして3日目には、ぼんやりと博の顔や姿を見るようになった。


 4日目の朝、目覚めていつものように傍にいる彼を見ると、彼女は囁くような声を発した。

「・・・・ひ・・・ろ?」

「空!・・・ここにいますよ」

 飛びつくように両手を伸ばし、彼女の顔を掌で包み込む。

 空は、暖かいその感触にホッと小さく息を漏らし、1度閉じた瞼をしっかりとあげて彼の顔を見る。

「・・・すみません・・・私のミスです」

 最初に出た言葉は、謝罪だった。


「・・・何故謝るんです?謝るのは僕の方です。僕のせいで、君はこんな目に遭ったのだから」

「いいえ、油断していました。拉致なんてされなければ、迷惑も心配もかけずに済みました」

 あくまでも自分のミスだと言う空に、博は苦笑を浮かべる。

「取り合えずふみ先生に診てもらって朝食が済んだら、事件の事を説明しますね」



 博が客観的かつ冷静に、爆破の件から最終的に救出するまでを語る間、空は上体を起こして聞いていた。彼が全てを話し終わった後、彼女は大きく1つ深呼吸をする。拉致された理由は、これで理解できた。


「BBと言う男に、心当たりは全くありません。僕を苦しめることがリフレッシュになると言うからには、かなり恨まれているのだろうと思いますが・・・。僕が愛さなければ、君はこんな目に遭わなかったとさえ思ってしまいました」

 そんな彼の言葉に、空は少し考えた後、静かに話し始める。

「寧ろターゲットが、私に確定したことは良かったと思います。自惚れかもしれませんが、他の誰より対応が出来ると思いますから」

 FOIの訓練期間とその内容。実働年数や経験値。そう言ったことを踏まえての発言なのだろう。

「そう言う意味では、見かけだけでも、今の状態を続けた方が良いと思います」

 彼が自分への愛情を失ったと悟られれば、他のメンバー全員がターゲットになりかねない。だから、見かけだけでも、その振りでも良いから、続けた方が良い。

 淡々と、そんな言葉を紡ぐ彼女に、博はきっぱりと告げる。

「そういう事を考えなくても、僕は今まで通り、君を愛し続けますけどね。やはり無理ですよ、諦めるとか別れるとかそう言うのは」

 見かけとか振りだとか、そんなことは考えたくも無い。今はただ、空を取り戻したという実感だけが心の中を満たしていた。博ははっきりと、そんな空の言葉を否定する。


 あの動画やテレビ電話の映像は、今思い出すだけでも、BBに対する怒りや憎しみが沸き上がる。

「アイツは、君の事を雌犬呼ばわりしましたから」

 今、目の前にBBが居たら、その口に犬の糞でも突っ込んでやりたい。

 そんな彼の言葉に、つい空は思ってしまう。

(医務室のどこに、そんなものがあるのでしょう?)

 けれど空は、どこか剣呑な色を含む瞳で、穏やかな笑顔を見せた。

「雌犬でも雌豚でも、あんな相手に何と呼ばれようと構いません。寧ろ、親し気に名前を呼ばれる方がずっと嫌です」

 ファーストネームもミドルネームも、ラストネームでさえも呼ばれたくない。BBなんかに。

 そんな彼女の言葉に、博は思わず口元を緩めてしまった。

 どす黒く蟠っていた胸の中に、光が射しこむような気がする。


「私からも、報告します」

 やがて空は、自分からそう言った。

 捜査官としては、被害者にになってしまっても報告の義務がある。

 博の方からは切り出しにくいのではないかと思い、気遣いは無用だという意味を込めて話しだす。

「と言っても、BBに関しての情報は殆どありません。煙草の臭いがしましたが、博も室内に入った時に解ったと思いますし」

「あ・・・いや、全く気付かなかった。それどころでは無かったからね。はっきり言って、君の事で頭がいっぱいだった」

 空は、そうですかと呟いて俯いた。申し訳ないことをした、と思う。

「煙草の銘柄は、ゲルベゾルテです。独特の匂いなので、特定できます」

 それでも、ゆっくりと顔をあげて彼の顔を見る。

「BBについては、そのくらいです。彼は私に殆ど近づきませんでしたので。他に何か聞きたいことがあったら、どうぞ」

 空の穏やかな表情に、博は徐に口を開いた。

「今回、君が受けた被害を、僕は全て知っておきたいと思っています。僕は知らない方が不安になりますので。知っておいた方が、その時はツラくても後になって知るより余程いい。配慮も出来ますからね。でも、君が言いたくなければ無理に聞こうとは思いません」

 空は、ゆっくりとかぶりを振った。


「では、あの数字は車のナンバーで合っていましたか?」

 動画で顔が写された時、微かに鳴らされた歯を合わせる音のことだ。

「はい、拉致される前に頭を殴られました。背後から近づく気配は気づいていましたが、助けにきてくれた人かと思って油断しました。そこが私のミスです。それで、少しの間身体が動かなかったのですが、担がれて店から出た時に車のナンバーだけはチラッと見えました」

「拉致の実行犯と、その後BBと一緒にいた男たちは同じでしたか?」

「はい、体臭が同じでした。日本人では無かったと思いますが、車に乗って直ぐに、目隠しされて補聴器を外され拘束されましたので、それ以外は解りません」


「その後、3日間監禁されていたんですよね。何か気づいたことは?」

「移動中、車を停めて彼らはスマホで何かを話しているようでした。その後、1人が車から出て薬を購入してきたようです。車内で飲まされましたが、睡眠薬だと思います。短時間でしたが眠ってしまって、目が覚めたら真っ暗な部屋でした」

 拘束されてはいなかったが、服は全て脱がされていた。目隠しも無かったが、補聴器も無い。

 解るのは、エアコンからと思われる風が、弱く肌に当たるくらいだった。

「エアコンの稼働具合から、地下ではないかと思いましたが、はっきりとは判りませんでした」

「視覚が使えない状況は、辛かったと思うのですが、大丈夫でしたか?」

「脱出できる可能性が無かったので、殆どの時間は寝ていました」

 空は薄っすらと笑って見せた。この場合、体力温存は鉄則だ。動かずに寝ている方が良い。けれど、なかなか眠れなくて困ったのではあるが。

「その後の事は、ふみ先生から聞いています。診察と治療をした先生が言う事ですから確かなので、僕も解っています」

 空は、納得したように頷き、小さく息をついた。

 感情に蓋をしていても、やはり多少は辛いのだろうか。


「ただ、もう一つだけ、変な事を聞いてもいいですか?・・・ドッグフード、食べたんですか?」

「え?」

 あの時の映像で、ドッグフードのの袋は封を切ってあった。

 けれど、皿2つはどちらもカラだったのだ。

「ああ・・・はい、食べましたが?」

 3日間、飲まず食わずでいたのだから体力を少しでも回復させるには、食べるしかなかったのだ。

「カロリーが必要だと思いましたので。ただ・・・とにかく食べにくくて困りました。縛られていましたので、直接口をつけるしか無かったですし・・・固いし飲み込みにくいし・・・出来れば二度と食べたくないです。嫌いな食べ物が出来てしまいました」

 真面目な顔で言う空。

「・・・嫌いな食べ物を誰かに聞かれても、ドッグフードと答えるのはやめておきましょうね」

 博は、そう言うしかなかった。


「この様子なら、明日にでも部屋の方に戻れそうですね。でも今回の多大な不安を解消して貰えるのは、もっと先になりそうですが。その前に、君と春にはまた温泉の下見に行ってもらいましょう。前回の宿は、出歯亀が出たので却下になりましたから、次は別のところで」

 博は立ち上がって、何か飲み物でも用意しようかとドアの方に向かう。

 沢山話したので、お互い喉が渇いていた。


 そんな博の背中を、空はじっと見つめていた。

 自分がターゲットで良かったと思ったのは、そうなれば彼が直接BBの攻撃を受けないという事もあったからだ。自分が矢面に立って盾となりたい。

(・・・守りたい)

 空の中に、そんな思いが沸き上がり、芯を為すようにしっかりと根を下ろす。

 黒い瞳に、強い意志が宿る。


 そんな彼女の視線を背中で感じたように、博は振り返った。

 今までとは、纏う雰囲気が違っている。

「・・・どうしました? 空?」

 歩み寄る博の顔を真っすぐに見上げて、空は穏やかだが凛とした声で、告げた。

「やりたいことが、見つかりました。多分、初めて・・・」


『するべきこと』と『すること』だけで生きてきたような時間だった。それさえも見失って、空っぽだった時もある。

 けれど、今、やっと見つかった。


「・・・それは何か、聞いても良いですか?」


 初めて出会った時、Skyとして活動していた時、空港で別れた時。それらと似ていながら、全く違う彼女の今は、それを告げるアイカメラのAIさえもが戸惑っている。

 そんな空の瞳や雰囲気を、博は肌で感じるような気がした。

 穏やかな中にも凛として存在する意志。

 しなやかな強さ。

 暖かさをもたらす日差しのような光。

 もしかしたら、彼女はやっと自分のあるべき姿になったのかもしれない。


「守りたい、と思いました。全ての事から、貴方を守りたい、と」


 博は彼女の身体を、しっかりと抱く。

(何だ、簡単なことだったんですね・・・)

 自分は空を守りたいと思い続けてきた。守られるより守りたい、とさえ思っていた。

 そんな彼女は今、全ての事から彼を守りたいと言ってくれた。

 それは、彼女自身が傷つくことで生じる博の苦しみからも守りたいという事なのだ。


 大切な人を全身全霊で守り、自分自身も安易に投げ出さない。

 お互いがそう思って、守り合えば良いのだ。


 彼はただ、ありがとうとだけ呟いて、自分だけの光を抱きしめた。



 1週間後、空と春は下見と称された療養のため、手配された温泉宿に来ていた。

 前回小夜子と空が行った場所とは違う、隠れ里のような鄙びた集落の和風旅館だ。とは言え、どうやらそこは超VIPなお歴々がマスコミなどから隠れて逗留するような宿であるらしい。

 部屋には当然、露天風呂が付いているし、室内の調度品も桁違いに高価そうだ。春などは、床の間の壺の半径1メートル以内には入らないと宣言する。万が一壊してしまったらと思うと、それだけで眠れなくなりそうだからと。

 けれど遠慮しても始まらないので、露天風呂はしっかりと満喫することにした。


 2人が湯船に浸かったところで、春がおずおずと尋ねる。

「空さん、包帯したまま入るんですか?」

 傷口はとっくに塞がっている筈なのに、彼女の首にはしっかりと包帯が巻かれている。

「あ、すみません。マナー違反なのは解っています。お湯には付けないようにしますので、お目こぼしいただけませんか?」

 春を目を丸くして驚いた。

「いえっ!そういう事じゃなくて・・・その、やっぱり直にお湯に触れた方が効能があるんじゃないかなって思っただけです。こちらこそ、すみません。・・・見せたくないのなら、私は後にしますから」

 そう言って、春は湯船から出ようとする。そんな彼女を、寧ろ空の方が驚いて引き留める。

「私自身は、見られても何とも思わないのですが、春の方が見たら思い出して辛くなるのではないか、と思いまして」

 そんな空に、春はプッと吹き出して湯船に戻る。

「そんなの思い出すなら、包帯見たって同じじゃないですか」

 どっちにしたって同じですよ~と笑う。

 成程、と納得した空は静かに包帯を取った。

 細い首にぐるりと巻き付くような傷跡は、赤みこそ薄れていたがところどころ盛り上がってケロイド状になっている。

「見苦しいと思いますが、お言葉に甘えます」


 春はそんな空をしばらく見ていたが、やがて視線を外して遠くを見ると、ゆっくりと話し始める。

「見ると辛くなるものって、結構たくさんあるんですよね。・・・私、婚約者を亡くしてるんです。エンゲージリングを貰う直前に、事故で。それ以来、何を見ても思い出して辛かった時期が長くて・・・でも、支局に来てからはそんな暇ないくらい、忙しくて楽しくて・・・」

 春はそこまで言って、空の方を見る。

 空は俯いてしまった。

「・・・すみません、こういう時にどんな事を言えばいいのか、分からなくて」

「あ!違いますって!そうじゃなくて・・・私、上手く言えなくてごめんなさい。ただ、見ると辛いからって見ないようにしてたら、逃げることと同じだって。そう気づいたって、言いたかったんです」


 そうして春は、もう1度遠くの景色を眺める。

「見ると辛かっただけのものが、段々変わっていくんですよね。それって、自分が変わったんですよね。少し強くなったような気がするけど。でも、私は今でも彼を愛してるんです。愛の形って色々あると思うから」

「カタチ?」

「はい、ええと・・・表し方っていうか、表現っていうか・・・そんな感じ?愛も人によって様々でしょう?でも、相手の事が誰より大切だっていうところは同じような気がするんです。表し方も、人それぞれで・・・それに、自分が変わると愛の形も変わるし、でもそれで良いのかなって」

 何だか支離滅裂で、自分でもよく解らなくなっちゃいました、と最後は笑ってペロッと舌を出す春。


 出会って半年ほどたつが、内気で引っ込み思案な春は、ずっと空に対して遠慮がちなところがあった。けれど2人で温泉に来てからは、よくしゃべるようになって随分と距離が近くなったようだ。


「そう言えば、空さん。雰囲気変わりましたよね。前よりずっと美人になったような・・・いえ、前も凄く美人だったけど」

「そうですか?自分では判りませんが・・・ありがとうございます」

 とりあえず、お礼は言っておく。

「そうですよぅ。小夜子さんもそう言ってたし・・・あ、でも真さんは『こっちが本来の空だろ』なんて言ってましたけど」

 真にしてみれば、初めてあった頃のSkyと呼ばれていた空に近いと言うところなのだろう。

「豪も『何だか目覚めたって感じがする』って言ってたから、背中をド突いておきました」

 頭にはちょっと届かなかったので、と笑いながら言う。

「何故、ド突いたんですか?」

「えっ?・・・あ、ええと・・・だってあんな目に遭った後に『目覚めた』なんて、何か語弊があるというか、何というか・・・その・・・」

「?」

 意味が解らず、小首を傾げる空である。


 とりとめのない話ではあったが、空には何となく解ったことがあった。

(愛には色々あって、その形も人それぞれ。誰より大切な人に対する気持ちが本質、という事でしょうか。それなら、私も彼を愛していると言っても良いのかもしれません)

 実感は無いのですが、と思ってみる。

(自分が変わると、愛の形も変わるのなら、それは育っていくものと捉えていいのでしょう)

 焦らずに育む、そんな風に考えてみようと思う。いつか、考えるより感じることが出来るようになるかもしれない、と。



 風呂から上がり、二人は浴衣の上に茶羽織を着て、旅館の土産物コーナーに行ってみる。

 空はまた首に包帯を巻いたが、これは人前では特徴を隠すという捜査官の本能に近い理由からだった。小柄な春と並んでいると、姉妹のようで微笑ましくもある。

「あ、これ小夜子さんが喜びそう!」

 春はそう言って、美肌効果があるというこの温泉特産の可愛い石鹸のパッケージを持った。もう少し詳しい説明を聞きたいな、と言って春はスタッフを探しに行く。空との距離が開いてしばらくした時、春の声が聞こえた。

「・・・あの、困ります。連れもいますし」

 ハッと振り返った空の眼に、スーツを着た若い男が春の手首を掴んでいる様子が見えた。

「いえ、ですから変な意味ではなく、ただ一緒にお茶でも如何ですかと、うちの先生が仰ってるだけなので・・・」

 どこぞの政治家の秘書なのだろうか。けれど春は怯えたようにブンブンと頭を振っている。

「失礼、この手を離していただけますか」

 いつの間に近づいたのか、空が傍に着て男の手首辺りを掴んだ。

 左程力を入れているように見えないが、その指がツボを押したのだろう。男は電流に打たれたように手を離す。

「ぅわっ!・・・誰っ?」

「連れです」

 口元には穏やかな笑みを浮かべているが、スッと半分に細められた目が冷たい光を帯びている。

「び、美・・・いやっ、し、失礼しました」

 美人だと言いかけた男だが、彼女の剣呑な雰囲気に気づくと、身を翻して逃げ去った。

「・・・た、助かりました~。ありがとうございます。・・・それにしても、やっぱり凄いですね、空さんって」

 間近で空のこんな様子を見たのは、初めてだった。軽く手を触れただけで、相手の手を離させる技といい、視線と雰囲気だけで逃走させる圧といい。

「コンディションはまだ50%程度なんですが」

 空はそう言って、いつもの柔らかい雰囲気に戻る。

「体力的には80%くらいです。帰局したら、トレーニングルームに通わないと」

 少しでも早く、どちらも100%に戻しておきたい。いつでもパーフェクトな状態で、彼を守りたいのだから。体力はこの温泉旅館で完全回復するだろうが、コンディションはトレーニングで整えなければならない。

(帰局して、どのくらいで戻るでしょう・・・)

 数日で戻したいと思う空だが、彼女の中のスケジュールは帰局後あっさりと変更を余儀なくされる。

 それは、彼女の帰りを待ちわびていた、博に原因があった。

 推して知るべし、と言うところである。


 それでもまた、彼らの日常は続いていくのだ。

 おそらくは、波乱含みで。


「空 犬雲」はここで終了となります。

空の話は、まだまだこれからも続きます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ