1 Caress
「Life of this sky」シリーズ6作目になります。
Caress・・・優しく撫で可愛がること 愛撫
入道雲が、犬の形を作った。
走る猟犬のようなその形に、気づいた人たちがスマホを構える。
人々は「犬雲」だな、と言い合った。
酷暑の8月は、FOI日本支局にとって比較的平穏な日々が続いた。
梅雨明け前後の『SPNA』事件が終わった後は、クラップスに関する聞き込み捜査がメインで、日本に入り込んだクラップスの下っ端を何人か逮捕したくらいのものだった。
そんな時間の中で、食堂のおばちゃんの友人が殺された事件などもあったりしたが、博と空の関係もそれなりに進んでいる。
『SPNA』事件で負傷した空と小夜子は、事件後、温泉で3日間だけ療養してきた。
そして帰ってきたその晩から、博は空を抱き枕のように抱えて寝ている。彼女の左手の傷が、温泉効果もあってもう完全に痛まないと確認出来たからだ。本当は、医務室から解放された直後からそうしたかったのだが、流石に自制しなければと、その時は我慢したのだ。
漸く解禁となって、事件の後遺症的な不安は少しずつ解消していくようだったが、空の方はそれに関して気掛かりなことがあった。
毎晩、部屋で1羽になって夜を過ごすビートの事である。口には出さないが、可哀そうなことをしていると思っているに違いない空に、ある日 博が提案をする。
「空、もうこっちの部屋に移ってきませんか?ビートも一緒に。この部屋の方が広いですから、ビートものびのび飛び回れるでしょう。君の衣類もこっちに移してしまえば、いちいち着替えに戻らなくてもいいのですから楽でしょう?」
幸い僕のベッドはダブルサイズなので、毎晩一緒でも狭くありませんよね、と何でもない事のように言う博だが、内心はドキドキである。
「そうですね、それはビートにもありがたい事だと思いますが、ご迷惑ではありませんか?」
意外にもあっさり提案を受け入れる空に、博はいかにも嬉しそうに答えた。
「いいえ、全く。まだ当分、君に関しては安心できそうも無いので、これからもよろしくお願いします。今の部屋も使えるようにしておけば、問題は無いでしょう」
こうして博は、一応最初の目標『空と一緒にこの部屋で暮らす』と言う状況を手に入れたのだった。
当然、その状況は他のメンバーにも知らせておかなければならない。秘密と言うほどのものでは無いが、このアットホームな職場では無いに越したことは無い。
そう思って、どうやって伝えようと案じていた博だが、結構あっさりと事実はバレてしまう。
それは、リビングスペースでのビートの一言だった。
《 ビート オヒッコシ シタノ~ 》
これだけで、他の4人には全てが解ってしまった。けれど日頃の博の様子を見ていれば、そうなることは時間の問題だと思ってもいたので、全員『あっ、そう』で済ませてしまった。
博の案件は杞憂に終わった。
そんなある日、本部から支局に依頼があった。テリー・ホーンという男の逮捕である。
ホーンはA国から日本に来ているクラップスの下っ端だが、彼を強制送還して欲しいという。本国に送り返してくれれば、後は本部の仕事になるので、こちらは逮捕すればよいだけの事だ。
けれどこのホーンと言う男、なかなか立ち回りが上手くて、警察はなかなか逮捕にまで漕ぎつかない。小悪党レベルなのだが、鰻のようにヌルヌルと捜査網をかいくぐっている。
そこで支局にお鉢が回ってきた、ということだ。
いつものように、春が彼に関係する情報を様々なところから探し出し、真と小夜子が聞き込みに回る。その結果ホーンの行きつけのショー・パブが解ったので、後は張り込みと逮捕になった。
『オダリスク』と言う名前のその店は、港に近い繁華街の奥にあった。捜査官たちは、毎晩交替で張り込みを続ける。そしてようやく4日後、ホーンは『オダリスク』に姿を現した。
その晩は、空・真・豪の3人が張り込んでいた。店内に真と豪が入っている。
『オダリスク』は女性キャストが際どいそれ系の踊りを披露する店なので、空は車で待機だ。
今晩予定通り彼を逮捕出来れば、そのまま車に乗せて警察へ連行する予定なので 捜査官は3名までになる。博が渋々留守番となったのはそのためだ。
そして日付けが変わる頃、先に豪が店を出てくる。
「もう直ぐ、ホーンの奴が店を出ます。贔屓にしてる女性キャストからフラれたみたいで、機嫌が悪いですね。あと、刃渡り15センチ以上はありそうなナイフを隠し持っているようです」
豪は車内にいた空に報告する。空は待っている間に、着替えを済ませていた。エスニック風のチュニックは胸元の切れ込みが深く、中に着ているニットのチューブトップが良く見える。黒のパンツは脱いでいて足元はヒールサンダルを履いていた。この辺りの店で働いているおネェちゃんのように見える。
「では、手筈通りに・・・」
空はそう言って車外に出る。やがて出て来たテリー・ホーンが大通りの方へ歩き出すと、後ろから小走りに近づき、軽くぶつかった。
「あぁ!・・・ナンだ、ねぇちゃん?」
ホーンが流暢な日本語で話し出すが、手は空の腕をしっかりと掴んでいる。
「・・・あ~~、あ~~~」
空は声だけを出しながら後方を指さした。その先には、いかにも怪しそうな様子を演じる豪が 電柱の陰からこちらを見ている。
「ナンだ? アイツに付きまとわれてんのか?」
空は、コクコクと頷いた。ホーンは豪の方に向かって、威嚇するように怒鳴る。豪は手筈通りに、慌てた風を装って逃げた。
「行っちまったぜ・・・」
ニヤリと笑うホーンに、空は自分の補聴器を示し、口の前で×を作って見せる。
「・・・ああ、何だ。耳が不自由なのか。声は出せるけど、ちゃんと喋れないって感じか」
空はもう一度コクコクと頷き、お礼を言う様に深く頭を下げる。けれどホーンは、そんな彼女を値踏みするように上から下まで視線を動かした。
「ふぅん・・・ナンだよ、上玉じゃねぇか。耳と口が不自由なら、こっちはラッキーだぜ」
ホーンは空の腕を掴んだまま、すぐ横の細い路地に足を向ける。街灯も無い暗い道路は、月明かりが照らすだけで人通りなど全くない。
「やっぱり、お礼はちゃんと貰わないとな」
男はそう言って、彼女の身体を壁に押し付ける。
そしてそのまま、酒と煙草臭い口で空の唇を塞ぎに来た。
一瞬、空の身体が反応した。
(イヤ!)
訓練ではこういう時、抵抗しない方が良いと教わっていた。要するに『おとり』になっているのだから、抵抗は『弱々しく』相手を煽るくらいでなければならない、と。
こんなキスは嫌だ、と思った瞬間、空の片手はホーンを突き飛ばしていた。それでも渾身の力ではなかったのは、任務であることを体が認識していたからだろう。
獲物の予想外の抵抗に、店での欲求不満も加わって、ホーンは頭に血が上ったようだ。
隠し持っていた大振りのナイフを取り出し、空の頬にピタピタと当てる。
「大人しくしてなって。痛い思いしたくねぇだろ?」
そして、彼女の腕を掴んでいた手を離し、チュニックの胸元を中のチューブトップごと引き下ろす。
薄暗く生ぬるい空気の中に白い果実がこぼれ出ると、ホーンの汗ばんだ掌が乱暴にまさぐる。
その時。
「警察だ! テリー・ホーン、銃刀法違反並びに婦女暴行の現行犯で逮捕する!」
真が、警察手帳の方を示しながら大声で叫んだ。同時に豪が飛びついてくる。
しかし空は、その直前にナイフを右手で払いのけて飛び退いていた。
豪は、ホーンが自分の罪名を聞き取ったことを確認すると、頸動脈圧迫で彼をあっさりと落とす。真は一応彼に手錠をかけ、空に声を掛けた。
「大丈夫か?」
空は衣服を直し、自分の右腕を眺めていた。
「はい・・・ちょっと掠っちゃいましたが、大したことありません」
「・・・傷害罪も追加しとくか」
もう少し我慢して大人しくしていれば、掠めることも無かったと思うが、多分出来るだけ早く離れたかったのだろうと自分の行動を分析する。真が差し出したハンカチをありがたく受け取り、血が流れる腕を縛る。捜査官3人と昏倒した容疑者を乗せ、車は警察に向かった。
「・・・それで、また怪我したんですか」
溜息をついて、包帯が巻かれた空の右腕に博がそっと触れる。
(怒られた方が良いんですが・・・)
悲しそうに見える博の顔を見ていると、いたたまれない気分になる。
博にしてみれば、やっと左腕の傷跡が目立たなくなってきたと思ったら、今度は右腕なのだから、溜息もつきたくなるだろう。
「すみません、でも浅いので直ぐに治ります。痛みもほとんどありません」
空としては、そう言うしかない。
「・・・いつもご心配おかけして、申し訳ないと思います。ですから・・・」
空はそう言って1度口を噤むが、真っすぐに彼の顔を見て言葉を紡ぐ。
「もっと、安心できる相手の方が良いと思います。大事にして下さるのは、本当にありがたいと思いますが、こんなに心配ばかり掛けていては・・・いつか博が禿げてしまいそうです」
『禿げる』と言われて一瞬ギョッとする博。そろそろそんな心配をしなくてはいけない年なのだろうか。けれど空は、ただ本気で彼を案じているのだ。
「心労でお体を壊されてもいけないと思いますし」
博は大きく溜息をつくしかない。
「心配だから安心する方と取り換える、などと言うことは簡単には出来ませんよ。特に愛している相手となれば不可能です。そんなに僕の心労が気にかかるなら、いっそハグ以上の事で僕を安心させてくださいよ」
言ってしまってから、博は後悔した。
(これではOKを貰っても、取引的な合意になるだけじゃないですか)
額を押さえて俯いた博に、空は近づいて跪きその顔を覗き込む。
「・・・?」
俯かれると唇を読みにくいので、そう言う行動に出たわけだが、素直な疑問がその表情に出ている。
下から見上げる顔が、幼げで可愛い。
(・・・っ、それは反則です)
空は、彼の顔を見つめたまま、更に言葉を続ける。
「・・・嫌なことではありませんから、ご安心ください」
(いや、そう言うことじゃなくて・・・出来れば、こう・・・もっと自然な形で・・・)
考え込んでしまう、博である。
前回の時、彼女は普通の状態ではなかった。空っぽの彼女は、心神喪失に近かったのだ。
今は、普通の状態だと言えるが・・・これが空なのだと言えば、全くその通りなのかもしれない。
そう思えば、先ずはこういった形から始めるのもアリなのだろうか。
「右手の方は、本当に痛くないんですね?」
一応念のため確認して、頷く空の顔を両手で挟む。
そして彼女の唇に、軽い音を立ててバードキスをすると、そのまま深く熱いキスを与えるのだった。
「・・・ん・・っふ・・・」
ゆっくりと時間を掛けたキスが、ようやく終わった。
「大分、気持ち良さそうな顔をするようになりましたね」
潤んだ熱っぽい瞳。薄桃色に染まった頬。濡れた唇は露を含んだ赤い花弁のようだ。
「・・・そう・・ですか・・・自分では判りませんが」
博は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「鏡を持って来ましょうか?」
「・・・・・・・結構です」
(そんな顔を自分で見て、どんな役に立つのでしょう)
少しばかり拗ねたような表情になる空に、博はついクスっと小さく笑う。
「ところで、この補聴器ですが。どの程度まで聞こえているんですか?」
空の右耳に装着してある補聴器に触れ、指先を耳の後ろから項に滑らせる。
「・・・・っ・・・モ、モードによって違いますが・・・ノーマルだと大まかに言って・・・健常者の半分くらいです」
首筋に走る感覚に息をつめながら、彼女は何とか答える。
「外してしまうと、どの程度聞こえますか?」
空の左耳は完全に聴覚を失っているが、右は僅かに残っていると聞いた。
「耳元の音なら・・・ぁ・・き、聞こえ・・ます・・」
首筋を辿っていた指先が、いつの間にか掌全体で肩を撫でおろしていた。
彼は空の右耳に顔を近づけ、吐息を吹き込むように囁く。
「・・・リセリ」
近頃は使わなくなっているミドルネームを囁かれ、彼女は思わず目を見開いた。
「光、の意味ですよね。僕にとっては、たった一つの光なんですよ。こうしていることで感じられる、闇の中の明るくて暖かい光です」
彼の掌が、二の腕の内側を熱く包んだ。その熱が、体中に波打つように伝わってゆく。
「・・・・ぁ・・・」
それだけで、微かな声が零れる。空気の流れを読む彼女の肌は、思った通り大層敏感だ。
「空、愛していますよ。補聴器を外しますね。僕もアイカメラを取りますから」
博は耳元でそう囁いて、優しく彼女の補聴器を外すと、自分もアイカメラをサングラスごと外し、ベッドサイドのテーブルに置いた。
素のままで、この光を感じていたい。
想いを綴る囁きだけを、聞いていて欲しい。
カーテンの隙間から零れる月の光が、優しく室内を漂っていた。