悲劇の女性スルタン・ラズィーヤ
拙作「捉えられ奴隷にされた俺、軍人として頭角を現し十字軍を撃滅するも、危険視されて追放される。モンゴル軍が攻めてきたから戻って来てくれ? ああ、戻ってやるとも(ニヤリ)。」(略称「ときもあ」)の中で、マムルーク朝初代スルタンとなった女性、真珠の木について触れました。
その際、イスラム史上の女性君主について、「寡聞にして他の例は知りません」などと無知を晒してしまったのですが、調べてみたところ、他にも何人か存在したようです。
Wikipediaに「女性君主の一覧」という記事があります。
それを足掛かりに調べてみると、マレー半島中部、現在ではタイ領の南の端にあたる地域を版図としたイスラム国家パタニ王国では、1584年から1651年にかけて、4人の女王が続きました。
それも、3人の姉妹の間で順番に王位が受け継がれ、その後末妹の娘が即位したとのこと。
その他、インドネシアのアチェ王国でも1641年から1699年にかけて4人の女王が続いたり、イスラム化した後のイル汗国(フレグ・ウルス:フビライの弟フラグ(フレグ)が建てた国)でも、1338年から1339年にかけて、サティ・ベクという女性君主が立ったことがあるようです。
そんな中で、今回取り上げるのは、インド奴隷王朝の第五代スルタン。ラズィーヤ(ウルドゥー語風の読みでは「ラズィヤー」)という女性です。
「奴隷王朝」という非常にインパクトのある名前は聞いたことがあるけど、詳細はよく知らん、という方が多いことと思います。かく言う私もその一人(笑)。
ただし、「奴隷」といっても、正確には奴隷上がりのエリート軍人、つまり「マムルーク」です。実際、近年では「奴隷王朝」という誤解を招きかねない呼び方を避け、「インドマムルーク朝」といった呼び方をされることも多いのだとか。
マムルークって何ぞ?という方は、拙作「ときもあ」をお読みください。どうでもいいことですが、「ときもあ」って、「ときめき♡ワンスモア」とかいったかんじのラブコメだかゲーム(ギャルゲー?乙女ゲー?)だかの略称みたいですね。残念ながら(?)、イケメンマムルークたちと恋を育む話、とかではありません。あしからず。
閑話休題。
奴隷王朝の歴史を簡単に述べておくと、現在のアフガニスタンに興り北インドにも版図を拡げたイスラム王朝・ゴール朝の君主のマムルークであったクトゥブッディーン・アイバク(1150~1210)という将軍が、主君の死を契機に、1206年にデリーで独立して王朝を建てます。
その死後、息子が二代目を継ぐのですが、父アイバクのマムルークであり娘婿でもあったシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ(?~1236)に弑され、イルトゥトゥミシュが即位(1211年)。このあたりの流れは、エジプトマムルーク朝でもお馴染みの構図ですね。
イルトゥトゥミシュは自身の権力確立のため、仲間であるテュルク系奴隷の40人を貴族として遇し、彼らは「チャハルガーニー」(「40人」の意)と呼ばれます。ちなみに、アイバクもイルトゥトゥミシュも、皆テュルク系の遊牧民族出身です。
彼らの力を借りて、イルトゥトゥミシュはアイバク死後の混乱を乗り切るのですが、発展要因と衰退要因は同じコインの裏表、という言葉の通り、チャハルガーニーは彼の死後に禍の種となります。
ラズィーヤこと、ジャラーラト・ウッディーン・ラズィーヤは、このイルトゥトゥミシュの長女として、1205年に生まれました。
彼女の兄でイルトゥトゥミシュの長男であるナースィルッディーン・マフムードという人物は、ベンガルの総督にも任じられ、将来を嘱望されていたのですが、残念ながら1229年に早世してしまいます。
長男に代わる後継者に誰を据えるか、イルトゥトゥミシュは頭を悩ませた末、他にも男児が複数いる中、ラズィーヤを後継者に指名します。
これは、よっぽど他の息子たちがボンクラ揃いだったのか、ラズィーヤがよほど優秀だったのか――。まあその両方ではあったのですが、イルトゥトゥミシュに相談を受けた貴族や神学者連中には、別の思惑がありました。
そう、女なら傀儡にし易かろう、という皮算用です。
ただその一方で、やはり女性をスルタンに戴くことに抵抗を覚える人たちも少なくなく、タイミング悪く彼女がイルトゥトゥミシュ崩御の場に居合わせなかったこともあって、第四代スルタンに推戴されたのは異母兄のルクヌッディーン・フィールーズ・シャーでした。
ところがこのフィールーズ・シャー、即位するやいなや享楽に耽りだすようなボンクラ。やはり父親の評価は正しかったわけです。
おまけに、その母親のシャー・トゥルカーンという女性も、政治に介入して貴族たちの反感を買います。
結果、領内各地で反乱が勃発。フィールーズ・シャーは討伐に赴きますが、ラズィーヤはその間にデリーの人々を味方につけ、クーデターを起こして義母を捕縛します。
その報せを受けて、デリーに取って返したフィールーズ・シャー。しかし、配下の中からも離反者が出て、ついに彼も異母妹に捕らえられてしまいました。
異母兄を処刑し、スルタンの座についた(1236年)ラズィーヤ。しかし彼女の前途は多難でした。
彼女が王位を掴み取れたのは、チャハルガーニーたちの支持があってのことでしたが、彼らの本音は、ラズィーヤを傀儡にして実権を握ること。
しかしながら、恐らく誰にとっても不幸なことに、ラズィーヤには、傀儡に甘んじるにはあまりに政治軍事の才があり過ぎたのです。
ラズィーヤは女性らしい服装を捨てて男装し、イスラム女性の嗜みである顔を覆うこともしませんでした。
そして、西部ラージャスターン地方に割拠するラージプート族を平定するため遠征軍を派遣して、一時的とはいえ国内を安定させる一方、宰相一派が起こした反乱も鎮圧します。
このように、政治軍事に非凡な才を発揮したラズィーヤですが、チャハルガーニーたちの力を抑えるため、非テュルク系の人材を積極的に登用し始めます。特に重用されたのは、アビシニア(現在のエチオピア)出身の黒人奴隷上がりのジャマールッディーン・ヤークートという人物。
しかし、彼を将軍に任命したことはテュルク系貴族たちの大反発を招き、結果的にラズィーヤの命取りとなってしまいます。
1239年から1240年にかけて、北西部で反乱が起き、自ら遠征に赴いたラズィーヤ。しかし、遠征軍内部でも反乱が勃発。ヤークートは殺され、ラズィーヤも捕らえられてしまいます。
デリーの貴族たちはその報せを受け、彼女の弟の一人、ムイズッディーン・バフラーム・シャーを擁立します。
しかし、ラズィーヤも転んでもただでは起きません。反乱を起こして自分を捕らえたマリク・アルトゥーニヤという人物を、自分との結婚を餌に味方につけるという離れ業をやってのけます。
かくして、夫アルトゥーニヤとともに、弟バフラーム・シャーを擁する貴族たちと対決したラズィーヤ。しかし、残念ながら勇戦空しく敗れ去り、アルトゥーニヤは戦死。ラズィーヤは逃げて再起を図ろうとしますが、落ち武者狩りの農民の手にかかり、命を落とします。1340年10月13日のことでした。
イブン・バットゥータ(当時世界中を旅した人物:1304~1369)の記録によると、彼女はこの時も男装していたため、その遺体は当初ラズィーヤのものだとは気付かれなかったのだとか。
ところで、ラズィーヤと彼女が重用し将軍位に就けたヤークートとの関係については、まあ当然というべきか、愛人関係だったのではないかという下衆の勘繰りが当時からあったようです。
何だか似たような関係を思い浮かべた方、いらっしゃいませんか? そう、我が国奈良時代の、孝謙(称徳)女帝と道鏡との関係です。
この両者の関係についても、女帝は道鏡に対して相談相手としての信頼を寄せていただけだ、いや女帝はかなり本気だった、道鏡も野心満々だった、いやそんなことはなかった、などと諸説あります。
個人的には、ラズィーヤは純粋にヤークートを腹心として信頼し、チャハルガーニーへの対抗馬として重用しただけだったのではないかと思います。
下衆の勘繰りをされる可能性については、頓着しなかったのか、それとも、懸念は抱いていたけれどそうするしかないと思っていたのか――。
ただ、惜しむらくは、もう少しじっくり狡猾に事を進めることはできなかったのかということ。
非テュルク系人材の登用は、チャハルガーニーを過度に刺激せぬよう、いざという時の味方を作る程度にとどめておき、チャハルガーニーも一枚岩だったはずはないので、分断しいがみ合わせて力を削ぐ、とか、そういった手段も取れたのではないでしょうか。
とは言え、両者の力関係的には、ラズィーヤは圧倒的に不利。それでも傀儡に甘んじるを潔しとしない以上、彼女としてはこれが精いっぱいだったのかもしれません。
それにしても、中々に劇的なラズィーヤの生涯。このままでも十分小説の題材になり得るでしょうが、ヤークートとの身分違いの恋とか、以前から彼女に想いを寄せていた(実際、以前から面識はあったのでしょう)アルトゥーニヤとの三角関係とか、色々盛り込めそうです。ラズィーヤにはちょっと申し訳ないですが……。
逆行転生してラズィーヤ本人に生まれ変わるとか、タイムスリップして彼女の助言者になるとかで、悲劇を回避する方向性も良いかもしれません。現代知識でどうにかできるような状況かって? それは知らん。
あとは、舞台を変えて異世界恋愛ものとかにもできそうです。もちろんその場合はハッピーエンドに持って行く方向で。
というようなわけで、ラズィーヤという人物をドヤ顔で紹介してまいりましたが……。
実は、「白猫プロジェクト」というゲームの中に、彼女から名前を取ったと思しきキャラクターが登場するようでして。もしかして、私が知らなかっただけで、割と有名な人物だったんでしょうか?
だとすると、恥に恥を重ねることになってしまうわけですが、まあ、「いや全然知らんかったわ、教えてくれてありがとう」と言ってくださる方が一人でもいらっしゃれば、この駄文も無駄ではなかった、と思うことにいたします(笑)。
最期までお読みいただき、ありがとうございます。
ラズィーヤという人物と、彼女が生きた時代、いかがでしたでしょうか。
私自身、非常に興味はそそられるのですが、具体的にイメージできるかというと、正直難しいです。
イスラム化したテュルク系騎馬民族出身者を支配者階級とするインド――。
おそらく、私たちが想像する「インド」とはかなり違った世界なのだと思います。
ちなみに、公用語はペルシャ語だったようです(Wiki参照)。
どなたか、小説にしていただけませんかね(真剣)?