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貴婦人の嗜み

 


 聖都の真っ青に晴れ渡った空の下、涼やかな初秋の風が吹き抜ける。


 だが、そこだけ黒い靄がかかったかのように空気が澱み、影が出来る。何故とは知れないが人を陰鬱な気分にさせる。

 ザカリアスはそういう男だった。


 今まさに。

 黒い男は一礼して、背を向け去って行く。

 取り残されたセラスティアは、思わず呆然とその背を見送った。


 (……わざわざ、わたくしに喧嘩を売りに来たのかしら?)


 だが仕事を切り上げて急いで来た、というのは嘘ではないらしい。書類仕事でついたのだろうか、ザカリアスの指先にはまだ黒々とした墨がそのままだったのをセラスティアは見逃さなかった。


 まだ夏の名残で暑い季節だと言うのに寒々しく青白い肌に、目の下には黒々とした隈が浮いている。

 再び庭を横切って引き返していく足取りもどこか覚束なく、時折呼吸を整えるように肩が上下していた。


 (自分の方が今にも倒れそうな顔色の癖に、何がご婦人の常套手段よ!)


「ねぇパティ、少しだけここで待っていてくれる?」

「えっ、セーラ様はどこへ!?ぁ、まさか宰相閣下に……?」


 セラスティアはゆっくりと深呼吸し、吐息と共に頷いた。


「……どうか、お気をつけくださいましっ!」


 パティは驚いたように目を丸くして震えている。余程あの真っ黒い瞳に見つめられるのを恐れているらしい。セラスティアの為なのか自分の為なのか、両手いっぱいに持っていた料理のお皿を脇に置き、魔除けの聖印まで切っていた。


※※※


 言外に、しかしはっきりと、くだらない社交辞令の為に声をかけるなと釘を刺したにも関わらず。


 それでも今をときめく宰相閣下のご威光に縋ろうというのか、勇気を出して話しかける者は少なからずいた。大体にしてこういったお披露目の茶会などは、これを機会にお偉方との顔を繋ぎたいという顔も名前も知らない遠縁の甥だの先代の親しい友人だのが無限に湧いてくるものだ。


 しかしそういった有象無象の輩はともかく、宮廷で官職を頂戴するいわば同僚を無碍に扱うことも出来ない。取り囲まれて長々と続く祝辞にザカリアスが辟易しだした頃だった。


 自然と人垣が割れる。

 淡いグレーのドレスに身を包んだセラスティアが近づいて来る。喪中であることを意識してか、その姿は初々しい花嫁というには決して華美ではない。しかし内から輝くような白金の髪は、そこに一筋の光が差し込むようだった。


 セラスティアはザカリアスに近づくと、するり、とその腕に指先を絡めた。

 今まさにザカリアスに、これでミストリアス侯爵家と聖王家との繋がりも益々強固に云々と愚にもつかない祝辞を贈っていた壮年の男は、現れたセラスティアに驚いて口をつぐむ。


 だが一番驚いたのはザカリアス本人だったろう。

 自身の腕に薄紅色の指先が絡むのを、信じられないと言わんばかりの恐ろしい顔で見つめ、セラスティアの顔を見て、もう一度、やっぱり信じられないと言わんばかりに目を見開いた。


「……お話中のところを失礼。あなた、ザカリアス様。お顔の色が優れませんわ」

「…………突然、何を……」

「連日連夜遅くまで宮廷に詰めて、屋敷にもまともに帰れぬほどにお忙しいのですもの。ご無理をしては、本当に貴婦人みたいに倒れてしまいますわよ。さぁ、わたくしの手に掴まって。皆様はどうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいな」


 セラスティアはザカリアスの肘をぎゅ、と両手で掴んだ。決して逃さぬように。そして、さも夫を心配する心優しい妻のように淡く微笑んで見せた。ザカリアスの頬がほんのわずかに引き攣る。


 (立ち眩みでもなんでもご自由に、って、あなたが言ったのよ!)


 傍目には、激務に疲れた夫を気遣い手に手を取って退席する若き侯爵夫妻は微笑ましく映っただろう。なんて仲睦まじいこと、とか、いつの間にあんなに、なんて下世話な好奇心と羨望にも似た声が漣のように遠ざかっていく。


 セラスティアはザカリアスの腕をぎゅっと握ったまま、一直線にガラス張りの温室を目指した。あそこなら、木々に囲まれて周りからは見えない。声も聞こえない。


「おい、一体何の真似だ……」


 客人達から十分に離れたのを見計らって、ザカリアスが押し殺した声を発した。取り繕った丁寧な口調ではない、思わず零れたかのような乱雑な言葉遣い。眉間の皺は今まで見たこともない程深く、非難がましい視線がセラスティアを見下ろす。


「………あなたと、お話したかったの」


 セラスティアは真っすぐ前を向いたまま、そう言った。


※※※


 温室のガラスの天井から、光が差し込む。八角形に細かく区切られた透明ガラスは複雑な幾何学模様を描き、死後の魂が憩う天の国からの階のように、キラキラと煌めく光が地上に降り注いだ。


 ガラス張りのサロンには、侯爵家の別荘がある南の海辺から取り寄せたというオレンジの木々や南洋の植物が植えられている。

 その合間にしつらえられたテーブルを挟んで、二人は無言のまま向き合った。自分からあんな風に言ったものの、セラスティアは何と切り出したものか悩んでいた。


 「………皇女殿下。一体何を考えているのです?」


 沈黙に耐えかねて、先に口を開いたのはザカリアスの方だった。その口調はいつも通りに戻っている。


 「何をって、喉が渇いたからお茶を淹れようかと」


 セラスティアは来客用にとテーブルに用意されていたティーセットに手を伸ばす。分厚い保温用の布が掛けられた銀のお湯差しはまだ温かい。白磁のポットの蓋を取って香りを嗅いでみれば、それは例のラスティカの茶葉だった。


 いそいそとカップの用意をするセラスティアに、ザカリアスは訝しげに眉をひそめた。


「皇女殿下ともあろう御方が、ご自分で茶を淹れられるのですか?火傷をする前に誰か、メイドを呼んだ方がいい」

「……失礼ね?お母さまと離宮にいた頃は、お茶だって自分で淹れていたわ。偶には料理だってしたし、クッキーを焼いたりだって。勿論パティほど上手ではないけれど……」

「…………」


 ザカリアスはそれっきり黙り込んだ。

 頭痛をこらえるようにこめかみを揉みほぐす。実際、たまりにたまった仕事に追われて寝不足で疲れていたし、長々とした祝辞にうんざりしていた。

 結果的には思わぬ助け船に救われた形である。睡眠不足の一因は、目の前のこの皇女にもあるのだが。

 

 セラスティアがポットに湯を注げば、ふわり、と柑橘に似た爽やかなお茶の香りが広がった。今は亡きラスティカ王国で採れるこの珍しい茶葉には、疲れを癒し心を落ち着かせる作用があるという。


 「……ラスティカのお茶は、お好きかしら?」

 「……は?あぁ、そうですな。この屋敷に来てからは、毎日……いや、嫌いではありません」


 ザカリアスは、予想していなかった問いかけに一瞬戸惑った。つい口を滑らせた。実のところ、爽やかな新緑を思わせるラスティカの茶葉はザカリアスのお気に入りで、屋敷でも宮廷でも良く口にしていた。


 セラスティアは良かった、と唇だけで呟くと、薄い琥珀色のお茶を注いだカップを、ザカリアスの前に勧める。


 そして意を決したように向き直った。


 「あの時は、ごめんなさい。あなたの言葉の真意をただすこともせず、あんな……はしたない真似を……その、叩いてしまって」


 初めてこの屋敷に連れて来られたあの時。カッとして、不意打ちで扇で叩いた。しかも思いっきり。

 ザカリアスの言葉は、ラスティカ王に対する受け入れ難い屈辱だった。だが、何であれ手を上げた事に対しては謝罪すべきだと思っていた。


 「いえ、まぁ……確かに驚きはしましたが」


 口籠るザカリアスは、今もまた驚いているようだった。謝罪されるとは思ってもみなかったのだろう。


 直接手を下した訳ではなくとも、ザカリアスがラスティカを滅ぼした張本人なのは、ある意味では事実だ。彼こそが第一宰相として聖王にラスティカ侵攻を進言したと聞いている。


 だがそれが、好きな茶葉を産する国を手に入れたいからとか、単に領土を広げたいからとか、そういった幼稚な思い付きや征服欲ゆえなのか。それとも別の何かなのか。ラスティカ王は「愚鈍な羊飼い」だと言ったあの言葉はどのような意図から発されたものだったか。


 セラスティアは、知るべきだと思った。

 真実を語るのは噂話ではない。自分自身だけだ。


 「あれからずっと、あなたに聞きたいと思っていたわ」

 

 不思議な輝きを持つ珊瑚色の瞳が、じっとザカリアスを見つめた。


 「……ラスティカ王国は、何故滅んだの」


 責めるでもなく、問い詰めるでもない。それは静かな哀しみと、強い意志に満ちた声だった。

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