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前侯爵夫人



 宮廷人の間でまことしやかに語られているという噂話をパティから聞いたセラスティアの感想は。


 「馬鹿馬鹿しいこと!」


 その一言に尽きた。


 「まさか、パティはそんな噂話を信じているの?」

 「でも、殿下……あの暗闇みたいな瞳に見つめられたらと思うと、私何だか恐ろしくて……」

 「お母様もそう言われていたわね。お父様を……先の聖王猊下を誑かした『魔性の瞳』の持ち主だと。お母様と同じ瞳を持つ私にも、その力はあるのかしら?」

 「まぁ!そんなのは根も歯もない馬鹿らしい噂話ですわ!」


 パティはとんでもない!とばかりに慌てて首を振り否定する。


 「そうよ……宮廷とは、そういうところですもの」


 セラスティアは、時折オパールのような虹色に輝く薄紅色の瞳を細めた。この瞳は、遠い異国の血の混じった母譲りだ。


 セラスティアの父である先王は、母を確かに愛していた。


 下級貴族の生まれで非公式な愛妾でありながら王の寵愛を一身に受ける母を他の妃や貴族達から守るため、手を尽くした。


 使われなくなった夏の離宮を改築してセラスティアと母とを住まわせ、伏魔殿の如き宮廷から遠ざけた。それがまた嫉妬と憎悪と尽きぬ噂を呼び、母は聖王を誑かす魔女だの妖婦だの、数々のいわれなき中傷を受けていたのをセラスティアも覚えている。


 悪魔より余程恐ろしいのは、生身の人間の悪意だ。


 「悪魔だか死神だか妖術師だか知らないけれど……大体、ミストリアス侯爵家が何処の馬の骨とも知れない者を後継に指名したりするかしら?そしてそれを、聖王猊下がお許しになるとでも?」

 「それは、そうですけれど……」


 大貴族の後継となるには、聖王の承認が必要だ。聖王も先代侯爵夫妻も揃いも揃って妙な術にかけられているとでも言うのだろうか。到底あり得ない話だ。


 「でも、まぁ、勿論全部が全部ただの嘘ではないかも知れないわね。気に入らない者を追い落としたり、毒入りワインを飲ませたり、ならず者の首領で下町に愛人と隠し子くらいはいるのかも」

「それだけでも十分殿下のお相手には相応しくありませんったら!」


 また、憤慨したようにパティが声を荒げる。セラスティアは困ったように微笑んだ。


「……ありがとう、パティ。教えてくれて。あなたのおかげよ」


 何故ザカリアスはそんな荒唐無稽な噂を否定しないのか。セラスティアには分かっていた。


 幾ら本人が否定したところで、悪意によって生じた噂の毒に侵された人々は、聞く耳など持たない。セラスティアの母の時もそうだった。


 いわれなき数々の誹謗中傷が、優しく美しくガラス細工のように繊細な母を蝕んだ。

 

 だからこそ、自分はそうはなるまいと心に決めていたはずだったのに。セラスティア自身も噂に踊らされた一人ではなかったか。

 噂通りの人の心などない冷酷な宰相に違いないと、その言葉の真意を正そうともしなかった。


(……わたくしたちの言葉を何も聞きはしないくせに、と言っておきながら。あの男の言葉に聞く耳を持たなかったのは、わたくしの方だわ)


 セラスティアは己を恥じた。

 

 薫り高きお茶の香りは、今は亡き美しきラスティカ王国を偲ばせる。セラスティアは我知らず、薔薇色の唇を噛みしめていた。


 ほんのわずかの形ばかりの夫婦だったが、ラスティカ王はセラスティアに対しては紳士的で優しい方だった。娘ほどの年齢のセラスティアを優しく気遣い、見守っていてくれた。


 だが、あの王座の間で対峙した時、兄王は確かにラスティカは『神に叛きし大罪国』だと言っていた。


(あの時は、深く考えなかったけれど、あれは一体どういう意味だったのかしら……)


 ザカリアスは、ラスティカ王は愚かだった、と言った。


(どうしてあの美しい国が滅んでしまったのか、わたくしはそれすらも知らないのだわ……)


 もう一度、白磁の茶器を傾ける。

 爽やかで何処か懐かしいその香りは、セラスティアに本来の自分を取り戻させるには十分だった。何が真実か、見極めるのは自分自身だ。


(あの男も……ザカリアスも、このお茶を好んだのかしら……)


 セラスティアはふと、そう思った。


※※※


 ミストリアス侯爵家の女あるじとして突然この屋敷に連れて来られてから、はや数日。セラスティアは全く想像もしなかった程穏やかな日々を過ごしていた。

 

 執事のジルベルトをはじめ侯爵家の使用人達は、皆セラスティアに好意的だった。寧ろ、痛ましい戦に巻き込まれた可哀想な皇女と思われているのか、過保護なまでに優しかった。


 すぐに新しく立派な部屋が用意され、宮廷で暮らしていた時の荷物が次々と運び込まれた。勿論、側仕えの侍女であるパティも一緒に。


 そして、朝目覚めれば美味しいお茶と朝食を味わい、手入れの行き届いた庭を散策し、屋敷の中を見て回り、書庫の本を読んだり手紙を書いたりして一日を過ごす。


 謝罪しようにも問い詰めようにも、あの日以来ザカリアスは一度として屋敷に帰ってこない。いっそ歯痒いくらいに穏やかな日が続いた、ある日。




 その日、屋敷はにわかに慌ただしくなった。旅行にお出かけだった大奥様がお帰りになるという。


 皇女とはいえ、留守の間に嫁に来ていたなんて、幾らなんでも勝手が過ぎる振る舞いだ。流石に緊張を隠せないセラスティアだったが、その不安は一瞬で吹き飛んだ。


 「まぁまぁ、皇女殿下!ようこそ、ミストリアス侯爵家へ!」


 馬車から降り立った老婦人は出迎えたセラスティアを満面の笑みで歓迎した。


※※※


 大奥様こと先代ミストリアス侯爵夫人テオドラは、長旅の疲れも見せず早速セラスティアを午後のお茶の時間に招待した。


 老執事に案内されたそこは、庭園に面したガラス張りの温室であった。


 八角形のガラス天井は見上げるばかりに高く、見事な幾何学模様が青い空を彩る。テオドラ自身が聖都一のガラス職人に命じて作らせた自慢のサロンだという。


 「あちらの友人のお茶会で、『この度はおめでとうございます』なんて言われたものだから驚いたわ。ザカリアスときたら、こんな大事な時に手紙のひとつも寄越さないだなんて!」

 「……それは……なにぶん、聖王猊下からの急なお達しだったものですから。侯爵夫人にお知らせするのが遅くなってしまい、申し訳ありません」

 「あら、勘違いなさらないで。殿下を責めている訳ではないの。悪いのはあの薄情な無精者よ!あの子はいつもそうやって私を蚊帳の外におこうとするのですから!あぁ、それに今は殿下こそが『侯爵夫人』ですわ。どうぞ、テオドラとお呼びくださいな」


 ザカリアスに対して随分と手厳しいテオドラは、既にセラスティアの祖母ぐらいの年齢だと聞く。肖像画では鮮やかな金色だった髪は今や雪が降り積ったかのように真っ白だし、目尻や口元には皺が目立つ。しかし、しゃんと背筋を伸ばした姿はまだ若々しく舌鋒鋭い。


 「ぁ、ありがとうございます、テオドラ様……」

 「ザカリアスのことだから、私が不在で面倒が少なくて良いと思ったのでしょう。しかもそれ以来一度もこちらに帰っていないのですって?全く、なんてこと!私が帰ったからにはそうもいかなくってよ」


 テオドラは、かれこれひと月ほど公爵家の持つ海辺の別荘へ滞在していたという。お土産のオレンジの香りの蜂蜜入りの茶菓子を薦めながら、重い溜息を零した。


 「…………実は、息子が亡くなって七年になるの。ちょうど節目にあたる年だから、息子が大好きだった別荘でのんびりと過ごしていたのよ」


 聖王国の国教である聖教の教えでは、死者のゆく天の国は七つの階層に分かれていると言われている。七年の月日をかけて天の国を巡った魂は、再び生まれ変わるのだという。


 「一人息子のディミトリアスは、私の全てだったわ。美しく聡明で、母親想いの優しい子だった。けれど、その頃聖都で猛威を奮っていた流行り病であっという間に儚くなって……」


 どこか遠くを見るように口にするテオドラの横顔を、セラスティアは見つめた。


 「旦那様が、あの子を連れて来たの。ちょうど今の殿下くらいの年頃で……私には一目で分かったわ。だって若い頃の旦那様にそっくりだったのですもの」


 セラスティアはあの肖像画の間で見た景色を思い出していた。亡くなったディミトリアスとは、きっと沢山の肖像画が飾られたあの金髪の青年のことだ。一方で、同じ侯爵家の血筋でありながら、幼い頃の肖像画さえ一枚も無いザカリアス。おそらく彼は、テオドラの夫である先代侯爵の隠し子だったのだろう。


 「ではザカリアス殿……いえ、宰相閣下は、先の侯爵閣下の……」

 「……お恥ずかしながら、殿下のお察しの通りよ。裏切られた気持ちだったわ。あの子の存在を今までずっと私に秘密にしていたなんて。悔しくて悲しくて……今まで、あの子にも随分辛く当たってしまった」


 その後、程なくして高齢であった先代侯爵が身罷り、ザカリアスは侯爵家を継いだのだという。


 「けれど、殿下もご存知の通り、我が国では女には爵位も財産も継ぐ資格がない。だからあの子が居なければ、この屋敷と領地は顔も知らない遠縁の者に渡り、私も使用人達も行き場を失っていたかも知れないわ……」


 そうだ。この国では、女には爵位も財産も継ぐことが出来ない。


 (嗚呼、この方もきっと……悔いて、いらっしゃる)


 それが、自分のザカリアスへの仕打ちに対してか、自分自身の不甲斐なさか、何に対してなのかセラスティアには分からない。

 だがテオドラの言葉に滲むのは、深い苦悩と後悔と、一抹の諦観だった。


 「ディミトリアスが亡くなって節目の七年目に、殿下が当家にお輿入れしてくださったのも、きっと神のお導きに違いない……そう、思うの」


 テオドラは、そっと縋るようにセラスティアの手を取った。


「それで、婚姻のお披露目のお式はいつにしましょうね?」

「…………えっ!?」

「こういうことは、早い方が良いでしょう?」

「ですが、わたくしはいまだ喪中の身……あまり大袈裟なお披露目はご遠慮頂きたいのです」

「けれど大事な皇女殿下をお嫁に頂いたにもかかわらず何のお披露目もしなかったとなったら……ミストリアス侯爵家の名折れですわ!先代侯爵閣下にも顔見せ出来ませんもの。お披露目の夜会はならぬというのなら……」


押しの強い大奥様は、有無を言わさぬにこにこ顔で手を打った。


「では、お茶会をいたしましょう!そうね!それがよろしいわ!」


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