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よからぬ噂


「筆頭宰相さまは――」


 敬愛する皇女セラスティアに詰められ、赤毛の侍女パティはもごもごと口をまごつかせ眉を下げた。

 できれば殿下のお耳に入れたくはない、というのがパティの正直な気持ちであった。


 しかしセラスティアという姫君は、一見儚げなその見た目とは裏腹に、存外強情である。乳母姉妹として生まれた時からずっと共に過ごしたパティには、よくわかっている。


 じっと珊瑚色の眼差しに見つめられたパティは、根比べにいつも通り負けた。そして彼女がこれまであちこちで耳にした、かの宰相のよからぬ噂を、洗いざらい吐き出すことになった。


 ――曰く。


 ザカリアスは侯爵家を乗っ取った。その正体は悪魔に違いない。

 美しく聡明な侯爵家嫡男が不幸にも身罷られ、後継のなくなった侯爵家にいつの間にか現れたのだ。と。


 夜な夜な街に出歩いては闇夜に紛れて若い女の生き血を啜っている。そういうところを見た! という兵士たちがいた。


 あの常闇を塗り込めたような真っ暗な漆黒の瞳に覗き込まれると、たちまち魂を吸い取られ言いなりの人形にされてしまう。


 逆らった者は毒入りワインを飲まされ殺される。

 

 人情派で知られた騎士団長を宮廷から追い出し、一個師団を解体し、武勲による称号までも取り上げてしまった。という。


 その後も恐ろしげなオカルティックな噂からいかにもやりそうな暗殺や謀略行為などがつらつらと、パティの口から語られた。


***


「っくし……!」

「やぁだ、風邪ぇ? うつさないでちょうだいよ、満足に薬なんて買えないんだから」


 そこは庶民……とりわけ貧窮寄りの庶民が倹しく暮らす集合建築の一室だった。


 胸元の開いたドレスと口元にほくろの化粧を施した美女が、赤子に乳をやりながら眉をひそめる。

 くしゃみを手で抑えたザカリアスは、こちらも眉を寄せながら口端を歪めた。


「どうせ……誰かがろくでもない噂話に興じているのさ。……それよりマチルダ、いつの間に産んでた? 知らせてくれれば援助くらい……」

「侯爵さまが盛り場の女と子供に援助? これ以上ろくでもない噂を増やしてどうするつもりなのさ」


 マチルダはハッと笑い飛ばした。ふぎゃっと赤子が抗議のように泣く。


「あぁゴメンよ〜よちよち。……もう、ここらはアンタの居場所じゃないよ、侯爵様」


 赤子をあやしながらマチルダは言った。ザカリアスは、片眉を軽く持ち上げる。


「住む世界が違うのさ、わかってることだろ」

「……そうだな。赤ん坊の父親は?」

「死んだよ。……こないだの戦でね」


 マチルダの言葉は乾いていた。そこにはなんの含みもないように聞こえる。

 ザカリアスはただ、そうか、とだけ答えた。


***


「それに、貧民街でならず者を束ねていて、下町に愛人と隠し子がいるんだそうですよ!」


 そんな男に殿下を嫁がせるなんて! とパティは話しながらどんどん憤慨し、バクバクとお菓子を頬張っていく。


 パティの語るザカリアスの噂は、ある面では荒唐無稽で、ある面では確かにあり得ると思えるものでもあった。

 侯爵家の当主ともあろう男が、三十も間近にして未だに独り身を貫く理由としてはどれもこれも信憑性がある。


 このような悪い噂しかない男に、大事な娘を嫁がせたい親は居るまい。

 だが、貴族の婚姻はそうした情愛の外にあるものでもある。

 利があるとなれば情愛は関係なく、縁談も纏まりそうなものでもある。


 セラスティアは、用意されたお茶に口をつけた。ほっとするようなその味と、香りは。


「これ……」


 ラスティカの名産のひとつであった。


 あの人の良さそうな執事が、気を利かせてくれたのだろうか。侯爵家ではラスティカのお茶を常飲していたのだろうか。丘の上を吹き抜ける爽やかな風を思わせるようなその味わいに、セラスティアは思わず唇を噛んだ。


***


 第四皇女と筆頭宰相の電撃的な婚姻の話題が、宮廷と聖徒を席巻したのは、聖王の宣下から一日遅れてのことだった。


 ザカリアスがいつも通りに出仕すると、宮廷で働くありとあらゆる身分官位の者が彼を見て、慌てて一礼してはさささっとはけて行き、仲間たちとひそひそ話を始める。


 いつもなら宰相の執務室に至るまでの間に、わざわざ用もないのにザカリアスの視界や意識に入ろうなどとする者は居なかったが、今朝は全く反対の状況だった。


 いちいち挨拶される煩わしさに、ザカリアスの表情は曇る。燻る。陰が濃くなる。眉間の皺は深まり、口角はひね曲がる。

 そうまで不機嫌を露わにしてもなお、普段なら絶対に声を掛けて来そうもない者たちがいちいち挨拶してくる。

 ご機嫌麗しゅう閣下。おめでとうございます閣下。などと心にもない祝辞を述べていく。


 ――この顔のどこを見てご機嫌麗しいと思うんだ? よっぽどめくらなのか。


 ただの挨拶の定型句すら癇に障る。ピリピリとこめかみが引き攣るような心地がする。

 宰相の執務室に着いたのは、いつもの所要時間から十二分も遅かった。


「おはようございます閣下。新婚の朝にしては不機嫌そうですな」


 口髭をたたえた品の良い年嵩の事務官が、執務室にやってきたザカリアスに言った。


「仰りたいことはわかりますとも。……さぁ、お茶でも召し上がって、心を安らかにしてから執務を行ってくださいませ」


 彼はザカリアスの険悪極まる凶相を見ながら頷くと、お茶を注ぎ、執務室の窓際のテーブルに置いた。


「……あぁ、そうさせて頂こう」


 気分がいかにささくれ立っているかはザカリアスもよく自覚していた。事務官の入れた茶を有り難く口にして、ピクリと片眉を吊り上げる。


「よい風味でしょう。今後は、同じものが手に入るかどうか。今ある茶葉で飲み納めかもしれませんな」


 事務官がなにを考えているのかわからない表情と声音で言う。

 ザカリアスは、執務室の窓から見える聖都の白い街並みを見下ろした。

 朝の陽光に照らされた街は、大通りも小路もあちらもこちらも人で賑わい馬車が行き交い生馬の目を抜くように忙しない。


「……ラスティカの茶葉の粗悪品が出回るかもしれないな。茶葉に限らんか。ラスティカ産の名品は多い。リストを作ってくれますか、ウィンストン卿。しばらくはそうしたものの取り締まりの強化が必要になるでしょうから」

「かしこまりました、閣下。……茶菓子もいかがですか」


 事務官が、やはりなにを考えているのかわからない表情と声のまま言った。

 ザカリアスは、陽光を反射する白い街並みを見下ろして眼を細めながら頷く。


「頂きましょう……」

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