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肖像の間

 



 セラスティアは逃げ出した。

 応接室を飛び出し、脇目もふらずに屋敷の長い廊下を駆け抜けて、目についた小部屋に飛び込んだ。まだ、扇を持つ手が震えている。


(…………わ、わたしったら……やってしまったわ)


 仮にも、この聖王国の第一宰相にして侯爵家当主を扇でぶん殴ったのだ。


 強かに頬を打たれ、面食らったようなザカリアスの顔を思い出す。


 あまりに予期せぬ出来事に、咄嗟に反応出来なかったのかも知れない。けれど流石に彼も憤慨したであろう。


 幾らセラスティアが皇女とはいえ、宰相閣下に手を上げるなど容易に許されることではない。兄である聖王に言いつけるだろうか、それとも内々に罰を与えられるのだろうか。


(……でも、お優しいラスティカ王を愚鈍な羊飼い扱いするだなんて、あんまりだわ!)


 自分が役立たずの皇女であるのは事実だ。だが、あの美しいアーモンドの花咲く王国は愚鈍な王のせいで滅びたのだと言われるのは我慢がならなかった。


 噂に聞いていた以上の冷酷な宰相は、自ら手を下しておきながら、愚かな方が悪いのだと言いたいのだろう。気づけばセラスティアは誰に言い訳するでもなく、思いをそのまま口に出していた。


 「人の心などない、なんて酷いひと……!」


 しん、と静まり返った部屋に、思いのほか大きく声が響く。


 セラスティアはふと、冷静になった。

 自分でもどうしたら良いのか分からないまま、考えなしに飛び出して来てしまった。だが、まだもって自分は名目上はあの冷血漢の妻であり、この屋敷はあの男のものなのだ。


 どこにも逃げ場などない。無知で愚かな子羊として、ラスティカ王国に捧げられた時と同じだ。

 セラスティアは何より一番、自分の無力さが歯痒かった。



(……ここはどこ……?)


 そっと視線を上げ壁を部屋を見渡せば、逃げ込んだここが何のために用意された部屋であるのか、セラスティアにはすぐに分かった。

 『肖像画の間』である。


 家門と血統に重きを置く聖王国では、上級貴族の屋敷に『肖像画の間』と呼ばれる部屋が用意されていることが多い。その部屋には歴代の当主やその家族の肖像画が並べられ、屋敷を訪れた客人に家門の歴史を説明したり、一族の者たちが故人との思い出を偲ぶのに使われる。


(あの偉そうな男のことだもの。きっと絵師にも沢山注文を付けて、実物よりずっと美化して描かせたに違いないわ)


 だとしても、常闇を溶かして染め上げたかのような黒い瞳と黒髪は変えられまい。すぐに見つけられそうだ。

 セラスティアは好奇心とほんの少しの意地悪い気持ちで、ザカリアス肖像画を探すことにした。


 まず目についたのは正面の壁に飾られた、大きな肖像画だった。ミストリアス家の家紋の入ったひと際立派な金の額縁に飾られているのは、立派な髭を蓄えた黒髪の男である。


 それがミストリアス侯爵家の先代侯爵であるのは、セラスティアにも分かった。かつては『髭の宰相閣下』と呼ばれたその人は、黒々としたお髭が何だか恐ろしかったのを幼心にも覚えている。


 そしておそらくその横は先代侯爵の奥方だろう。金髪をきちんと結い上げた上品そうな貴婦人の肖像画が飾られている。それから、先代侯爵と奥方と、奥方に抱かれた金髪の赤子の、家族三人の肖像画。


 奥方によく似た金髪の赤ん坊は、肖像画の中で揺り椅子に座る幼児から木馬にまたがる少年へ、そして宮廷服に身を包んだ凛々しい青年へとすくすくと成長していく。

 きっと彼は先代侯爵にも奥方にも、溢れんばかりの愛を注がれて育ったに違いない。幸せそうな家族の姿は、愛と慈しみと温かい幸せに満ちていた。


(でも……おかしいわ。どうしてなの……?)


 けれど、当然あるはずのものがない。ミストリアス侯爵家現当主であるザカリアスの肖像画は、幾ら探しても見つからなかった。

 まるでザカリアスという人物は最初からどこにもいなかったかのように。


※※※


 「皇女殿下!こんなところにいらっしゃったのですか!」


 振り向けば三つ揃えのお仕着せに身を包んだ上品な老紳士が扉の前に立っていた。もしかすると、彼は応接室からいなくなった皇女を探して屋敷中を駆け回ったのかも知れない。僅かに肩が弾んでいる。


 「……ごめんなさい。少し、ひとりになりたくて」


 セラスティアは伏し目がちに呟くように答えた。なにせ屋敷の主に合わせる顔がない。

 セラスティアのその言葉をどう受け取ったのか、老紳士は心底痛ましげに顔を歪めた。


 「それは……あのような不幸な出来事があったばかりでは、皇女殿下のご心痛いかばかりかとお察し申し上げます」

 「………えぇ……」

 「私はミストリアス侯爵家に代々仕え、執事の職を賜っております、ジルベルト・バートリーと申します。どうぞ、何なりとお申し付けくださいませ」

 「……セラスティアよ。よろしくね、ジルベルト……」


 セラスティアは鷹揚に頷いて見せたが、どこか話が食い違っている気がする。もしかすると、先程の一件は誰にも伝えられていないのかも知れない。


 「ジルベルト。その……宰相閣下はどちらへ?」

 「旦那様は先程お出掛けになられました。政務がお忙しく、しばらく屋敷へは戻られぬそうでございます。皇女殿下におかれましては、当家へお輿入れくださりまことに光栄の極みにて、心おきなくこの屋敷にてお寛ぎください、とのことでございます」

 「そう……」


 セラスティアは拍子抜けした。もう、あの男は出て行ってしまったらしい。しかもしばらく帰ってこないなんて。


 「宮廷からは、皇女殿下のお荷物は後ほど当家に届けられると聞き及んでおります。それから、先程宮廷よりご使者殿がご到着なさいました。お会いになられますか……?」


 セラスティアは勿論頷いた。





 老執事に案内された部屋で待っていたのは側仕えの侍女のパティだった。翠の瞳は泣き腫らしたように赤い。


 「セーラさまぁぁぁ!!!」


 パティはセラスティアの顔を見るなり、立場も儀礼も忘れて腕の中に飛び込んでくる。


 「こんな時にっ!わたくしを置いて行ってしまわれるだなんてあんまりですわぁぁっ!」

 「ごめんなさい、パティ……」

 「ご結婚なさるだなんて!しかもあの悪魔のように恐ろしい宰相閣下と!わたくしが目を離した隙に、殿下が冷酷な宰相閣下にどのような酷い目に合わされていることやらと気が気じゃございませんでしたのよ!」

 「な、何もされてないわ。流石に言い過ぎよ……」


 いや、寧ろセラスティアの方が酷い目に合わせたと言って良い。時々自分への愛情が空回りして暴走しがちな乳母子をたしなめる。


 パティと軽く抱擁を交わしてなだめつつ、当主を一方的に貶されては気分が悪いのでは、と背後にじっと控えるジルベルトの顔色を伺った。だが、老執事は感情を隠すことに長けているのかそれとも慣れているのか、その表情からは何の感情も読み取れなかった。


 落ち着いた態度もそつのない身ごなしも、そして気遣いも。見るからに優秀そうな老執事は「皇女殿下のお部屋を手配して参りますので、ごゆっくり」、と告げて退出してしまった。


 代わりに部屋に運び込まれたのは、いかにも高級そうな白磁の茶器と色とりどりのお茶菓子だった。


 「……まぁ!」


 それも、甘いもの好きのパティが思わず感激して声を上げるほど沢山の。


 お茶の支度を整えたメイドが退席すると、向き合ってソファに腰掛けたパティは早速可愛らしい桃色の砂糖菓子がこんもり盛られたガラスの器に手を伸ばす。


 「まぁまぁ!これって、最近聖都で流行りのドラジェではございません?素敵!そちらのクッキーもとっても美味しそう!さぁ、さ、殿下もおひとつお召し上がりくださいませ」

 「パティったら、さっきまであんなにこき下ろしていたくせに……」

 「だって、宰相閣下の料理人には何の罪もございませんもの!」


 さっきまで目を潤ませていたのに、もう平気そうにお菓子を齧っている。図太い。けれどセラスティアはパティのその大らかさに何度も助けられた。


 セラスティアがラスティカへ嫁ぐことが決まった時も。ラスティカへ行けば、もう二度と故国に戻ることは出来ないかもしれない、だから故国に残ってもよい、とセラスティアは言った。けれど彼女は「どこへでもお供しますわ!」と二つ返事で付いてきてくれた。


 ラスティカが戦火に見舞われた時も。「いざという時はわたくしが皇女殿下の身代わりになります」と、涙目で言った彼女は最後までセラスティアと共にいてくれた。


 「それにしても、聖王猊下は何を考えていらっしゃるのかしら……まさか、セーラ様が悪名高き宰相閣下に嫁ぐことになるとは思いもしませんでしたわ」

 「悪名高き、って、陰で死神とか葬儀屋とか言われていること?」


 異名だけは幾らでも耳にした。けれど宮廷人の噂話に疎いセラスティアの耳には噂の詳細までは聞こえてこない。

 パティはしまった、という顔をした。


 「ぁ、いえっ、セーラ様のお耳に入れるようなお話では……」

 「教えて頂戴、パティ。あの方は……仮にもわたくしの夫となるひとよ」


 セラスティアは、思い出していた。

 愛と幸せに満ちた肖像画の間にいない、あの男の陰鬱な顔を。


「……わたくしはもう、無知な子羊ではない。知りたいの……」

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