宰相ザカリアス
バシッと乾いた音が響き、しん、とした沈黙がそのあとを満たす。
――いま、俺はぶっ叩かれたのか? まさか。扇で?
ザカリアスは、皇女の行動の予想外に過ぎるその仕打ちに、一拍ほど理解が遅れた。
漆黒の瞳が点になるような、そんな衝撃だった。痛みではない。皇女の嫋やかな手と、鉄扇でもない扇だ。ただ、心情の方での衝撃が大きい。
状況を飲み込むまでのその一拍の遅れのうちに、皇女セラスティアはさっと身を翻しドレスのスカートを捌いて驚くほどの素早さで部屋から出て行った。
ジン、と頬に微かに残る痛み。
ザカリアスはそれに指を触れてみて。
思わず、口端が釣り上がる。眉根は寄る。皮肉と自嘲の顔で笑った。
女に頬を張られるのは、残念ながら初めてのことではない。しかし皇女。これはなかなか貴重な経験ではあるかもしれなかった。
「ナイフだったら死んでたな……案外、凄腕の暗殺者の素質があるのか? あの殿下は」
などと冗談めかして零してはみるも。
その言葉を聞くより先に、皇女殿下はさっさと走り去ってしまった。
――まぁ、聞いてたらもう一発喰らうかもしれないな。
またしても自嘲じみた笑み。胸中を表すかのような苦い味のする口内。微かに切ったか。
は、とザカリアスは息を吐く。
扇で叩くなど、よほど嫌われたものだとしみじみ理解できる。言葉などよりずっと雄弁で明確なことだ。
もとより、好かれる理由もあろうはずもなかったが。
――死に損ない、か。
ラスティカの王と民と共に滅びたかった、そうあるべきだった。と、セラスティアは心から思っているように見えた。
ザカリアスは、その眉間に皺が刻まれるのを、不機嫌な嘆息と共に指で揉み解した。
***
ザカリアスは自室に戻り、暑苦しい宮廷服を脱ぎ捨てていく。
扉がノックされ、外から執事の声がした。
「旦那様……! どうかいい加減に従者をお使いください! ミストリアス侯爵家の当主が自らお着替えなど……」
締め出した従者が、執事に泣き付いたらしい。
ザカリアスはそれをいつものことと聞き流し、気軽な服に着替えて部屋を出た。
「旦那様……!」
「そんなに仕事をしたいなら、片付けは任せよう。……それより皇女殿下のことだが」
脱ぎ捨てた宮廷服を従者に任せ、ザカリアスは廊下を行く。
執事がその後を付き従う。
「皇女殿下のこと、でございますか……この度は旦那様と殿下のご成婚まことにおめでたく……しかしあまりにも急なことで。もう少し早くお知らせ頂いておれば盛大な祝賀の宴を開けましたのに。それに大奥様も……」
執事のくどくど続く話に、ザカリアスは眉をひそめた。
この執事はいつもこうだ。何かと愚痴っぽく非難がましい。二言目には侯爵家の権威だのを説く。
「義母上は今しばらくすて……あぁ……いまご旅行中だったろう。お帰りになられてからでいいさ。……それより」
捨ておけ、と言いかけて言葉を取り繕いながら、玄関ホールまで来たところで一度足を止めた。
老年の背の低い執事は、ザカリアスの足の速さについてくるのが難しい。
いつもならばそのまま振り切って行ってしまうところだったが、今日はザカリアスの方に執事に伝えるべき用件があった。
はぁふぅと息を整えつつ追い付いてきた執事に。
「殿下は、先のラスティカとの戦いのことで甚くお心を痛めておられる。共に殉じるべきだった、とまで……」
「な、なんと……!」
執事は目を丸くした。それからいかにも同情的な顔をし、ザカリアスに頷いてみせる。
「委細承知いたしました。旦那様。殿下のお心をお慰めできるようなものを手配いたしましょう」
「……あぁ、頼む」
長年の執事業のためか、彼個人の資質か、この老執事は一を聞いて十を理解する。それだけはザカリアスにもありがたいところであった。
玄関扉に手を掛けたところを、執事が慌てて尋ねた。
「どちらへ……!?」
「殿下は……先のラスティカの戦に関わりのある者の顔は見たくないだろう。俺はラスティカ侵攻の手配を整えた宰相だぞ。いわば仇だ。殿下の御心の安寧の為、しばらく別邸に居る」
執事の顔が歪んだ。どういう感情の表れなのかザカリアスにはわからないが、特に興味もなかった。
しばし言葉を失ったかのように見える執事をその場に残して、ザカリアスは言った通りに自身の屋敷を出て行った。
***
夕暮れ迫る聖都の街並みは、立ち並ぶ白亜の壁が燃えるような橙に染められ、まるで大火に見舞われているようだ。とザカリアスは思う。
綺麗に整えられた石畳の道も、気取ったように着飾って道行く人々も、聖王国の威光を体現している。
白い石畳の大通りをまっすぐに行けば、小高い丘の頂に燦然と威容を晒す宮殿がある。
太陽はその宮殿の向こうに沈む。
聖王国は太陽の神子が築きし聖なる国。
太陽は聖王国から生まれ、聖王国に沈む。と言われている。
ザカリアスは、大通りから外れ、小路へと入って行く。
大通りを行くのは、宮廷人や貴族や金持ちが大半で、ごく普通の庶民はだいたい小路を通るのが常だった。
法の決まり事ではない。
いつからかは知らないが、聖都に暮らす者たちの暗黙の了解となっている。
「あら、こんな所を侯爵様が」
「……よせよ」
ザカリアスは低い声で短く返した。彫り深く影の濃い目元の、険のある鋭い眼差し。声音と相俟って凶相ですらある。
「相変わらずいやぁな顔して。今日はなぁに、お酒飲んでく?」
しかし、胸元の大きく開いたドレスを着た女は、ザカリアスのそうした声にも表情にもまるで気にした風もなく、なおも気安げに明るい声をかける。
わかりやすくしなを作り、口元にほくろの化粧を施したいでたちは、そこらの男ならばすぐに虜にできるだろう美貌を備えていた。
そんな女に声を掛けられて、しかし、ザカリアスの細い眉は相変わらず寄ったまま。眉間には皺が幾重にも刻まれる。口端までもが下がる始末だ。
「あぁ、飲みたい気分だ。が……それより部屋を用意してくれ。しばらく世話になる」
今度は女の顔が、やや険しいものになった。
「本気で言ってる? 屋敷に帰りたくないならいつもの別宅とやらに行けばいいじゃない」
「……いやだ。そっちは仕事用だ。公私はきっちり分けたいものでね」
あまりにも勝手な言い分に、女はますます顔をしかめた。
ザカリアスは、軽く口角を吊り上げて笑う。
「代価は弾む。頼むよ」
「いいけど……安眠はできないわよ、最近小さいのが増えたから」
夜泣きがうるさいのよ、と付け加えて、女はくるりと踵を返す。
構わない、とザカリアスは頷き、女の後を付いて行きながら。
――そうだよ。皇女殿下がいる屋敷は、いくらなんでも仕事に寄りすぎている。
と、暗澹とした心地で深く息を吐いた。