花咲く丘で
薄紅色の花が一面に咲き誇るその丘は、まるで夢の中のようだった。
なだらかな曲線を描く丘陵地帯を、満開のアーモンドの花が埋め尽くしている。
春の訪れを告げる、小さな薄紅色の花。柔らかな花は薄雲のように丘を下り、やがてその向こうには古めかしい王宮が見えてくる。
ここにはかつて、『ラスティカ王国』という小さな国があった。
それはずっと昔のことのようでもあり、つい昨日のことのようでもある。郷愁にも似た不思議な切なさに、セラスティアは珊瑚色の瞳を細めた。
ふと、小高い丘の上に立つセラスティアを呼ぶ声がする。
「お母さま!」
振り返れば、風に飛ばされそうな帽子を片手で押さえながら娘が一人やって来る。絹糸のような長い黒髪が、薄紅の花弁混じりの風に揺れている。
娘はセラスティアの姿を見つけると呆れ返ったように顔を顰めた。
「もう! こんなところにおひとりで!」
「ごめんなさい。探させてしまったかしら?」
「だってお父さまったら、お母さまがいないと『殿下は何処だ、何をしている』ってすぐにご心配なさるんですもの! だったらご自分で探しに行けば良いのに」
セラスティアは思わず苦笑する。
年頃の娘らしい憎まれ口を叩く表情にも、そしてその心配の矛先は娘が思うのとは若干のずれがあるということにも。
この年になってもまだ昔みたいに、目を離すと無茶無謀をやらかすと思われているらしい。
アーモンドの花を見に行くと、ザカリアスには勿論告げてきた。
けれど彼本人がここに来なかったのは、おそらく何か名状しがたい複雑な心情のせいだろうということは、セラスティアには分かっていた。
ラスティカ王国が故国に攻め滅ぼされた戦の最中。
戦火が迫るラスティカの王宮からセラスティアを助け出す手引きをしたのがザカリアスだったと知ったのは、随分後になってからだった。
その思惑通りに、セラスティアは生き残った。そうして、ザカリアスの妻になった。
「随分と回りくどい花盗人ね?」と笑うセラスティアに、ザカリアスは苦々しげに口元を歪めたものだ。
「ねぇ、お母さま。何をなさっていたの? もしかして、また何か新しい思い付き?」
「ふふ、そうよ。園遊会でお披露目する新作のね。アーモンドの花弁が入った、甘いお茶はどうかしら?ミルクを注ぐとカップの中で薄紅色の花が咲くの」
「ふーん……そうね、どうかしら。乙女趣味全開で、パティが喜びそう」
娘は然程お気に召さなかったらしい。セラスティアと同じ珊瑚色の瞳を軽く瞬くと、肩を竦めた。
かつて、『ラスティカ王国』と呼ばれたこの場所は、今では聖王国領一の高級茶葉の産地である。
ここで採れた茶葉は聖都へ運ばれ、女たちの手によって丹念に選別される。そして、離宮の庭園で育てたマリーゴールドやバラや、四季折々の花と共に調合され高級茶葉として市場に並ぶのだ。
セラスティア皇女御用達のその茶葉は『ラスティカの華』と名付けられた。
花の香りの優雅で美しいお茶は、聖王国の貴族たちは勿論、異国の貴族たちの間でも愛されている。
セラスティアとザカリアスが手がけた事業は、雇用を生み出し、教育の機会を与え、下町の女達の生活を支えた。
そしてこの春。
海を越えて、セラスティアの見たこともない遠い東の果ての国へも輸出されるという。
ラスティカの名は、茶葉の名前として歴史に残るだろう。
いつだったか、ザカリアスの言った通りに。
セラスティアは感慨深く、吐息を零す。
「ねぇ、もう良いでしょう? 戻りましょう、お母さま」
思い出にふけるセラスティアの腕をとり、娘はさっさと歩き出した。
歩きながらも、娘は小鳥の囀りのように絶え間なく喋り続ける。若い娘らしいとりとめもない世間話に、時折難しい政治の話題が混じる。
「お父さまったら、テウローアとの自由貿易交渉なんて一体誰が言い出したんだって、またぼやいていたわ。老いぼれを心労で殺す気か、って。この交渉がひと段落したら、お暇を頂戴してお母さまと海辺の別荘でのんびり暮らすって息まいてらしたけれど……あの調子では暫く無理そうね」
「そう思うならあなたが少しは手伝ってあげれば良いのに……」
「私は視察に立ち寄っただけよ。交渉はお父さまのお仕事ですもの」
彼女は今や、官吏として宮廷に職を得ている。
そしておそらく数年のうちに、ミストリアス侯爵家の爵位と資産を相続する。聖王国史上初めての女侯爵となるだろう。
最早、時代は変わりつつある。
新しい御代となったのだ。
聖王国に新王が即位してこの春で一年。
新王はまだ若く、だがそれだけに進歩的で開明的な思想の持ち主であった。
長い冬を耐え抜いた草木が、春の日差しを受けて一斉に芽吹きだすように。
セラスティアとザカリアスが手を取り合い駆け抜けた、厳しい冬のような時代は終わろうとしていた。
※※※
アーモンドの花咲く丘の下で、その人は待ち構えていた。
淡い薄紅色の花のただ中に、墨を垂らしたような黒々とした存在感。
うららかな春の日に似合わぬ、気の滅入りそうな陰鬱な表情。
けれど、もう。
何を考えているのか、セラスティアにはすぐに分かる。
「…………殿下」
低く物憂げなその声さえ、耳に心地よい。
嗚呼。
あなたと二人なら、何処へでも行ける。
何を為すにしても、共に歩いて行きたいと願ったのは、生涯ただひとり。
「貴女様がなかなかお戻りにならぬから……お迎えに参りましたよ。セラスティア様」
その想いは間違いでなかったと、胸を張って言える。
セラスティアは夢見るように微笑むと、恭しく差し出された手を取った。
<終>




