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幸福にする権利

 


 ――あの子が不憫だ。

 ――せめて良い縁組を……


 いまわのきわの老王の最期の言葉が脳裏をよぎる。

 遺言と呼ぶにも粗末な、死に瀕した老人のただの感傷に過ぎなかったろうその言葉が。声が。いつまでもやけにザカリアスの耳に残ってしかたがなかった。


 老王亡き後、ザカリアスは片付けねばならないありとあらゆる政務や雑務の合間に、末姫の嫁ぎ先に相応しい所をいくつも選定し吟味した。


 老王の最初の喪が明け、新王の即位式も滞りなく終わったところで、候補を携えて進言しに行ったザカリアスはしかし。


「セラスティアをラスティカにやる。準備は任せる」


 そう宣告され、一瞬目の前が暗くなったような思いがした。

 新王は独断的だった。

 政略の絡む皇女の重要な婚姻先は、老王の願いもザカリアスの入念な選定も飛び越えて決められてしまった。


 そのことが、ずっと、ザカリアスの心に微かな引っ掻き傷のように残っていた。

 ラスティカを滅ぼすための進言は、果たして、なんの心境のゆえだったか。


 いまとなってはもう、判然としない。


***


「ザカリアス……?」


 どうかしら、とセラスティアが言ったあと。

 ザカリアスはなにも答えぬ沈黙と共に、眉を寄せ沈鬱にも不快にも見える穏やかならざる表情をしていた。


 そのことにセラスティアも幾ばくかの不安を覚えたのか。

 名を呼ぶ声は、ザカリアスが聞いたこともないほどに儚げで弱々しかった。


 後悔にも似た念に打ち沈んでいたザカリアスは、その声にハッとして身を起こす。


 痛む脇腹に思わず呻いた。


「ザカリアス……まだ起きてはだめよ。傷がひらきます」

「……殿下」


 心配を紡ぐセラスティアの声を聞かぬふりで、ザカリアスは口を開いた。まだ声は掠れている。


 セラスティアは、どことなく緊張したように身をこわばらせ姿勢を正した。

 挑みかかるような、なにを言われても簡単には引かぬという気配がひしひしと漂う。


 あまりにも強くまっすぐなその眼差しに、射抜かれるような思いがして、不思議なことにザカリアスの口元が思わず緩む。


「先王は、いまわのきわに貴女様のことを特に心配され……私は臣下として、大恩ある猊下の為、貴女様には……」


 必ずや幸福な婚姻を、と言おうとして言葉が詰まった。

 セラスティアが小首を傾げている。


「殿下……セラスティア様……。世迷言です、状況が状況ゆえに混乱しているのです」

「ザカリアス、それは」


 どういう意味か、とセラスティアから微かな怒気が噴き出る。

 ザカリアスは、セラスティアの手を取り直して溜息を吐いた。


「貴女様の絶対のお味方でありたい……それ以上の願いはあってはならない。私は分を弁え、ただ一臣下として……いずれは貴女様にもっと良き婚姻先をご用意しようと思っておりました……」


 自嘲めいた笑みが、ザカリアスの片頬を引き攣らせる。


「ですが、もう弁えることができません。……貴女様からの手紙ひとつで、私の心は浮かれ……よく知りもしない花を思い……一刻も早く交渉を終え、少しでも早く貴女様のもとに戻りたいと……柄にもなく思ってしまった」


 握るセラスティアの指が、ぴくりと動く。珊瑚色の瞳が、微かに揺れながらザカリアスに向けられる。


「撃たれて死ぬかもしれない瞬間、思ったのです。……貴女様の寝顔はいかなるものか、と」

「……ね、寝顔?」


 なぜそこでそれなのか、とセラスティアは戸惑っているようだった。

 長い睫毛がぱちぱちと瞬きする。

 その顔に、ザカリアスは笑った。


「不敬を、お許しください。セラスティア様」


 その手を引き、身を引き寄せる。

 セラスティアの珊瑚色の瞳が大きく見開かれた。

 ザカリアスの腕の中にセラスティアの細い腰が収まり、薄紅色の柔らかな唇をそのまま塞ぐ。

 長いようで短い、短くも長い時が流れて、ゆっくりと離れる。


「扇で、叩いてくれても構いませんよ。俺に、貴女を幸福にする権利さえ頂けるならば。セラスティア様」


 ***


 口付けのあとすぐに、不敵にも見えた気配はなりを潜め、ザカリアスは呻きながら寝台に沈み込んだ。

 意識を再び手放したその体は燃えるように熱く、汗が滲んでいく。


「ザカリアス……? ザカリアスっ」


 セラスティアが呼びかけても、ザカリアスはしばらく閉じた目蓋を開くことがなかった。

 それから更に二日ほどこんこんと眠り続け、ようやくまた目を覚ました。


「……殿下」


 寝台に突っ伏して眠るセラスティアを見て、ザカリアスは眉をひそめる。

 記憶がやや混濁する。

 なにか、とてつもなくよからぬことをした気がして、じわりと頭痛を覚えた。


 ――夢だった、と思いたい。


 わき腹の辺りはまだヂクヂクと痛む。

 体は熱っぽいままだ。

 しかし意識は明瞭だ。言い逃れも現実逃避も、自分自身の理性が許しはしなかった。


 眠るセラスティアの、白金色の絹糸のような髪をするりと撫でる。

 ザカリアスが目覚めるのを待ち、ずっとここに居たのだろう。服も着替えておらず、顔は白く青褪めてもいた。


「寝顔を見たいってのは……こういうことではないんだが、な」


 ふ、と笑い含みの吐息と共に、掬い取った髪の一房に口付ける。

 もはやなんの言い逃れもできないような、箍の外れた明確な慕情がそこにはあった。


「お慕いしております、セラスティア様」


 囁くように呟いて、今度はザカリアスがセラスティアの目覚めをじっと待つ番だった。

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