本当の夫婦
『ミストリアス侯爵が凶弾に倒れた』
その知らせが屋敷に届いた時のことを、セラスティアはよく覚えていない。
ただ、頭の中が真っ白になった。
手にした白磁の茶器が滑り落ち、床で砕け散る音だけが鮮明に耳に残っている。
気が付けばセラスティアは宮廷へ馬車を走らせていた。
「お兄様!」
居並ぶ取次の官吏や事務官たちを押し退け、部屋の中に飛び込んだ。兄である聖王レインノール三世の執務室である。
「……セラスティア。まだ執務中だぞ。先触れもなしに突然やって来るとは、一体何の真似だ?」
咎める声は相変わらず冷え切っている。薄ら寒い冬の日を思わせる空色の瞳がセラスティアを睨め付けたのはほんの一瞬。すぐにその視線は机上の書類へと戻される。
なりふり構わず駆けてきたセラスティアは、荒い呼吸を整えながら詰め寄った。
「わたくしに、ラスティカへ行く許可をくださいませ」
「………何故だ?」
「お兄様も既にお聞き及びでしょう! ザカリアス殿が……ミストリアス侯爵閣下が暴漢に襲われた、と」
「聞いている。犯人はラスティカ内の反聖王国派の残党で、既に捕まったそうではないか。どうせ撃たれるならテウローアの手の者であれば、良い口実になったものを……だが、それがどうしたというのだ?」
とんだ撃たれ損だ、と揶揄するような口調に、カッと頭に血が上るのが分かった。思わず握りしめた両の手の平に、痛いほどに爪先が食い込む。
(お兄様は……そうやって嗤いながら、わたくしから二度までも夫を奪うおつもりなの?)
燃え盛るような激情を必死で堪えたまま、セラスティアは平静を装って微笑んだ。
「それがどうした、とは随分素っ気ないお言葉ですね。お兄様はすっかりお忘れのようですが、ザカリアス殿はわたくしの大事な夫です」
照れや戸惑いなど微塵もなく、その言葉は自然と口をついて出た。
「慈悲深い聖王猊下ともあろう御方が……異国の地で傷付き生死の境を彷徨う夫をその妻が見舞うのに、まさか反対したりなさいませんでしょう?ましてや、これは聖王猊下御自らが王命によって成立させた婚姻です」
暗に、血も涙もない冷血漢だと責め立てるような口振りを、レインノールは鼻で笑った。聖王国内向けの慈悲深い名君アピールなど、歯牙にもかけぬ。兄はそういう男だ。
「さて、な。例え許可したとして、一体何の得になるというのだ?」
「……わたくしの存在は、テウローアへの牽制になります」
どこか面白がるような、セラスティアを試すような問いかけ。
セラスティアの答えに、聖王はようやく顔を上げた。
テウローアとの交渉にザカリアスを向かわせたレインノールの魂胆は分かっている。こちらの条件を飲まぬなら戦も辞さぬ、と強引に脅しをかけ、交渉を有利に進める為だ。
何も知らない無垢な子羊のようにラスティカに送られてから、ほんの半年余り。けれどそれが分かる程度には、セラスティアは知識と知恵を蓄えていた。
「わたくしはミストリアス侯爵の妻であり、前ラスティカ国王妃。そして、それ以前に……聖王レインノール三世の妹、第四皇女セラスティアです」
堂々と、セラスティアは胸を張った。
「ラスティカを狙うテウローアにとっても、宰相閣下が反乱分子に襲われ浮き足立つ今は付け入る好機。けれど、滅びゆく国からわざわざ救い出した可愛い妹を見舞いに寄越すのです。聖王猊下は本気でラスティカを手放すつもりはない、と……テウローアの者たちに、ひいてはラスティカの民たちにも、大々的に見せつけることが出来るでしょう」
その言葉に、レインノールは皮肉げに口の端を持ち上げた。世間知らずの小娘が賢しらに語るものよ、と嘲笑うかのようだった。
それでも。
はったりでも何でも構わない。
ただ、ラスティカへ。ザカリアスの元へ行けさえすれば。
「わざわざ救い出した可愛い妹、か…………ふん、面白い。ならば行くが良い」
「ありがとうございます、お兄様!」
殊更恭しく、完璧な貴婦人の礼で聖王にこうべを垂れ、踵を返す。
「……セラスティア。勝手は許さんぞ」
部屋を後にするセラスティアに投げかけられたのは、凍えるような声だった。だが、セラスティアは煌めく光を湛えた珊瑚色の瞳を細め、にこりと微笑んだ。
「わたくしは、神の御心に従いますわ」
※※※
セラスティアを乗せた馬車は、昼夜を問わず駆け続けた。
途中の街道で馬を変え馬車を変え、ラスティカに辿り着いたのは急報を受けた数日後のこと。すぐに聖王国の交渉団が接収し使用しているラスティカの元王宮へと向かった。
襲われたその日。
ラスティカの街を一人で視察していたザカリアスは、居合わせた市民の通報で発見された。銃弾は脇腹を貫通したが出血が多く、一時は命も危うい状態であったという。
幸いにも峠は越えた、と医者は言った。けれど一度目を覚まして以降、何度か朧げに反応はするものの、まだ意識は戻らぬままだった。
セラスティアには、ただそばで手を握っていることしか出来なかった。
以前ザカリアスが過労と心労で倒れた時。あの時もセラスティアは一人、暮れ行く薄闇の中で横たわる青白くやつれた寝顔を眺めていた。
けれど今は、あの時よりもずっと強く、祈るような気持ちでザカリアスの手を握っていた。握った手は冷たくて、己の熱を分け与えるように何度も指先を擦り合わせた。
もう二度と、この手を離してはいけない、と。そんな気がしていた。
(……ザカリアス。起きて。目を開けて。わたくしを、ひとりにしないで……)
その願いが通じたのかどうか。不意に、握る指先に力が籠る。
目蓋が震える。
ゆっくりと、黒い瞳が開かれる。
「ザカリアス……!」
「…………殿下……なぜ、ここに……」
長く言葉を紡ぐことを忘れていたザカリアスの声は、カサカサと枯れ果てていた。
それでも何とか言葉を紡ぎ出すと同時、訝しげに眉間に皴が刻まれる。
まるで、手を取り覗き込むセラスティアをまだ幻か何かと疑っているみたいに。
「……あなたが……っ……あなたが、なかなか帰らないから……」
鮮やかな夕景のような薄紅色の瞳から、空知らぬ雨の雫が滴る。ぽたり、とザカリアスの手の甲を濡らす。
一度堰を切った雨はそのまま大粒の涙となってあふれ出した。けれどそれを拭いも押さえもせず、セラスティアは告げた。
「わたくしが……あなたを迎えに来て差し上げたのです!」
その言葉に、ザカリアスは瞬いた。どんな感慨が込められたものか、深い深い溜息を零した。
そして眉間の皴を一層濃くして、セラスティアに手を伸ばす。本意ではないと言わんばかりの苦々しげな表情のまま、頬を伝う涙を指の腹で拭った。
そのまま暫く黙り込んだ後、ザカリアスは重い口を開いた。
「手紙を……返事を、書こうと思っていたのです。離宮のマリーゴールドは、まだ咲いているでしょうか、と」
その言葉に、セラスティアは潤んだ瞳を丸くする。
確かに手紙にそう書いた。手紙は届いていたのだ。けれど返事はなかった。忘れられたものだと思っていた。
「マリーゴールドは、もうすっかり枯れてしまったわ!」
いつの間にか、季節は冬になっていた。
「でも、だから。持ってきたの。あなたに一番に見てもらいたくて」
枕元においてあった小箱を引き寄せる。
中に詰められていたのは、太陽のような鮮やかなオレンジ色の花弁が混ざった茶葉であった。
「これは……」
「……ザカリアス。わたくしの話を聞いてくださる、と言ったわね」
戸惑うザカリアスの声を遮り、セラスティアは続けた。
もう、少しも待つつもりはなかった。
「あなたがいない間も、ずっと考えていたのです。わたくしには何が出来るのか。でも、わたくしが何を為すとしても、わたくしの未来で、わたくしの隣に居て欲しいのは……あなただわ。ザカリアス」
『私の願いは、貴女様の絶対のお味方であること』
ザカリアスは手紙にそう書き綴った。
その言葉が、何よりも嬉しかった。
これまでも、皇女だからとへつらわず女だからと侮らず、セラスティア自身の言葉に耳を傾けきちんと向き合ってくれたのは彼だけだった。
いつも、何を考えているのか分からない陰鬱な顔が、見たこともないような表情をしていた。相変わらずセラスティアには、何を考えているのかよく分からない。
けれど。
何度机に向かっても手紙に綴り切れなかった想いは、一度口に出せばもう止められなかった。
「いつだったか、あなたは言ったわね。一年耐え忍べば、今度こそ幸福にして差し上げよう、と。けれど、わたくしは一年も待てません」
戸惑いを通り越して呆気にとられたようなザカリアスの様子に、セラスティアの胸は苦しいくらいに張り詰めた。
「わたくしがここへ来たのは、わたくしの幸福のためです。わたくしは、あなたのそばで勝手に幸せになります。でも、あなたが、わたくしと本当の夫婦になってくださるなら………多分、もっと。幸せになれるわ」
一息で全部言ってしまってから、セラスティアは横たわるザカリアスを覗き込んだ。
「……どうかしら?」




