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宰相とマチルダ

 


 ザカリアス、と己の名を呼んだ女の声。


 振り返るとそこに、いつもの如くあだっぽい化粧を施した女――マチルダ――が立っていた。


 腕に抱かれた赤子は、これから花売りの少女らに預けるつもりで居たのかもしれない。

 そのマチルダの形の良い眉は顰められている。


「ごめん、お取り込み中だったのね」


 さっと視線が逸らされる。

 彼女のその態度に、ザカリアスはガツンと後頭部でも打たれたような鋭い衝撃を覚えた。

 とんでもない誤解をされたことを悟ったのだ。


「待て、誤解してる。この花は、彼女が自分で買ったものだ」

「別にいいわよなんだって。たまには下々の味を思い出したくなることもあるでしょうよ。あんただって男だもの、不用意に声かけてごめ……」


 ザカリアスのやや狼狽えたような抗弁にもマチルダは首を振り、そそくさとその場を離れて行こうとする。その途中でふいに、ますます顔がしかめられた。


「見ない顔ね……」


 マチルダの濃い緑の瞳が、ザカリアスを越えてセラスティアに注がれた。


「どういうことザカリアス。なんなのその子は」


 マチルダの声音は鋭く、剣呑な響きを孕んだ。この辺りで商売をする女たちは、みな顔見知りの共同体のようなものだ。そこに見知らぬ女が居たとあっては気も立つ。それはザカリアスにも理解できる心情だった。


 更に何かを言おうと口を開きかけたザカリアスは、しかし。


「……なんです、さっきから黙っていれば好き勝手におふたりで言い合って。わたくしがなんだというの」


 先に、まるでしびれを切らしたようにセラスティアが口を開いたことで遅れをとった。セラスティアは、マチルダの不躾とも言える視線にムッとしたように見えた。

 マチルダの眉がきりりと歪んだ。


「なんの真似よ……」


 マチルダの声は低く、冷たい。不信をあらわに、視線はザカリアスに再び向いていた。

 ザカリアスは、酷い頭痛でも堪えるようにこめかみを抑えている。


「ザカリアス殿……そちらのレディはどなた。わたくしにも紹介してくださいますか?」


 セラスティアの態度は、堂々として、その声音はどことなく憤然としてもいた。 

 

***


 高かった日も傾き出し、晩秋の日は井戸の釣瓶よりも早く落ちる。


 マチルダの暮らす集合住宅の一室で、三人は顔を突き合わせていた。

 ここではなんだから、とふたりを宥めすかしてザカリアスはなんとかこの部屋にやって来たのだった。


 マチルダは赤子をベッドに降ろし、(かめ)に汲んでおいてある水をそれぞれの前に置いた。


「身を持ち崩したどこかのご令嬢……? そんなのこんなとこにやらなくても、あんたがいくらでも支援できるじゃない」


 マチルダは、ずっと彼女なりに考えていたのだろう予想をそのまま口にした。

 セラスティアがどれほどこの界隈の身分の女と同じ衣服に身を包んでも、その肌艶や指先から、目敏い女たちは高貴な身分であるとすぐにも看破する。

 ザカリアスは、その点についていささか誤算があったのを今更に知った。


「……マチルダ、この……方、は」


 ザカリアスはそこで口籠った。この方は、なんと言って紹介すべきか一瞬の戸惑い。


 形式的にも認知的にもセラスティアはザカリアスの妻である。現ミストリアス侯爵夫人だ。しかしそれをそのまま、自らの口で確定して語るのは、不思議と憚られた。


 不敬だ、とすら思う。

 その自分の感情にもまたザカリアスは戸惑った。


「なんなのよさっきからまごまごして。らしくないわね! あたしはマチルダよ、お嬢様。あんたはどこのどちらさま?」


 マチルダはもう待てないとばかりに、向かいの席に座ったセラスティアに直接誰何した。


「名乗らせてくださるのならよかったこと。わたくしはセラスティア。セラスティア・ザラ・マキア。……ミストリアス?」


 セラスティアは、珊瑚色の瞳をしっかりとマチルダに向けて堂々と言った。しかし最後の方では彼女もまた、戸惑いがちに小首を傾げる。

 マチルダの顔色が変わった。


「は……。……ミストリアスって。なによ、それ」

「わたくしが、なにか……気に障るようなことをしまして?」


 セラスティアはただただ戸惑ったように眉を寄せる。

 マチルダは波打つブルネットの髪をぐしゃりと掻き乱し、ゆっくりと深呼吸した。


「……出てって」


 ようやく絞り出されたかのようなマチルダのその言葉は、短く端的だった。

 声音には、怒りとも失望ともつかない感情の揺れが乗っているようでもある。


「マチルダ……」


 ザカリアスが宥めるつもりか呼びかけた声に、マチルダはきっと顔を上げ睨み付ける。


「ザカリアス、あんた……王族のお姫様を嫁に貰ってわざわざこんなとこでデート? 悪趣味にもほどがあるわ。下々の生活を眺めて憐れみながらディナーでもするわけ? 太っ腹に金を恵んでやって良い気分に浸るの? 冗談じゃないわ」


 マチルダの激昂に、セラスティアは目を瞠った。


「マチルダ……そんなこと、するわけないだろう。俺もだが、セラスティア様もそんな方では……」


 ザカリアスの言葉は、バシャッとかけられた水と共に遮られた。


「わかるもんですか。……あんたがお偉い侯爵様になって、宰相様になっても、結局なんにもならなかった。ここは変わらないわ。あんたはたまに来てあたりのいいこと言うだけ。口先男! もう帰って。二度と来ないで!」


 ポタポタと、水滴が髪の先から滴り落ちる。ザカリアスは、濡れて張り付いた髪を手櫛でかきあげ、片頬を引き攣らせるような笑みを浮かべた。


「少し頭を冷やしてくれ。……セラスティア様。今日のところはもう……帰りましょう」

「でも……」


 セラスティアは、困惑しているようだった。


「失敬」


 ザカリアスはセラスティアのその手を取り、扉に向かう。マチルダは何も言わず見送りもしなかった。ただ、赤子のきゃあきゃあという小さな声が聞こえていた。


***


 帰路の馬車の中は、沈黙に満たされていた。

 街は夕暮れに染まり、坂の上の貴人街にある侯爵邸に近づく頃には薄闇に呑まれつつあった。


「……ザカリアス殿。あの、マチルダという女性は」


 セラスティアは、屋敷に着く寸前、意を決したか溜まりかねたのか、とうとう口を開いた。


「古い馴染みの者です。……今日のことはとんだ失礼を……。どうやら私の読みと詰めが甘かったようです。殿下にはご不快な思いをさせたことと存じます。……しかし、ああした所の者は、男も女もひねたもの。殿下に非はありませんので」


 ガタ、と馬車が止まった。

 ちょうど屋敷に着いたのだ。

 セラスティアがなおも何かを言おうと開いた口は。


「お帰りなさい殿下! ザカリアスはちゃんとエスコートしてくださったかしら?」


 ふたりの帰宅をいまかいまかと待ち構えていたテオドラの出迎えの声に封じられてしまった。ザカリアスがセラスティアに手を差し出し、馬車を降りると。


「次は、もう少し良いところに参りましょう。もしあるのならば」


 ザカリアスはそう言い残し、今日はこれでと早々に部屋に戻っていった。後のことをテオドラに任せてしまうつもりで。

 

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