花を買いに
ラベンダー色に暮れていく薄闇の中、セラスティアはじっと息を殺していた。
寝台に、身動きひとつせず静かに横たわる体。
まるで蝋人形のように生気のない顔を、恐る恐る覗き込む。
セラスティアの部屋の扉を蹴破り血相を変えて飛び込んで来たザカリアスが、急に倒れたのはつい先刻のことだった。
街へ連れて行って欲しいとねだったセラスティアの、その目の前で。
言い募るセラスティアを見下ろして、また余計なことをと言わんばかりの剣呑な表情がわずかに歪んだ。糸が切れたようにぐらり、と体が傾ぐ。
セラスティアが咄嗟に伸ばした手が触れる前に、ザカリアスは何とか倒れまいとテーブルに手をついて支えにした。だが、そのまま蹲り立ち上がれなくなったのだ。
居合わせたテオドラの差配ですぐに執事と侍従が駆けつけ、ザカリアスは自分の部屋へと運び込まれた。
狼狽えるセラスティアに対し、過労と心労が原因ではないか、と執事のジルベルトは淡々と言った。ばつが悪そうに口籠もりながらも、必要以上に騒ぎ立てることもない老執事の様子から、これが初めてではないことが窺えた。
(……まさか、過労と心労でこれまでも何度か倒れているということ?)
冷酷で血も涙も人の心もない、悪魔のような男だと聞いていた。
いつもなら深く眉間に皺を刻み、セラスティアに面倒ばかり引き起こす厄介者か全く理解出来ない異邦人を見るような目を向けてくる。
けれど、こうしてひとり寝台に横たわるその横顔は、受ける印象よりずっと若い。頼りなげな少年のようにさえ見える。
(……あなたは……たったひとりで、何を抱えているの……?)
あのお披露目の茶会の日もそうだった。
今にも倒れそうなくらい青い顔をして、ひとりっきりで立っていた。
セラスティアはふと、恐れに似た焦燥に襲われる。
儚げなランプの灯りに照らされて尚蒼白い肌は、己の預かり知らぬうちに最早冷たくなってしまったのではないか。
言い知れぬ不安に導かれ、そろりと手を伸ばす。
乾いた頬に爪先で触れる。
頬から、輪郭を辿るように額へ。指先を返し、手の甲を添わせて確かめるように撫でていく。
触れた肌は、熱かった。
だが、そのことにセラスティアは奇妙な安堵を覚えた。
きっと熱がある。氷嚢で冷やした方が良いのかも知れない。セラスティアは静かに部屋を後にした。
※※※
数日後。
ザカリアスに連れられて足を踏み入れた場所は、今までセラスティアの知らない世界だった。
馬車の車窓から見る聖都の表通りとは異なる、淀んだ空気。薄暗い路地が幾重にも張り巡らされ、建物と建物の間から見える狭い空には、乱雑に洗濯物が吊られている。
ろくに整備もされておらずところどころ傷んだ石畳の上に、薄汚れた粗末な服を着た人々がたむろしている。
だが、確かにここには人の暮らしが息づいている。
上部だけは美しく着飾りながらも、目に見えぬ悪意に踊らされ人の足を引っ張り陥れることに心血を注ぐ宮廷などよりずっと。
誰も彼も、今を生きている。
道端に視線を向けていたセラスティアは、少女のひとりと目が合った。
車座になって花を選別していた少女たちのうち、最も年嵩のひとり。小さな赤子を大きなショールでくるんで背負った彼女は、くすんだ赤毛にそばかすの浮いた可愛らしい顔が乳母子のパティを思い出させた。
少女が手にしていたのは、太陽のようなオレンジ色の花。マリーゴールドの花束だった。
「その花を……頂けるかしら?」
セラスティアは歩み寄り、何かを考えるより先にそう口にしていた。
黄金色のマリーゴールドは、第四皇女たるセラスティアの紋章花だ。
襞のたっぷりとある貴婦人のスカートのように花弁を連ねたマリーゴールドが、セラスティアの育った離宮の中庭にも沢山咲いていた。幼い頃、秋になるとパティとふたりで両手いっぱいに摘んだものだ。
「ありがとう」
受け取った花束の代わりにセラスティアが差し出した硬貨に、少女は驚いたように目を丸くする。野の花を纏めただけの粗末な花束を買うには、多過ぎる額に戸惑ったのだろう。セラスティアは、どうかそのままで、という意味を込めて首を振った。
少女の背中ですやすや眠っている赤ん坊を一瞥し、セラスティアは巻きスカートの裾を持ち上げ腰を落とした。
ザカリアスがどこからか用意して来たスカートは着古して色褪せていたが、柔らかく肌に馴染んで動き易い。庭を駆けまわって自由に過ごした子どもの頃を思い出させ、セラスティアにはいっそ心地良く感じられた。
「その子は、あなたの弟かしら?……お母さまは?」
問いかけに、少女はこくりと頷いて、少し迷ったように言葉を途切れさせた。それから、「男の人とうちにいる」と蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
先程のザカリアスの言葉が、実感を伴って繋がっていく。
少女の母親は路上で客を引く下層の娼婦なのだろう。母親が客を取る間は、少女は家へは戻れない。そうしていつまでも路上で過ごす彼女たちもまた、大人になれば同じ道を辿るのかもしれない。学もなく手に職があるでもなく、頼れる者もない彼女たちは、そうすることでしか生きてはいけない。
ましてや、病に倒れたら?
『ラスティカの涙』のような薬物に蝕まれたら?
「あんな花など、いっそ全て買い上げてやるのかと思いましたが……」
花束を手に戻るセラスティアに、ザカリアスは何の感情も感じられないいつもの表情で零した。黒い瞳は路上の少女たちに向けられている。
「だが、例えそうしたとしても彼女は家へは帰れない。一時の同情や哀れみで施しをしても、何の解決にもならない。そんなものはただの自己満足です。あんな子ども達はここには幾らでもいるのですから」
「そう、ね……」
そう言ったザカリアスの声音には棘がある。
わざとセラスティアの本音を探り出すような意図を感じる。セラスティアの言葉が何処まで本気だか、疑っているに違いない。
ザカリアスからすれば、政治も世間も知らぬ小娘の思い付きに付き合わされた形である。
庶民の暮らしなど何も知らない箱入り娘の皇女なら、実際に貧民街の様子を見てみれば怖じ気づいて逃げ出すに違いないと踏んでいたのかもしれない。
それでも。
これまでとは違う。
セラスティアに何も知らせず、逃げ出したり隠し立てしたりしようとはしなかった。
ここへ、連れて来てくれた。
セラスティアは本気だった。
本気で、『ラスティカの涙』で被害を受けた人々を救う手だてを考えていた。
潔くラスティカ王国に殉じるべきだったと思う気持ちに嘘はない。だが死に損なったからには、己にはまだ為すべきことがあると信じていた。
『ラスティカの涙』、没収されたベルモント家の資産、茶葉の売買、貧民街で春を売る女たち、花をより分ける少女たち、花咲く離宮……
そして、マリーゴールドの花。
閉じ籠った部屋の中、書物に埋もれて墨色だったひとりきりの計画は、徐々に形を成していく。セラスティアの中で、その足元で。一歩一歩、歩むごとに黄金色に色づいていく。
(……ひとりでは無理でも、一緒なら。出来ることがあるかもしれない)
セラスティアは珊瑚色の瞳で影のように佇む男をじっと見上げた。
「何か……?」
ザカリアスは漆黒の瞳を細め、訝しげに眉をひそめる。
「……わたくしに、考えがあるの。あなたは随分と下町の事情に詳しいのね?ねぇ、……」
セラスティアがその名を唇にのせるよりも、一瞬早く。
「ザカリアス……?」
どこからか、艶めいた声が男の名を紡ぐ。
振り返る二人に、女はしまった、という顔をして口を噤んだ。口元のほくろが印象的な美女は、腕に抱いた赤子をぎゅっと抱きしめた。




