2-3
欺丹が教えてくれた宿屋で一泊した梨飛は、朝になったことにも気付かないほどぐっすりと熟睡していた。
「朝だよ! 起きな!!」
でっぷりと太った女将が、壊れかけた扉をバンッとけ飛ばしながら怒鳴った。が、微動だにしない梨飛をちらっと一瞥すると片眉を跳ね上げ、そのままバタンッと扉を閉めて出ていった。
それから少し経った後、梨飛はやっと夢から覚めた。
「ん……」
部屋には時バトがなく正確な時間はわからなかったが、さほど大きくもない窓から入り込む陽射しの濃さからして、八カルぐらいだろう。
梨飛は、大きく伸びをすると目をこすり、枕元に手を伸ばした。が、次の瞬間、驚いたように目を見開いた。
昨日、確かにここに置いたのに! バッと汚らしい毛布を退けた。
けれど、実際の動作はひどく緩慢なものだった。眠りが足りないのか、はたまた眠り過ぎたせいなのか、体が鉛の重くて動かすのがおっくうだった。
梨飛は、ぼんやりとする思考をなんとか覚醒させようと微かに頭痛のする頭を振った。
しかし、靄がかった脳は、すっきりと目覚めない。
もやもやとしたまま、再度、周辺を調べた。
けれど、やはり短剣は見つからなかった。
寝台の下。
服の中。
狭い部屋をくまなく探したが、美しい石をあしらった短剣の姿は、どこにもなかった。
部屋の隅で呆然とたたずんでいた梨飛は、我に返ると袋を調べた。
昨日の夜、この中にお金と旅券を入れておいたはず、と中に入っている物を順々に取り出した。
最後の一つを出したところで、梨飛の顔から血の気が引いた。
ない。
お金の入っている袋と旅券が。
もう一度布などの間に挟まっていないか丹念に調べるが、結果は同じだった。
まさか泥棒……?
が、次第に眉を寄せ、何かを考えるように虚空を睨みつけた。
だれかが部屋に入ってきたら気配で気付くはずだ。そう騎兜にしつけられたのだから。
と、いうことは、相手は気配を殺していたのだろうか。
その時、扉越しから女将の声が聞こえてきた。自分の名がでたような気がして、扉に耳を押しあてた。
「あの子ならまだ寝てるよ」
薄い扉越しから女将の声が聞こえる。内緒話をするような密やかな声だが、扉から近いところで話しているのか、なんとか聞き取れた。
「そうか、そうか。そりゃよかった。まだあの薬が効いてるんだねぇ」
この声は、欺丹のものだ。女将が話している相手は棋丹だったのか。
なぜここに欺丹がいるのだろうかと、内心首を傾げながら、耳を澄ませた。
「まったく、あんな小さな子にギゼの実はきついんじゃないかい? 死んだらどうしてくれるんだよ」
「使い方を誤ると猛毒だが、少量なら強烈な眠りを誘うだけさ。なあに、体にゃ影響なんて何もないよ。安心しな。もし問題があっても、頭が痛くなるとか、体がだるいって思う程度だろ」
「そうかい? ならいいけど、分け前はちゃんとおくれよ。あんたのために、わざわざ危険をおかしてるんだからさ」
「わかってるよ。あの坊や、小汚い格好の割に、けっこういいところの坊っちゃんらしいからな。たっぷり分けてやるさ」
「ふん、大見え切っといて後で取り消すんじゃないよ。だいたい飛行船の旅券はどうやってわけるのさ? あんな子供だましの短剣なんて、大した値段にもなりゃしないけど、旅券なら高く売れるだろうよ」
「もちろん、後で換金してくるさ。分け前は、五分五分。お前にはいろいろ世話になってるからな。これからも頼むぜ」
二人の会話を静かに聞いていた梨飛は、旅券と短剣という言葉に、ハッとすると、二人がだれのことを話しているのか悟った。
欺丹は、旅券と袋に入っていたお金を見て、自分を金持ちの子供だと勘違いしたのだ。
梨飛は舌打ちした。ど~りで気配に気付かないはずだ。前後不覚に眠り込んでいたら、さすがの梨飛でも気配を察知することはできない。
そういえば、女将さんが眠る前に甘い飲み物を持ってきてくれたな、と思い出す。半ば強引に飲まされたっけ。もしかしたら、あの中に薬が混ぜられていたのかもしれない。
「それで、あの子はどうするのさ。孤児じゃないんだろ?」
「始末するさ」
「民主兵が騒ぐんじゃないのかい? いいとこの子供なら、親が捜索願いでも出すだろうよ」
「お前が口車を合わせてくれりゃ、ばれやしないさ」
「容疑がかかんないよう気をつけておやりよ。ただでさえ、昨日の地震のせいで民主兵どころか、変な連中がウロチョロしてんだからさ。まったく、神使が死んじまったせいで、ろくなことありゃしないよ。いいかい、くれぐれもあたしに迷惑かけるんじゃないよ」
彼女は、欺丹に念を押すと、うちの宿屋が疑われたらどうしてくれるんだい、と愚痴った。
その声音には、梨飛を哀れむ気持ちはこれっぽっちも含まれていなかった。自分が無事であれば、ほかはどうだっていいのだろう。呆れるほど自己中心的な考えであった。
梨飛は、始末する、という不穏な言葉に息を呑むとどうするか首をひねった。
相手は大人二人。
倒せないわけでもない。
けれど、薬の効き目がまだ残っているせいで、体が思うように動かせなかった。だから、彼らに勝てるかどうかわからない。腕力で迫られたら、いくら強いといっても子供である梨飛に勝ち目はないだろう。
扉の向こうでは、梨飛をどうやって殺すか小声で話し合っていた。
三階に、自分以外客がいないのは、こういうためだったのかと梨飛は思い知った。ほかの部屋に人がいたら、とてもじゃないが人を殺すのは無理だろう。一階を酒屋にしたのも、人殺しがばれないようにするためだったのだ。酔った男達のうるさい声は、三階までよく響いた。これでは叫んでも下にいる人たちは気づかないだろう。
梨飛は、覚悟を決めると寝間着を脱いで、普段着に着替えた。悔しそうに唇を噛みながら、外套を羽織り、麻の袋を掴んだ。
そして、梨飛くらいの子供がやっと通れるほどの小さな窓から下を見た。眼下には、豊かに茂る木々があるだけで、人の姿はどこにも見当たらなかった。
ほっと息をつくと、後ろを振り返り、部屋を見渡した。窓は開かないようになっていたから、窓硝子を壊せるものが欲しかった。
が、部屋の中には、寝台と小さな棚があるだけで、椅子は置いてなかった。
梨飛は、自分でも持てそうな棚に目をとめると、思案するように顎に手をあてた。
これで硝子を割れるだろうか。
嫌、無理だ。
持ち上げることはできない。
そこまで考えた梨飛は、ある方法を思い付いた。焦る心を抑えつつ、小さな棚を運ぶ。体力が弱っているせいか、ひどく重かった。まるで鉄製の棚を運んでいるかのようだ。額に汗を浮かべながら、その棚を扉まで持っていき、横倒しにした。こうしておけば、簡単に扉は開かないはずだ。
梨飛は、毛布をビリッと裂きながら、
「盗まれた物は、体力が回復してから取り戻すしかない……」
苦汁を嘗めるように、苦々しく呟いた。
毛布の切れ端を拳に巻きつけると、窓の前に立って、硝子に向かって勢いよく突き出した。
ガシャンッ。
硝子の砕け散る音が室内に響き渡った。
その音が廊下にも漏れたのか、乱暴に扉を叩く音がした。
「くそっ。開かない! あのガキ、扉の前に何か置きやがったな!!」
「冗談じゃないよ! あの子に逃げられたら、役人に捕まっちまうじゃないか!! なんとかおし!」
梨飛は、二人が入ってこれないことに安堵すると、窓枠に残っていた硝子をすべて取り除いた。手に持っていた袋を外に放り、窓枠に足をかけ、身を乗り出した。
「く……」
眼前に見える太い幹に手を伸ばすが、少し届かない。
ドンドンッ。
ガチャガチャッ。
扉を開けようと動かす音が、大きくなった。ちらっとそちらに目をやると、少しずつではあるが、後退している棚が目に飛び込んできた。
捕まって殺されるよりは、一か八かに賭けてみよう。
梨飛は意を決すると跳躍した。
が、運悪く外套の裾が足に絡まり、均衡を崩す。
「うわ……っ」
けれども、持ち前の反射神経のおかげでなんとか立て直すと、片手で枝を掴んで、落下は防いだ。
しかし、ほっとしたのもつかのま。
梨飛の掴んだ細い枝は、梨飛の体重を支えられず、乾いた音を立てて折れた。だるい体を引きずる梨飛に、再び体勢を整える余力は残ってなかった。
細かい硝子が飛び散った地面に激突する――。
思わず梨飛が目をつむった直後、体がふわりと浮いた。
「な……」
いくら待ってもやってこない衝撃を訝しく思って目を開いた梨飛は、我が目を疑った。
地面から目と鼻の先で、落下していた体はぴったりと止まっていたのだ。手を伸ばせば、土に触れそうなほど近かった。
と、次の瞬間、体はゆっくりと反転した。そのまま地面に下ろされる。足が地に着くと、信じられないといったように己の体を見つめた。
その場で、足踏みをしてみる。
けれど、パリン、という硝子の割れる音を聞いて、梨飛は足を止めた。
よく見てみると、鋭い硝子が辺りに散乱していた。
ここに、頭から突っ込んでいたら、硝子が顔や体に刺さって、痛いどころではなかっただろう。三階を見上げ、今更ながらに震えが走るのを感じた。
「急がないと女将たちが来るよ? 君が窓から逃げたの気付いたみたいだから」
立ち尽くしていた梨飛に、二階の部屋の窓から顔を出した少年がそう言った。
どうやら、二階は窓が開くらしい。
「あんたが助けてくれたのか?」
梨飛は、訝しげに尋ねた。
魔術か聖術を使わなければ、落下の速度を止めることはできないはずだ。
だが、あんなに若い少年が、術を使えるのだろうか。年は梨飛とそんなに違わないだろう。
「そうだと言ったら?」
彼はくすっと笑みを漏らすと、二階の窓枠に足をかけ、ふわりと身を投げた。
「危ない……!」
梨飛の悲鳴は、しかし次の瞬間、感嘆としたものに変わった。
少年は、優雅な身のこなしで地面に着地すると、前髪覆われていない方の瞳を柔らかく細めた。
「もしかして、あんた、特殊隊の人?」
そうじゃないと説明がつかない。
「へぇ、特殊隊の存在は知ってるんだ。――じゃあ、何も知らせず送り出したんじゃないんだ」
後半は呟きにも似た小さな声だった。
梨飛は聞き取れなくて、思わず聞き返した。
「何か言った?」
「何も言ってないよ」
少年は、なにやら楽しそうに笑うと、梨飛に向かって手を差し出した。ひょうしに漆黒の髪がさらりと揺れた。
「僕は華泉。よろしく、若き救世主君」