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 2-2

 暁暗(ぎょうあん)

 まだ夜も明けきらない時間。

 なだらかな山岳地帯の頂上に、ぽつんと一軒だけ建っている木造の家から明かりが漏れた。しばらくすると、木戸がゆっくりと開き、中から小さな影と大柄な影が出てきた。


「旅券は持ったな?」

「うん。短剣もお金もばっちりだって」


 月明かりと手に持った燭台の明かりを受けて、小さな影の姿がほんのりと浮かび上がった。はつらつとした無邪気な顔が、少しだけ不安そうに曇っているのは、決して光の加減のせいではないだろう。

 彼は、闇に溶けるような色の外套を身にまとい、大きめの袋を肩から斜めにかけていた。


「気をつけて行ってこい」

「うん。俺が神使様候補なのか、まだ自信ないし、戸惑ってるけど、俺さ、神殿に行くよ。何があっても。俺を……こんな俺をさ、必要としてくれる人が待っているなら。悩んだけど、行くしか道はないし。それに、父さんが昔いたとこ俺も見てみたいし」


 いつもより口調が早いのは、これから一人で旅に出る寂しさと不安と恐怖を打ち消すためだろうか。


「じゃあね、父さん」


 梨飛は精一杯明るい笑みを浮かべると、騎兜に抱きついた。


「ああ。行って来い」


 騎兜は息子の無事を祈りながら抱き締め返した。彼にとって梨飛は、血が繋がってなくても実の息子のような存在であった。

 もう会えないかもしれない。ふとそんな思いが彼の脳裏を横切り、泡のように消えた。

 二度と顔を合わせることができないとわかっていても、騎兜には梨飛を引き留めることはできなかった。


 すべては神のご意志だから。

 神が梨飛を選んでしまったから……。


 騎兜は、そっと胸に手を当てると瞳を閉じた。


「行ってきます!」


 梨飛は騎兜に背を向けて走り出した。

 騎兜は、離れていく温もりの残像を追いかけるように手を伸ばしたが、その行動をいさめるようにもう片方の手で押しとどめた。

 梨飛の小さな体が闇に紛れていく。梨飛は一度も騎兜の方を振り返らなかった。


「どうか梨飛に水神(すいしん)のご加護を……!」


 この国で崇拝している神の内の一人に慈悲を乞うと、地面に両膝をつき、祈りを捧げた。

 そして、懐から一通の手紙を取り出し、しばし口を閉ざしてその高価な紙を見つめていた。朱肉の捺印は封が切られているためまっぷたつだったが、翼にリズの葉が絡まり、中央に獅子の描かれた紋章は、教団のものだった。


「なぜ…、なぜ今になって……梨飛が!」


 ぐしゃりと手の中で手紙を潰した騎兜は、その場から長い間動かなかった。






 三つの月が、明るみ始めた空と共に消えようとした頃になると、さすがに疲れもたまり、梨飛は木の側に腰を下ろして休憩した。長いこと歩いていただけあって、顔には疲労の色が色濃く浮かんでいた。


 袋の中から水筒を取り出すと、口をつけて冷たい水を喉の奥にゆっくりと流し込んだ。

 そして、袋の中からさらに小さな袋を取り出すと、中に手を入れて兎豚(ととん)の干し肉を引っぱり出した。固い干し肉を口の中で何十回も咀嚼すると水と共に嚥下した。それを数回繰り返したあと、袋を肩に掛けて立ち上がった。外套についた土を軽くはたく。


 一人で旅をすることに不安を感じないかといえば嘘になる。それでも梨飛は恐れなかった。月明かりだけが頼りの薄暗い獣道を通っていても、どう猛な獣に出くわすこともなく、旅は順調であった。

 紫がかった濃紺のとばりが、薄くなっていくのを黙って見上げた梨飛は、朝が訪れるのを目と肌で感じていた。


 普通の者なら、朝が来たことを喜ぶかもしれない。常人ならば、夜よりも朝を心待ちにするはずだ。一人旅ならばなおのこと。火も焚かず、明かりも持たずに歩き続けた者ならば、大の大人とて危険な()は去ったと安堵したことだろう。

 けれども梨飛は、闇夜の中を歩き回るのは全然平気であった。


 ──闇がもたらすのは、恐怖ではない。人々が疲れを癒せるように夜は訪れるのだ。だから、この暗闇を怖がってはいけない。


 梨飛は、幼い頃から騎兜(きと)にそう教えられてきた。だからちっとも怖くなかった。


 梨飛はつかの間疲れを癒すと、西に向かって歩き始めた。

 西領(リベル)に着いたのは、二つの太陽が曙色に染まった空から顔を覗かせた頃だった。この時間帯の空の移ろいは早く、黄色がかっていた空が端から色を塗り替えていく。

 昨日とは打って変わって、晴れ晴れとした空が広がっていた。騎兜の話だと、昨日の暗雲は神使が死んだことによって起こった一時的なものだと言っていたが、どうやらその話は本当だったようだ。


 梨飛は、日の出と共に起き出した人たちの間をすり抜けるように歩いていった。

 この分なら、空が漆黒に包まれる前には飛行場に着くだろう。着いたら、まずは飛行場の近くに宿を取って、明日の朝、飛行船に乗る手続きをしよう。騎兜がくれた旅券には、日付が書いてなかったから、いつでも乗れるということだろう。


 頭の中で日程をたてると歩む速度を速めた。

 とたん、ズキンッと足の先に痛みが走った。

 荒れ放題の草が広がる道を歩いてきたせいか、むき出しの指先からは細かいすり傷ができていた。うっすらと血もにじんでいる。歩きやすいという理由で、甲の部分を平たい紐で作った紐靴(トーチェ)を履いてきたのだが、どうやらそれが仇となってしまったようだ。


 取りあえず、血をぬぐい、土などの汚れを取ろうと近くの井戸に立ち寄った。麻布を井戸から汲んだ冷たい水に浸し、絞った。ピリッという痛みをこらえながら、慎重に足をぬぐっていく。

 足を綺麗にしていると、一人の男が近付いて来た。


「よう、坊や。見かけない顔だね。よそから来たのかい?」


 散切り頭の男は、人の良さそうな笑みを浮かべながら、梨飛の背に合わせてしゃがみこんだ。


南領(リナイ)から来たんだ」


 人懐っこい梨飛は、気軽に答える。


「ほぉ、南領から。あそこはずいぶん賑やかだろう」

「まあね。食材場があるし」

「じゃあ、昨日の地震は大変だったんじゃないか? 被害は大層なものだって聞いたが。坊やもそのせいで親御さんと一緒に逃げて来たんじゃないかい?」

「確かに被害は大きかったけど、俺がここに来てる理由は違うよ。飛行船に乗りに来たんだ。それに、親なんか一緒じゃないし。一人で南領まで来たんだ」


 刹那、男の目がキラッと光った。男は、相好を崩し、猫撫で声で梨飛に言った。


「そうかい、そうかい。一人で! おぉ、驚いた。なんて偉いんだろうねぇ」

「そ、そんなことないって」

「いやいや。坊やみたいな小さい子が一人旅なんて、そうそう出来るもんじゃない。まったく、見上げた坊やだ」


 褒めちぎる男に、梨飛ははにかんだ。


「けど、飛行船の受付は十三カルまでだろう。間に合わないんじゃないか?」

「うん。だから、飛行場の近くの宿に一泊しようと思ってるんだ」

「いい考えだけど、坊やみたいな子供に泊まらせてくれる宿屋はあるかねぇ。やっぱり、泊まるとなると色々とかかるから……」


 言いにくそうに言葉尻を濁す男に、梨飛はムッとした。

 梨飛は、懐に忍ばせておいた袋を取り出すと紐を解き、中身を男に向かって見せた。


「お金ならあるよ、ほら」


 袋の中には、大量の紙幣と銀貨、銅貨が入っていた。騎兜が、旅にはお金がかかるだろうと言って持たせてくれたものだ。


 しかし一体、このお金はどこから出てきているのだろう? 旅券代も然りだ。

 カンゼル家は、貧乏ではなかったが、決して裕福でもなかった。鍛冶屋を営む騎兜の収入で細々と暮らしていたのだから。それとも、思いの外、騎兜の収入は高額だったのだろうか。


「ほぉ、こりゃすごい! じゃあ、おじさんがいいことを教えてあげよう。飛行場の近くの宿屋は、どこも満杯だよ」

「えぇ!?」

「なぁに、心配することはない。おじさんが、まだ空いている宿屋を紹介してあげるよ。坊や、名前は?」

「梨飛」

「そうか、梨飛か。いい名前だねぇ。おじさんは棋丹(きたん)っていうんだ。よろしくな」


 そう言って彼は、軽く口の端を持ち上げた。三日月のように細まった瞳が、剣呑な光を宿す。


 けれど宿が見つかって安堵している梨飛は、そのことに気付きもしなかった。



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