2.出立──そして出会い
いつもなら梨飛が騒いで明るい雰囲気に包まれている室内も、今日ばかりは少ししんみりとしていた。
燭台に点された蝋燭の明かりが、柔らかな色を発しながら暗闇に閉ざされた部屋を照らす。地震のせいで泥棒が入って荒らしたかのように雑然としていた室内は、梨飛が片づけたおかげで移動できるほどになっていた。
梨飛は椅子に座りながら、じっと騎兜のことを見つめた。
騎兜は手に荷物を抱えながら、隣の部屋とこの部屋を何度も行き来していた。
そこに座っていろ、と騎兜に言われた梨飛は、父一人に任しているのをもどかしく思いながらも何もせずにいた。
騎兜は、すべてそろえ終わると麻袋の中に旅に必要な物を詰めていった。携帯用の食料、布、服等々。かさばらず、比較的軽い物を、重い順に入れていく。長距離を歩くであろう梨飛のことを考慮して、少ない荷物で旅が出きるよう配慮したのだろう。
そういう細やかな心遣いが、梨飛には嬉しかった。
「これは肌身離さず身につけていろ。何があっても手放すんじゃないぞ」
支度を終えた騎兜は、卓を挟んで梨飛の真向かいに座ると、手に持っていた物を渡した。
「わかってるよ。俺の本当の親が置いていったやつだろ」
嘲るように言うと、梨飛は短剣を受け取った。
「捜したいか?」
「…別に。父さんがいればそれでいい」
少しすねたように答える梨飛に、騎兜は口の端を持ち上げた。
「嘘つき坊主が。知ってるぞ、お前がなぜ金を稼いでいるか。──大陸全土を捜し回るには、金がかかるからな」
瞬間、梨飛の顔に朱が走った。
「! 俺を捨てた親なんか捜すわけないだろ!」
思わず声を荒げた梨飛は、あっと顔をしかめた。
「くくっ。俺は誰かなんか言ってないぞ」
おかしげに笑う騎兜。
────やられた。
まんまと騎兜にはめられ、むっとした梨飛だったが、心の底から楽しそうに笑う騎兜に気づくと自分も笑っていた。
梨飛の胸の内に安堵が広がっていく。
ここ最近、騎兜はずっと沈んだ顔をしていたから心配していたのだ。
「――ところで父さん、火を消した人たちって誰? 民主兵じゃなかったよな。服装が違ってたし。傭兵でもないし、まさか警護隊とか? んなわけないか。宮殿ほっぽってこんなとこ来るわけないもんな」
話題をかける梨飛に、騎兜は目を細めながらも便乗する。
「あれは特殊隊だ。悪鬼が攻め込んできた時に備えて、特別に訓練された者たちだ。彼らはみな、魔術や武術に優れ、悪鬼を封じることのできる力を持っている」
「魔術……? 神使様が使ってる聖術とは違うの? あの火をたった三人で消しちゃうんだから、普通の人じゃないっていうのはわかるどさ」
「理解できない気持ちはよくわかる。政府や教団は、魔術や悪鬼に関する事柄をすべて水面下で処理してきたからな。お前がわからなくても仕方ない」
「じゃあなんで父さんはそんなこと知ってるの? 秘密なんだろ。それって」
「俺も神使の一人だったからだ」
訝しく思いながら小首を傾げていた梨飛は、苦々しく吐き出された父の言葉に、一瞬呆け、え……、え、と言葉にならない声を発した。喉を鳴らして唾を飲み込むと、引きつった顔で、おどおどと尋ねた。
「と、父さん神使って言った? 今神使って言ったよな?」
「……ああ」
「え…、神使様って、神聖者の頂点に立ってる人でしょ!? はは、父さんがそんな偉い人なわけないじゃん。そりゃ、父さんは普通の人よりちょっと変わってるとこあるし、民主兵より強いし、顔だって子供から泣かれるほど怖いし…、うん、やっぱ信じられない。それに神使様って、死ぬまで神殿にいなきゃいけないんだろ? 学がなくったってみ~んな知ってる。俺を騙そうったってそうはいかないんだからな」
冗談交じりに眦をつり上げて軽口を叩くと、騎兜はおかしそうに笑った。
「全く、お前ときたら減らず口だけは一人前だな。だれに似たんだか」
少し苦笑気味に言うと、目尻を下げ、
「俺は力を失ったんだ。聖術を使えなければ神使になれないからな。おかげでこうしてやかましい息子と暮らせているわけだ」
明るく語った。
梨飛は、騎兜の幸福そうな顔を見て、馬鹿みたいに口をぽかんと開けた。
大切な力を失ったのに、なぜ笑っていられるのだろう。
神使といえば、この国で最高職の地位を占め、絶大な権力を持つ、人々の憧れの職種だ。
十聖長と呼ばれる有能な大臣たちとも関わり合いが深く、王とさえ対等の立場に立つことができるともいわれている。その姿は、一般の目に触れることはないが、信仰の厚いこの国では、聖職者の存在は大きい。
だれもが羨み、憧憬し、敬愛する神使という立場だった騎兜に対し、驚きもしたが、それ以上に、そんなにあっさりと神使の地位を捨てられる騎兜の神経がわからなかった。
力がなくなったことに対して、何の未練もなさそうに笑う騎兜が信じられない。
もし梨飛だったら────。
「二十時! 二十カル!」
時を知らせる時バトが鳴いた。
時バトは、大きな籠の上から頭を突き出しながら、梨飛たちのことをじっと見ていた。
真っ白な羽毛に覆われた身体に黄色のくちばし。そして、深紅の瞳。目にも鮮やかな鳥が、何かを問いかけるように長い首を曲げた。その拍子に、頭に生えた鶏冠が揺れた。紫・青・緑・黄色・橙色・桃色と統一感のない派手な色で覆われた鶏冠が、明かりに当たっていっそうと華やかな色を放つ。
「時バト、明日は四カルに起こしてくれ」
「リョカイ。ハヤイナ。アシタ、ナニカ、アルカ?」
滑らかとはいいがたいが、人語を喋り、人の言葉を理解する時バトに、騎兜は言った。
「ああ。梨飛が大事な用で出かけるんだ」
「ソウカ」
「お前はもう寝ていいぞ。それと、起床まで時間は知らせなくていい」
「ワカタ」
時バトは、その言葉に従い丸い目を閉じた。ぴくりとも身体を動かさず、足を折り曲げ、身体の二倍はある尾を身体に巻き付けて眠る時バトの姿は、まるで死んでいるかのようだった。
騎兜は梨飛に向き直ると言った。
「梨飛、悪鬼はすぐそこまで来ている。いや、昼間のように何匹かは、すでに入り込んでいるかもしれない。神使が一人欠けたことで、結界が一瞬だけ崩れたんだ。その一瞬のすきを狙って、やつらは侵入してきた。その結果が、あの騒ぎだ」
「け、けど特殊隊の人達が退治したんだろ? なら大丈夫じゃ……」
「確かに、国に入り込んだ悪鬼は、特殊隊が始末しただろう。けどな、問題はまだ解決したわけじゃない。大陸の周りを深淵なる淵が覆っているのは知っているな? あそこは、まさに未知の領域だ。神使の力も及ばない。この大陸が神の御業によって五つの国に分けられた頃、ラ・ティルカは、まだまだ発展途上国だった。それゆえに、国外で何が起こっているのか知らなかったんだ。深淵なる淵に悪鬼と呼ばれる魔物たちが住み着いていることに気づきもしなかった。他国は、それに気づいて、神の御手を借りたり、または悪鬼が侵入できないそうな装置を作ったりして防いでいたというのに。この国の神聖者たちがその事実を知った時、すでに国内は悪鬼たちであふれ返っていた。見かねた神使が、神の一人と契約を交わしたが、守りの力は手に入れても、戦う力は授けて下さらなかった。そのため彼らは、結界を張って悪鬼を追い出し、侵入を防ぐことしかてきなかったんだ」
「え……。じゃあ、結界が張ってあるのって災害を起こらないようにするんじゃなくて、悪鬼から守るためだった……?」
淡々と語られる内容を、一言も聞き漏らさぬよう息を潜め聴いていた梨飛は、必死に頭を働かせて理解した
「な…、なんだよ、それ。それじゃ俺たち騙されてたってことじゃん。どうして本当の事を神使様たちは言ってくれなかったんだよ」
眉尻を上げながら、梨飛がくってかかる。
「悪鬼がいたのは、二千年も前の話だ。現に、悪鬼などという存在を梨飛は知らなかっただろ? 魔物に関する類の書類はすべて処分されたか、一般市民には見られない所に保存されているからな。時が経つにつれ、惨劇というのは忘れ去られるものだ。神使に守られ、平和な日々を過ごす民衆に今更言えはしないだろう。言えるわけがない。言ったらどうなると思う。みんな発狂するさ。特殊な能力を持たない人間が、悪鬼相手に勝てるはずがないからな。だから隠し通すしかなかった。事実は、上層部の者たちだけの秘め事にして、民衆には──嘘をばらまいた」
「信じられない……っ。だったら、俺たちの未来は終わりじゃんか! 結界が壊れたんだろ!? てことは、悪鬼が来るってことじゃんか」
言いながら、梨飛は暗雲の中から感じた気配を思い出して身震いをした。
血に飢えた化け物。
あの気配は、五感で察知するものではない。無意識のうちに禍々しい気配が身体の中に入り込んでくるのだ。
武術に卓越した梨飛でさえ、忍び寄る悪の魂の気は恐ろしかった。
「そうだ。神使が欠けた今、悪鬼は虎視眈々と綻びた穴を見つけだし、入り込もうとしている。結界は四人そろって初めて意味を成す。一刻も早く新しい神使を据えなければ、この国はやつらに滅ぼされてしまう」
「三人じゃ駄目なわけ? 結界は持ち直したんだろ? 父さん、一瞬だけ崩れたって言ったじゃないか」
興奮を抑えるかのように冷めた緑茶を口に含んだ梨飛は、それをぐっと喉の奥に流し込んだ。
「確かに、三人でも不可能ではないが、その代わり力が分散され、結界はもろくなる。その分悪鬼が入り込みやすくなって……わかるな? 悪鬼の好物は人肉だ。一日と経たないうちに、人口は三分の一も残っていないだろう。いくら特殊隊がいるとはいえ、悪鬼の数は無限だ。千人にも満たない特殊隊が勝てる相手じゃない。彼らが殺されたら、何の力もない民はどうなると思う? 清き大河と深淵なる淵に囲まれている以上どこにも逃げ場がない。この国が悪鬼によって滅ぼされないためにも、新しい神使を見つけなければならないんだ。それはわかるな? 梨飛」
「まぁ、それはわかったけど、それと俺が神殿に行くのはどういう繋がりがあるわけ? 神使様だった父さんならわかるけどさ、俺、ただの人間だし──」
「亡くなった神使の容態は、半年前から悪化の一歩を辿っていた」
梨飛の言葉を静かに遮った騎兜が、わずかに瞼を伏せ、卓の上で手を組んだ。そして、深く息を吸いはき出した後、ほんの少し口元を歪め、
「もともと身体が丈夫なほうではなかったから、長くは持たないということを他の神使たちも予期していたんだろう。彼らは、密かに神使候補を捜していた。候補は三人見つかったんだが、どうも問題があるみたいでな。そこで、最後の候補者であるお前を神殿に招きたいと言ってきた」
「は……?」
梨飛は思わず固まった。
惚けた梨飛の手から、細長い湯飲みが食卓の上に転げ落ちる。
中身のお茶が、じわっと広がった。
「うわっ」
自分の方に流れてくる緑茶を避ける梨飛とは対照的に、騎兜は冷静に対処した。戸棚から布巾を持ってくると冷たい水分を吸い取った。黄ばんだ布巾が緑色に変色する。床に滴った緑茶も同じ布で拭き取ると、椅子に座り直した。
魂が抜けたような状態の梨飛に視線を移すと嘆息した。
彼は痛ましいものでもみるかのように目を細めたが、その口に慰めの言葉が乗ることはなかった。
長い沈黙の後、やっと我を取り戻した梨飛が、口をぱくぱくと魚のように動かした。
声にならない声が喉の奥に消えていく。
激しく動揺する心を落ち着けるように、新しく注がれた冷茶を飲み干すと言った。
「な、なんで俺なの!? だって、俺…、そんなの無理だし……!」
「神のご意志だ。だれにも逆らえない」
騎兜は苦虫を噛み潰したような顔をするとそれっきり黙り込んだ。
梨飛もまた、憤りを抱えながら思い悩んでいた。
神の意志? 神使様が決めたことなのに?
何がなんだかわからない、と梨飛は舌打ちした。悪い夢なら覚めて欲しいものだ。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
神使候補! 聖術も使えない自分が!
梨飛の記憶によれば、聖術を使える者のみが神聖者となることができるはず。
そういう者たちは、本人が自覚する前に神聖者が親元から引き離され、神殿で聖職者としての教育を施されるという。同じ力を使う者同士分かり合えるのか、それとも波長が合うのか、どこからともなく神聖者がやって来て、能力のある子を連れて行く。
梨飛は毎日のように南領の神聖者と会うけれど、君は私と同じだね、とか、神殿に来なさい、とか、そんなことは言われたことがなかった。
だから自分が神使候補であるはずがないと思うのだけど──。
「……父さんは、一緒に行かないの?」
ふいに口を出たのはそんな陳腐な言葉だった。
梨飛は世間一般からみればまだまだ親元を離れなれない子供だけど、自立心はあった。だから店だって開けたのだし。一人でなんだってこなした。なのに、一人で行くことに不安がこみ上げてきて……。
自分で言った言葉の恥ずかしさに、少し顔を赤らめた梨飛は、
「え…と、ちがくて、寂しいとかそんなんじゃなくてさ、ほら、その……、と、父さんはどうすんのかなって」
「俺は武器を作らなければならない。いつまた悪鬼が襲ってくるかわからないからな。その時、特殊隊のやつらがいなかったら困るだろ? 何も持たずに勝てる相手じゃないからな。最初に被害を受けるのは、無力で無知な一般人だろう。民衆のためを思い隠してきた秘め事が、とんだ仇となった。近いうちに、政府は悪鬼に関する情報を公開するだろうが、その時民衆がどう反応するか心配だ。暴動という事態に陥らなければいいが。――梨飛、恐れるな。使命を果たすんだ」
騎兜が一緒ではないと知った瞬間顔を強ばらせた梨飛に向かって、騎兜は諭すように言った。
優しさの欠片もない無情な言葉に、梨飛は何かを堪えるように下唇を噛み、騎兜から目を逸らした。
今にでも泣き出してしまいそうな梨飛の姿に、騎兜も辛そうに眉間に皺を寄せた。梨飛に声をかけるべきかどうか迷うように瞳が揺れた。けれども、聞きかけた口から言葉が発せられることはなく、代わりに苦渋に満ちた息がこぼれ落ちた。
「……死なない?」
梨飛は絞り出すように声を出した。
「死なないって約束して」
震える声は、泣いているかのようだった。
自分のことよりも父親のことを心配する梨飛に対して、騎兜は少しだけ切ない瞳をした。
「ああ…。ああ、もちろんだ。お前を置いて死ぬわけないだろう。力はないが、これでも元神使だ。悪鬼の急所は心得ている」
穏やかな口調の中に、力強い響きを感じ取った梨飛は、安心してか微笑した。
「さあ、話は終わりだ。もう寝ろ。明日は早いからな」