1-3
火事は、火を扱っていた屋台から起こったものだった。
大きな揺れに驚いて火をそのまま放置して逃げてしまったがために、屋台が崩れ落ちた時に火が燃え移ってしまったのだろう。食材場に集まる屋台や出店の中には、煮る・焼く・揚げるといった食べ物を売る店が数多く存在していた。
だからこそ被害は大きく、また複数の所から併発したのだろう。すべての店が、木の板や布などの燃えやすい物でできていたことも起因していた。
火の手があがると、地が動いたことにびっくりして我を忘れていた人々は、いくぶんか正気を取り戻したようだった。
彼らは、空に伸びる黒い煙がゆらゆらとたゆたう様子を目の端にとめると、慌てて井戸や水路に向かった。何百という人の集団が、壊れかけた桶や取っ手がついた入れ物を持って、そこから汲んできた水を炎に向かってまいた。
しかし、乾燥した大気に煽られた炎は、水を吸い込んでさらに勢いを増した。
火を消す人々の顔は炎の光を受けて真っ赤に染まっていた。額に浮かぶ大粒の汗が頬を伝い、灰色の石に吸い込まれていく。火の側に近づくだけで、内側から燃やし尽くされるような熱さが彼らを襲った。
彼らは、汗を拭いながら、ちらりと頭上を見上げては毒づいた。頭上を照らす、炎の太陽と豊穣の太陽は、暑さに苦しむ彼らをあざ笑うかのように照り輝いていた。
「父さん、なんか、変……。こんなに水をかけても消えないなんてさ。…まるで……、まるで水じゃなくて油を注いでるみたいだ」
梨飛はちりちりと肌を刺す熱さに耐えながら、どこか恐ろしげに眼前の炎の塊を一瞥した。
水をかけ始めてからどれくらいの時間が経っただろう。ここに来る前に騎兜と一緒に頭から水を被ったのだが、それも乾きつつあった。煙を吸い込んだ喉はからからに乾いていて、唾を飲み込むのがやっとだった。
梨飛は、桶に入っていた水を燃え立つ炎めがけてぶちまけると、空になった桶を後ろに回し、新たに回ってきた桶の中身を再び炎に向けた。
「そうみたいだな……」
梨飛の後ろで黙々と作業をしていた騎兜は、舌打ちした。
「父さん……?」
騎兜の苛立たしげな呟きを耳にした梨飛は、父親の言いたいことがわからず、眉を寄せた。
けれど騎兜はそれ以上何も語ろうとはしなかった。かわりに、後ろの人に、自分たちが持っていた桶を渡すと言った。
「俺たちは抜けるから、後を頼む」
「任せておけ」
騎兜は、困惑している梨飛の腕をとった。
「ちょ、父さん!? まだ火は消えてないってばっ」
「いいから来るんだ」
抵抗する梨飛を軽々と押さえつけながら、騎兜は火を消そうと一生懸命な人々の間を縫うように歩いた。
細い路地を抜け、大広場にやってきた騎兜は、石でできた椅子を見つけると、そこに腰を下ろした。その隣に、無理矢理連れてこられて不機嫌そうな梨飛を座らせた。
その前をざわめきに満ちた集団が駆けて行く。
「おい、援軍がきたぞ!」
「見ろッ、アイツら一瞬で炎を消したぜ!」
「ねぇ、お願い! こっちよ…こっちに来て! 早く火を消して!!」
「黒服のヤツらが火を消してくれるぞ!」
梨飛は何事かと目を丸くし、騎兜は歓喜の声を上げる人々の声を聞きながら、やっと来たかと呟いた。
「! どういうこと? なんで……だって父さん、みんなを止めなかったじゃないか。なんでもっと前に言ってくれなかったんだよ」
「──言ってどうなる。俺の言葉に奴らが耳を傾けたと思うか?」
梨飛はつかの間言葉を失った後、父の言葉を吟味するまでもなくゆっくりと首を横に振った。
水がきかないとはだれも思わないだろう。きっと、騎兜の頭がおかしくなったとみんな思うに違いない。
「俺の感覚も随分と鈍ったものだ。普通の炎ではないことに気づくのが遅すぎた」
自嘲気味に笑った騎兜は、苦くため息をつくと、
「まさか、こんなにも早く手放す時が来ようとは……。けれど、これもまた神の導きか……」
いくぶん辛そうに呟くと、一呼吸置いてから梨飛を正面から見据えた。
「いいか、梨飛。これから俺が言うことをよく聞くんだ」
「とう、さん……?」
いつになく真剣な顔つきの騎兜に、梨飛はそれまでの怒りも忘れて、不安を覚えた。
「明朝、西領の飛行場に行って、帝都行きの飛行船に乗るんだ。帝都に着いたら、神殿に行って神使に会ってこい」
「ちょっと待ってよ、父さん。いきなり何の話だよ。うちには、飛行船に乗るお金なんてないよ。それに、一般市民の俺が神使様に会えるわけがないだろ」
「は……? ちょ…、待ってよ、父さん。いきなりなんだよ。うちには、飛行船に乗るお金なんてないし。それに、一般市民の俺が神使様に会えるわけないだろ」
梨飛は、憤然とした面持ちで騎兜を見上げた。
飛行船の旅券は、一般人でも躊躇するほど高い値段だった。
それもそのはず。
もともと旅券代は、裕福な者たちを乗せるために想定された金額だったからだ。
この国の王であるラ・クルブリュチェ帝は即位当時、ない知恵をしぼって、飛行船を使って楽にお金を徴収する方法を思いついたのだった。華美好きな前帝のせいで、城の財政がかなり逼迫していたため、その案はすぐさま可決された。
そう、ラ・ティルカ帝国では、飛行船は、民営ではなく、国家が管理していたのだ。国庫は、飛行船のおかげでかなり私腹を肥やしたといってよい。
というのも利用者の九割が、無駄な金が有り余っている上流階級の者だったからだ。税収を取られてもなお潤う私財をもてあます彼らから、非難を浴びることなく徴収できるのが飛行船だった。
年々高くなる旅券に反論しない彼らのせいで、一般人は気軽に飛行船を楽しめないのであった。
「梨飛、落ち着け」
「落ち着けだって? 父さんのほうこそなんでそんなに冷静なのさ。もうわけわかんないよ。地面は揺れるし、火は消えないし、その上父さんまで変なこと言い出すしっ」
「梨飛」
「神使様がいる限り、災害は起こらないはずだろ!? なのになんで……、」
「――神使の一人が死んだからだ」
騎兜は睫を伏せながら、静かに言葉を吐いた。
無気力な声音には、かすかに苦痛が滲んでいた。彼は、眉間に手をやると辛そうに呟いた。
「ラ・ティルカ帝国が神使によって守られているのは知っているな?」
「う、うん」
騎兜の苦しそうな姿に胸を打たれた梨飛は、戸惑いながらも頷いた。
「四人の神使様が、国の周りに結界を張って洪水や猛暑などの天災から守ってくれてるんだろ? そんなの常識――っ」
その時、騎兜を見上げた梨飛の目の端に黒い影のようなものが映った。言葉を切った梨飛は、空に目をやって、驚いたように口をぽかんと開けた。
すでに、二期の一の月の半ば頃だというのに、どうして太陽が空の端からやってきた暗雲に覆われ始めているのだろうか。
太陽の威力が一年の中で最も弱まる弱火の月まで、まだあと十五日もあるというのに。前の月である一期の水の月の名残なのだろうか。
いや、そんなはずないと梨飛は心中で首を振った。
雨が降る時期は、神使によってきっちりと管理されている。
だから、名残のはずがない。
では、あれは一体なんなのだろうか。
二つの太陽が、闇よりは薄い雲に包まれて視界から消えても、なお視線を空に注いでいた。煙のように薄暗い空は、瞬く間に青空の広がっていた空を塗り替えていった。
「――来たか」
梨飛と同じように頭上を仰いでいた騎兜は、立ち上がると、まだ呆然と空を見つめている梨飛に視線を向けた。
「梨飛、神はな、人間だけを創られたわけじゃないんだ」
梨飛はハッと目を見開くと、厳しい顔つきの騎兜を見た。
「魔物も創られたのさ。人の血と肉を嬉々として食らう魔物を、な」
梨飛から目を離した騎兜は、再び鋭い視線を先ほどまで晴れ渡っていた空に向けながら言った。
重々しい言葉の中に、茶化した響きはどこにもなかった。
梨飛は愕然としながら父の話を聞いていた。
驚愕、困惑、絶望などの様々な感情が梨飛の胸の内を駆けめぐった。
あまりにも現実離れした話の内容に、反射的に嘘だ、と叫びたくなったが、唇はまるで縫い合わさったかのようにくっついて開かなかった。
しだいに衝撃から立ち直った梨飛は、騎兜のただならぬ様子に気づいて、やっぱり父の言葉は嘘じゃなかったのだと思い直した。騎兜の身体から漂う緊迫した雰囲気が、側にいる梨飛にも伝ってきた。
異常気象。
その言葉で片づけられたらどんなに楽だろうか。
騎兜と同じく空を見上げていた梨飛は、薄暗い空から感じられる殺気に気づいて、ぞくっと身体を震わせた。喰いたい、殺したい、そんな欲望に満ちたどん欲な気が、ゆっくりと触手を伸ばすかのように地上を這っていた。
「父さん、あれ…なに……?」
ごくん、と唾を飲み込んだ梨飛は、声を震わせながら訊いた。得体の知れない何かが、今すぐにでも自分の身体を引き裂きそうで怖かった。
それでも、恐ろしい気配を察知してわめき散らさなかったのは、騎兜が隣にいるからだった。あの恐ろしい視線を感じているはずの騎兜は、怖がる素振りも見せなかった。泰然と構えている騎兜の様子に、梨飛は安堵した。
父さんがいる限り大丈夫だ。
騎兜の強さは梨飛が一番よく知っていた。
「あれは悪鬼たちの群れだ。神が我々とは別に創り出された魔物だ」
「そ、…な……」
薄暗い空は、深みを増した。日光が遮られたせいで、気温がすっと熱を引いていく。
火を消すことに気を取られていた人々は、異変に気づいて、立ち止まっては空を見上げ、不安そうな顔をした。
梨飛はぎゅっと唇を噛みしめた。
不吉な予感がする。
梨飛の心臓は、激しく鼓動を打っていた。鼻を掠めるきな臭い匂い。不快感が広がっていく。
「おい、火が大きくなったぞ!?」
「なんで消えないんだよ!」
「建物に燃え移るわ……! 手の空いている人は手伝って──早くッ」
「あの黒い服を着たやつらはまだか!」
恐怖に引きつった声が、梨飛の横を過ぎていく。
梨飛は心を落ち着かせようと呼吸を繰り返した。少しだけ平静を取り戻すと、鋭い眼差しの父親を見据えた。
騎兜も息子の真剣な視線を厳かに受け取った。そして、重々しく口を開いた。
「神殿へ行け」
「…んで……」
梨飛の声がかすれた。
ごくん、と喉を鳴らした梨飛は、乾いた唇をなめた。
「なんで、俺が……」
「それが神のご意志だからだ」
騎兜はそれ以上何も言わなかった。