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長身で、屈強な体付きの男は、厳めしい顔をさらに鋭くさせて、人の波を押し退けるように歩いていた。太く凛々しい眉と、何があっても揺るがないような瞳が、荒々しく粗野な感じを醸し出していた。けれど、全体から流れ出す雰囲気はどこか柔和で優しかった。
彼は、目的の場所まで脇目を振らずに歩いていた。人がひしめき合う中を無理やり進んでいく男に非難の目を向ける者もいたが、彼はそんなの意に介していないようだった。そして、目的地まで着くと足を止めた。幸いなことに、そこには人垣がなかった。
「――梨飛」
彼は、大人に混じって商売をしている息子を見下ろした。唸るように出された声は、激情を抑えているかのように低かった。
「と、父さん!?」
梨飛は顔を上げると、目を丸くした。父親が来るとは思わなかったのだろう。
「お前というやつは、またこんな所で店を開いて……!」
「と、父さん、落ち着いて」
今にも爆発しそうな顔つきの男を見上げた梨飛の顔が引きつる。
「落ち着けだと? 俺は十分落ち着いているさ。お前がなぜ金を稼いでいるのか大体察しはつくから、今更どうとは言わないが、せめて家を出る時ぐらい何か言っていったらどうだ。探し回る俺の身にもなってみろ」
「だって父さん忙しそうだったからさ。声かけちゃ悪いかなって……」
男──騎兜の視線から逃れるかのように瞳を泳がし、言葉尻をすぼめた梨飛は、俯いた。
父のためを思い黙って出て行ったのだと言いたげな姿に、騎兜の顔も少しばかり和らぐ。
「そうか…。それは悪かった。このところ立て続けに仕事が舞い込んできたからな」
「だろ?」
怒りがいくぶん収まった様子の騎兜に対し、それまで打ちひしがれていたのが嘘のように明るく声を上げる。
「やっぱ俺に非はなし」
嬉しげに断言する梨飛に、反省の色はなく、騎兜は片眉を上げた。
「芝居がうまくなったもんだな、梨飛。通りで、お前のような子供が開いた店で買う客がいるはずだ。俺が噂を知らないと思ったか?」
「あ──……、それは……」
しまったと言いたげに梨飛が言葉を探すが、騎兜は言い訳する時間を与えなかった。
「わざわざそんな小汚い格好をして……! お前というやつは……!」
堪忍袋の緒が切れたのか、くわっと目を見開いた騎兜が怒鳴った。
空気を揺らす重低音に、梨飛がうわっと声を上げて耳を塞いだ。
「なんだ?」
「喧嘩か?」
その声に驚いてか、はたまた心配してか、何人かの人が梨飛たちの方を振り向いた。
「なんだ。また、カンゼルのところか」
「梨飛、がんばんなさいね! たっぷりお灸を据えてもらうのもいいわよ」
「今回は物を壊さないでおくれよ」
「騎兜、びしっと言ってやれ!」
「あんまり梨飛を泣かしては駄目よ」
やんややんやと声が次々にかけられる。
梨飛は、彼らに対してひらひらと手を振って挨拶した。
「どもども、毎度ご迷惑を掛けます」
馴染みの客に、愛想よく対応していると、梨飛、ともう一度騎兜が唸った。
まるで懲りていない様子の息子に、騎兜も手を焼いているらしく、気難しく寄せられた眉間には深い皺が刻まれていた。
梨飛の両脇で店を構えるおばさんとおじさんが、笑みをこらえながら口を挟んだ。
「騎兜さん、その辺にしておきよ」
「何もそんなに叱らなくてもいいだろ。梨飛だって、朝早くからカッタルの実をもいで、店に並べてるんだから」
「そうさ。見て御覧よ。梨飛の可愛い手は、すり傷だらけじゃなか。かわいそうに。カッタルの実は、採るのが大変なんだよ。いがはついているし、堅いから。子供が簡単にもぎとれるってもんじゃないんだ」
説教混じりの弁護をする二人に、騎兜は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「それはわかっているが、俺の身にもなってくれ。ちまたで俺がどんな風に言われているか知っているか? 養い子を折檻する悪い養父だとさ。濫屯からその話を聞いた時は肝が冷えたぞ」
「みんな面白がって言ってるだけさ。カンゼル親子の仲の良さを知らない者は、この町にはいないよ」
おじさんが、明るい笑い声を上げる。
「それはわかっているが、知らない者が聞いたら真に受けるだろ」
複雑な表情になった騎兜は、大きく息をついた。
「まあまあ、いいじゃん。娯楽を提供してやってるんだから」
「まったく、お前というやつは……」
呆れたように梨飛を見やった騎兜の顔が、険しくなった。
彼の回りを包んでいた穏和な雰囲気は、蝋燭の炎を消すかのようなに消し飛び、かわりに怒りをともなった冷気が取り巻いた。
尋常でない騎兜の様子に、梨飛が何か言おうと口を開きかけたその時──。
「な、何だ!?」
「キャアァァァァ────────ッ」
「地面が揺れてる!」
「みんな、避難しろ!! 大きいぞっ!」
「神使様は何をしてるんだっ」
それまで陽気ににぎわいを見せていた食材場は、瞬く間に阿鼻叫喚と化した。
手に持った品を宙に投げ出し、人々は逃げまどった。
悲鳴や恐怖に怯えた叫び声がそこら中から上がった。
地面に立っていられないほどの激しい揺れは、一分も続いた。時間にしたらほんの少しだったのかもしれない。けれど、彼らにしてみれば永遠とも思える長い間であった。
上下に小刻みに繰り返す揺れは、頑強な家屋を倒壊こそさせはしなかったが、壁にひび割れを作った。
石畳に深い亀裂が走り、溝ができて赤茶色の土が覗く。
起こり得ない惨劇を経験した人々は、怒りの矛先を神聖者と呼ばれる聖職者たちに向けた。彼らを非難する声があちこちから悲愴な声と共に上がる。
「──梨飛、大丈夫か?」
「うん、平気。父さんは?」
まるで地の振動を予期していたかのような素早さで騎兜が覆い被さったので、梨飛にはかすり傷一つついていなかった。
「俺も無事だ」
騎兜は周囲の安全を確認すると身を起こし、地面に身体を横たえている梨飛に手を差し出した。
梨飛はその手に掴まって立ち上がった。
「父さん、今のってなんだったの? 地面が動くなんて……。こんなこと初めてだ」
震えの残る手先を軽く握りしめた梨飛は、先ほどの衝撃から覚めぬ顔つきで、隣に立つ騎兜を見上げた。
「なに、歴史を辿ればさほど珍しいことでもない。まだこの世界が一つだった頃、地面が揺れるという現象はたびたび起こっていたそうだ。人間の身勝手な振る舞いに激怒した神々が、その行いを正すために、地面を動かしたといわれている。昔の人々は、それを地震と呼んで恐れていたそうだ」
「地震……」
辺りをゆっくり見回していた梨飛の顔が青ざめる。
両隣のテントと屋台はぺちゃんこに潰れていた。一瞬、おじさんとおばさんも下敷きになってしまったのかと危惧を抱いた梨飛だったが、それらしき姿は見あたらなかった。きっと、地が揺れた瞬間、混乱状態に陥ってこの場から逃げ出したのだろう。
胸をなで下ろした梨飛の目に、揺れが収まってもなお、揺れてる、揺れてる、と発狂しながら地面にうずくまる者の姿や、何が起こったのか理解できず、呆然と立ちすくむ者の姿が飛び込んでくる。その人たちの横では、人の波に押しつぶされて怪我をした子供が大声で泣いていた。
落ちてきた煉瓦に当たり、血を流している者。
腕や足を不自然な方向に曲げながら、呻き声を上げる者。
真っ赤な血で全身を染めながら倒れている者。
「酷い……」
まさに地獄絵図のように悲惨な光景だった。
これが地震の恐ろしさなのだろうか。
「しっかりしろ!」
傷の浅い若者や無傷の男性たちは、負傷している人たちを助け起こしていた。
女性たちは、手に包帯と消毒液を片手に走り回り、母親ははぐれた我が子を探して名を呼びながら駆け回っていた。
多様な人々が千々に入り乱れる両側に並んでいた簡易の屋台は崩れ落ち、整然と並べられていた品物を押しつぶしていた。棚から落ちた果実は、逃げ回った人々の足に踏まれて、汁が飛び出し、柔らかな実の部分はぐちゃぐちゃになっていた。飛び散った果肉が、道いっぱいに散乱し、赤・黄色・紫などの色とりどりの実が広がっていた。その甘ったるい果実の匂いが蒸したような熱気と、錆びた鉄の匂いと混じり合いながら、そこら中に充満した。
その惨状を呆然と見つめていた梨飛は、ふと眉を潜めた。
焦げ臭い匂いが混じっていることに気づき、顔を強張らせた。
風に乗って、梨飛の鼻を掠めるきな臭さは、一つの方向から漂って来るのではなかった。複数の場所からだ。
「火事だ!」
だれかがそう叫んだ。
梨飛はハッとして騎兜を見上げた。
視線に気づいた騎兜は、厳しい面持ちで目を合わせた。
「お前はここにいろ」
騎兜は有無を言わせぬ口調でそう言うと、火を消しに行こうと足を踏み出した梨飛の肩を掴んだ。
けれど梨飛はその手を振り払って、ギッと騎兜を睨み付けた。
「嫌だ。俺も手伝う。人手は多いほうがいいんだろ? 足手まといにはならないから」
頑として譲らない梨飛に、騎兜はむっつりと顔をしかめた。
数秒睨み合った二人だったが、先に折れたのは騎兜だった。彼は、やれやれとばかりに嘆息すると、梨飛が一緒に行くことを許可した。
目に見えない所で危険なことをされるよりは、目の届く範囲で好き勝手させたほうがいいと思ったからであろう。
梨飛は勝ち誇った顔で、渋面顔の父と共に火を消しに向かった。