1.梨飛・カンゼル
時刻は、十二時三十分を回ったところだった。
二つの太陽は、まるで燃え立つかのような色に染まりながら、金色の陽光を地に降り注いでいた。
石畳の道路からは、日の光を受けて、むわっとした蒸気が立ち上り、陽炎のようにゆらめいていた。
「いらっしゃいませぇ! ネルタックの花が安いですよぉ~っ!」
「ねえ、何食べる?」
昼時とあって、この界隈は人でにぎわっていた。
罵倒や張り上げた声が、いたるところから沸き立ち、それが人々を高揚とさせた。
集まった人々の熱気が、さざ波のように広がり、うだるような暑さと混じり合った。その熱が、玉のような汗を作り出したが、彼らの顔は、活気に満ちていて、気力を奪う暑さなどものともしない様子であった。
「おい、見てみろよ。珍しいの売ってるぜ」
「これ下さいな」
「あ、あれ欲しい」
甘い果実の香りや汗のすえた匂いが混じり合いながら、風に乗って人々の間をすり抜けていった。
風は、空腹で腹をさする者たちの鼻の側をあざけるように横切る。
その美味しそうな香りに、ひくひくと鼻を動かす少年。
早く食べたいとばかりに足踏みをする子供たち。
「さあさ、押さないでくだんなさぁ。まだまだ、たぁっぷりとあるんでね」
「まいど! さあ、お次の方はなんにしやす?」
昼食は作らないという者が多いため、食べ物を売る屋台の前は長蛇の列だった。
俗に食材場と呼ばれるこの通り。
元は南領主専用の道路だった。
しかし、勝手に専用道路を作った領主が亡くなり、嫡子である現南領主が跡を引き継ぐと、その道路は使われなくなった。
というのも、彼は、傍若無人だった父親と違って心根の優しい若者だったからだ。彼は、道路を造るために無理やり家から追い出され、住む家を失い、やり場のない怒りを抱えていた住人に多額の謝礼を支払い、道路があっても通れないんじゃなあ、と不平不満を並べ立てる領民のために、専用の道路を一般人に解放した。あやうく領民の蜂起が起こるところだったのを見事に鎮静させた若き南領主の名は、瞬く間に領土に広がった。
そのうち、広い道路に目をつけた商人が品物を売り始めた。その数はしだいに増加して、現在では、食料を求めるならアティスの食材場とまで言われている。食べ物は新鮮で、品数も豊富。しかも、様々な種類の食材がそろっているとなれば、毎日遠くからやって来る者も少なくなかった。
慣れた様子で食材場を歩き回る人波の中で、一人だけうろうろと道を行き来する女性の姿があった。すんなりと人混みをかきわけ、目当ての店に赴く客たちとは違い、どこか躊躇したように尻込みしている姿は、悪目立ちしていた。
買い物客は、邪魔だ、とでもいいたげに一睨みしてから彼女の横を歩いていったり、どけ、とばかりに彼女の体を押したりしていた。
だれ一人、困った様子の彼女に声をかける者はいなかった。
女性は、人の多さと熱気に圧倒されように、頭から被った日除けの薄い布を胸の辺りでぎゅっと握りしめていた。
「薄紅色の頭巾を被ったお姉さん、このカッタルの実なんてどう? 甘くて美味しいよ」
立ちすくんでいた女性に声をかけたのは、非常に幼い声だった。
荒々しい男性の声やしわがれた老婆の声、威勢のよい中年女性や男性の声が多い中で、一人だけやけに甲高く、凛とした声音は、喧噪の中でもよく通った。
思わずといった感じに、声の持ち主を探し辺りを見回した彼女に、「こっちだよ」と幼い声が言った。
その声に導かれるように、彼女は視線を動かした。人が行き交う隙間から小柄な姿を視線の端に捕らえ、謝罪しながら人波をかき分け、足を運んだ。
声の持ち主は、組立式のテントと簡易屋台の間に焦げ茶色の布を広げて、中央にちょこんと座っていた。布の上に置いてある籠に、親指ほどの大きさの黄色い実が山のように積まれていた。
「いらっしゃい」
少年は、焦げるような熱線から肌を守るためか、頭からすっぽりと外衣をまとっていた。影を作って、顔がよく見えないが、小柄な体と幼声は、間違いなく十歳前後の子供のものだった。
「果実を探してるなら、俺のとこが一番美味しいよ」
「坊やが、売っているの…?」
「そうだよ」
物珍しげに彼を見つめる女性の瞳に困惑が浮かぶ。
「一人で? お父さんかお母さんは一緒じゃないの?」
困惑を隠せない声音。
それはそうだろう。
アティスは、ラ・ティルカ帝国の首都である帝都に次ぐ収益を誇っているのだ。ほかの都市と違って、子供にも稼いでもらわなければ生活ができないということはない。
「一人で売ってる──……」
十歳くらいの年若い少年は、蒸し暑い日中でも暑さを感じさせない涼しげな声を曇らせると、お世辞にも綺麗とはいいがたい服から覗く白い手をぎゅっと握りしめた。
女性は、小さく声を漏らすと、訊いてはいけなかったかしらといいたげに眉を寄せた。
「俺には母さんも父さんもいないんだ。今は俺を拾ってくれた人の所にいるんだけど、その人……」
そこで少年は言いにくそうに口を閉じた。
女性は、所々すり切れていて、何カ所も継ぎ接ぎがされた服に目を留め、次に少年のすり傷だらけの小さな手を見て、虚を衝かれたように、瞳を潤ませた。
女性は懐から巾着を取り出すと言った。
「そのカッタルの実を五十フラッツ分下さいな。それで少しは量が減るでしょう?」
「ほんとにいいの……?」
「ちょうど果実が欲しかったんですもの。ここに来たのは初めてだから、どこに何があるかわからなくて困っていたの。だから気にしないで。あなたのためにっていうのもあるけど、私自身が欲しかったから買うの」
「ありがとう、お姉さん」
少年は、嬉しそうな声を上げると五十フラッツ分を袋に詰めた。一個二フラッツだから、相当の量がさばけるだろう。
「お姉さんはどこから来たの? この町に初めて来たって言ったけど」
少年が慣れた手つきで果実を入れながら訊いてきた。
「ここからずっと南の方にある小さな村からね。ちょうどこの町に寄る用があったから、来てみたんだけど、駄目ね。人に酔ってしまったわ。それにしても、よく私の姿が見えたわね。この頭巾はそんなに目立った?」
「俺、目だけはいいんだ。たとえ、人混みでも、知り合いならすぐ見つけだせるよ」
「そうなの。私は駄目だわ。みんな同じ顔に見えてしまうもの。あ、ありがとう。また買いにきてもいい? 今度はもっとあなたとお話ししたいわ」
女性は大きな紙袋を受け取ると、少しだけ微笑んだ。
「もちろん。たいがいここにいるけど、いなかったら、近くの屋台の人に、梨飛・カンゼルの店はどこにあるかって聞いて。そしたら、場所を教えてくれるから」
「まあ、食材場の売り主たちは、ほかのお店のことにも詳しいの?」
「そうでもないけど、俺んとこは特別。ほら、俺、まだ子供だから、ここじゃ目立つんだ」
「珍しいものね。それじゃあ、また来るわ」
女性は、軽く手を振ると人混みに紛れて、その場から姿を消した。