6-2
梨飛はこくっと唾を飲み込んだ。目の前にどっしりと構えている扉が、梨飛のわずかな勇気をも吸い取ってしまうようだった。
周りには、だれもいなかった。
鉄製の分厚い扉を見ながら、梨飛は心を落ち着けるように深呼吸をした。
扉の両端に灯った蝋燭の明りが、神秘的な雰囲気を作り出した。その明りに照らされて、白磁のような壁が、ほんのりと柔らかな光を放つ。
『神使になったからと言って、ここにずっといなくてもよいぞ。何と言っても、そなたはまだ若いからな。外で経験を積むのもよかろう。それに、騏兜に会いたかろう』
『え? でも、神使様ってずっとここにいないといけないかじゃ……』
『絶対というわけではない。それに、そなたが力を注いでくれれば、一年は持つだろう。心配しなくとも、わしら三人がこの国を支えておる。一年に一回、神殿に帰ってきて力を注いでくれればよい。だが、それも十七になるまでじゃ。成人の儀式を終えたあとは、死ぬまで神殿で神に仕えてもらう。よいな?』
梨飛は礼殷との会話を思い出し、じっと前を見据えた。
そうだ。
ここに入って、力を注げば、また父さんに会えるんだ。
期限つきではあったが、梨飛は礼殷の言葉が嬉しかった。
数年後、神殿に仕えるようになっても、華泉が側にいてくれるというし、羅梛たちもいるので退屈はしないだろう。
梨飛は意を決すると扉に手を掛けた。
そして、ゆっくりと押す。
梨飛が足を踏み入れた直後、真っ暗だった部屋の中が、ほんわかと色付いた。橙色の光が部屋全体を満たす。
梨飛は、中央に置かれている水晶に向かって歩き出した。中がどれくらい広いのかは、光が弱いせいでわからなかったが、歩くたびに響き渡る音からして、かなり広いようだった。
高い天井は、小さな金色の光が瞬いていた。まるで、本物の星がちりばめたようだった。
梨飛は、鼓動を高鳴らせながら、水晶の前までくると立ち止まった。二度、三度と呼吸を繰り返す。
水晶は、梨飛の頭くらいの大きさだった。天井の星を映して、水晶の中に星が閉じ込められているように見えた。
ごくありふれた水晶なのに、見る人の心を鷲掴みにする、そんな不思議な水晶だった。
「よし……」
小さく気合いを入れると、水晶に触れた。
とたん、水晶から銀色の光がほとばしった。光の洪水のようにあふれだし、部屋を覆う。梨飛は、身体中から力が抜けていくのを感じた。
「くっ……」
何とか、水晶に掴まりながら、床に倒れ込むのは防ぐ。
光は、出たときと同じような速さでしぼんでいくと、また星を映しただけの状態となった。
「これで、完了っと……」
こんなにきついとは聞いてなかったと、思わず愚痴ってしまった。
一日中働いたみたいに疲れた。
それほど疲労が大きかった。
梨飛は、しばしそこで身体を休めていた。
その日の夕方、梨飛は橋の上を歩きながら華泉を見上げた。
「華泉、お願いがあるんだけど」
梨飛は、礼殷たちに別れを告げると、今夜は遅いから泊まっていきなさいという言葉を振り切って、神殿を後にした。
皆、梨飛が去ると聞いて、あの手この手で引き止めようとしたが、梨飛の意思が変わらないのに気付いて、やっと諦めてくれたのだ。
多水なので、今日も雨だった。
どんよりと重々しい空を仰ぎながら、これじゃあ、試練場と変わらないと溜め息をついた。
けれど、それもしょうがない。
水は、この国だけではなく、大陸にとって大切な存在なのだ。何といっても、カスターラは、水から生まれたのだから。
「へぇ、珍しいね。でも、なんとなく見当はつくけどね。騏兜の所まで空間を切り開いてほしいんだろ?」
楽しそうだからという理由だけで、一緒についてきた華泉をちらっと見ながら、梨飛は少しだけ怒ったように口を開いた。
「悪い? だって、雨だし、飛行船とか馬車じゃ時間かかるだろ? お願い! 神殿の外で魔術を使っちゃうのはよくないっていうのは知ってるけどさ」
「別にいいよ。僕も、かったるいと思ってたんだよね。幸い、辺りに人の気配はないし。さあ、行くよ」
ちょっと、待って、と慌てる梨飛に構わず、華泉はにっこりと笑むと、梨飛の腕を掴んで、さっと空間に入り込んだ。
瞬く間に着いた我が家を前に、梨飛の胸には懐かしさであふれてきた。
梨飛は、華泉への礼もそこそこに、我が家に飛び込んでいった。
「父さん!」
中では、少しやつれた父親が、いきなり入ってきた梨飛を見て、びっくりした顔をしていた。それからゆっくりと破顔した。
「お帰り、梨飛」