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5.救世主



 梨飛が助けた女性の名前は、エリシュといった。

 どうやら、この試練場というのは、人間もいれば、化け物――こちらではと呼ばれているらしい――もいるらしい。

 ラ・ティルカ帝国と言語や文化は酷似しているが、微妙に違っていた。

 梨飛からしてみれば、彼女たちのカティス語はっているように聞こえた。


 エリシュの村は、とした木々の奥にあった。光のない、闇だけの空間。家は、大木の太い枝の上に建っていて、上に行くには、丸太と太い紐で作った昇降機に乗って移動した。

 エリシュは、魔形たちに襲われないために、高いところに家を建てるのだと言っていたが。


 梨飛は、部屋を満たす人口の明りを見つめ、この村に来てから何日が過ぎただろうかと考えた。朝も夜もないこの村では、皆適当に起きて寝ていた。

 時バトを連れてくればよかったと後悔した。

 本当なら、もうここにいなくてもいいのだ。毒は洗い流したし、怪我も晏葉が聖術で治してくれたから。

 それでも、まだこの村にとどまっているのは、エリシュたちがあの手この手を使って引き止めるからかもしれない。



 梨飛は、部屋から出るとに向かった。

 屋根のない所まで来ると、梨飛は腕を伸ばした。

 心地好い風が、前方から吹き付けてくる。

 梨飛は手摺に掴まって、眼下を見下ろした。


「梨飛さん、そんなに身を乗り出すと危ないわ」


 エリシュが心配そうに梨飛の側までやって来た。隣には、晏葉も一緒だった。


 なぜエリシュと晏葉が?


 その疑問が晏葉にも伝わったのだろう。


「私は、彼女に薬草の使い方を教わっていました。聖術だけでは治せない病もあるので」


 梨飛が訊くより先に、晏葉は答えていた。


「そういえば、エリシュたちはどっから食べ物とか仕入れてくんの? この辺にまともな草とか生えてるとこなさそうだけど」

「ほかの村から分けてもらうのよ」

「まだほかにも村があるのですか? 初耳ですね。私が以前、あなたに、この世界にほかに人がいるのかと尋ねた時、この村のこと以外知らないとおっしゃっていたのに。随分と矛盾していることを言われますね」


 おかしいですね、と言いながらもその声は淡々としていた。

 梨飛は、眉一つ動かさない晏葉とにこやかに微笑むエリシュを交互に見つめた。


「そのことを知ったのは昨日なの。父が教えてくれたのよ。驚いたわ。私たち以外に人が住んでいるなんて。けど、この世界はこんなに広いんだもの。当たり前かもしれないわね」

「そうですか。私も会いたいですね、その方たちに」

「ここからさほど遠くない所にいるらしいから、いつでもどうぞ。けど、今日は駄目よ? こけから、村を上げての宴を開くの。梨飛さんも絶対に参加して下さいね」

「う、うん……」


 しかし、こんなところでさぼっていていいのだろうか。

 まだ、それらしい試練もないのに。

 けれども、晏葉たちが何も言わない以上、梨飛が異を唱えることはできなかった。

 何と言っても、自分は見極めるだけの存在なのだから。







 梨飛は、エリシュたちと別れると、少し家の中を歩いた。枝の上に建っているとは思えないほどがっちりとした造りで、広々としていた。

 梨飛は、エリシュから貰った服を見て、やっぱり何か忘れていると首を捻った。細部まで細かく描かれた装飾が美しい服だったが、全体的に丈が短かった。動きやすくて涼しいからそれはそれでいいのだが。

 と、村長の部屋まで来たとき、梨飛は足を止めた。

 木戸が少し開いていて、中から会話が梨飛の耳に届いた。

 聞いちゃいけないと思って、足早に通り過ぎようと足を出した瞬間、自分の名前が出されて再び止まった。


「梨飛という子供が今夜の……」


 嗄れたこの声は村長の声だ。後半は小さくて聞き取れなかった。


「ほかの奴等はどうします?」

「お前たちにくれてやろう」


 とたん、部屋の中から歓声が沸き起こった。


「魔術を使うらしいから気をつけろよ」

「大丈夫ですよ。あいつら、きっとそんなこと忘れてますって」

「わからんぞ。華泉とかいう子供は要注意だ」


 華泉……?


 ということは、ほかの奴等は晏葉たちのことを指しているのだろうか。


「今夜はよい宴になりそうだ」


 村長は、喉の奥で笑った。危険な響きをはらんだひそやかな笑い声は、波のように広がった。

 梨飛は思わず後退りした。

 微かにミシッと床が軋んだ。


「だれだ!」


 村長が鋭い声を放つ。

 梨飛は、駆け出した。そして、右に曲がった瞬間、木戸が勢い良く開いた。


「だれもいません!」

「まあ、よい。どうせここからは出られないのだから」








 梨飛は、複雑に続く廊下を走りながら、村長の言葉を思い出していた。出られないとはどういうことにのだろうか。

 梨飛はだれもいない部屋に入り込むと身を潜めた。息を殺し、自分を追いかけて来た足音が過ぎるのを待つ。


「いないぞ!?」


 焦りを含んだ怒鳴り声が、部屋の前を過ぎていった。

 闇がいっそうと暗くなり始めた頃になると、村は賑やかに華やいだ。陰湿な暗がりに包まれていた森は、厳かに光に満ちあふれた。

 飲めや歌えと、楽しげな声が、梨飛の耳にも届いてきた。


「宴が始まった」


 梨飛は、エリシュとの約束を思い出し、部屋から出ようとしたが、扉が開かなかった。

 ガチャガチャと取っ手を動かす梨飛に、扉の反対側から声がかかった。


「宴には行かない方がいいよ」

「華泉?」

「もし宴に出たら、君は殺されるよ」

「何言ってるんだよ!」


 言っていいことと悪いことがあるぞ、と激昂した。


「不思議に思わなかったかい? 殺気立った気配が漂う森の中に村があることを。いくら地面が距離があるといっても、翼を持つ魔形に攻められたら終りだろう? それとも、魔形は空も飛べないと思った? 食料も水も豊富。僕たちがここに来たときのことを思い出してご覧よ。あんなにやせた土地に、実がなるわけないだろ」

「エリシュは、ほかの村から分けてもらうって……」

「いっておくけど、そのほかの村までどのくらいかかると思っているんだい? これだけの人数を賄えるだけの食料は、どうやって運んでくるんだろうね。田畑ができるような土地があるのは、山一つ越えたぐらい先だと思うよ。そんな距離を飛行船もなしにどうやって行き来するんだい? 人間にはとても無理だよ」


 人間には……?


 ということは、村の人たちが魔形だと言いたいのだろうか。

 華泉の言葉の真意を計り兼ねて片眉を上げたその時、


「きゃあぁぁぁ! な、なにをなさいますの!?」


 羅梛の悲鳴が梨飛の耳に飛び込んできた。


「華泉、ここ開けてよ! 羅梛が……!!」

「駄目だよ。君はここにいるんだ。僕に任せておけば大丈夫だから」


 華泉は、そのまま走り去ってしまった。

 遠ざかる足音を扉越しに聞いていた梨飛は、肩を落とした。

 華泉の言い分はわかる。

 自分が行っても役には立たないだろう。

 相手は魔形なのだ。

 渇血のときは、運よく勝てたが、さすがに二度目はないだろう。


 けれど、ここでじっとしているのは嫌だった。


 羅梛たちを助けたい。


 梨飛の心はその思いでいっぱいになった。

 梨飛は、親の敵でも見るような目で、ぎっと扉をにらみ付けた。

 無力な自分を今日ほど呪ったことはなかった。

 なぜ、自分には力がないんだろう。

 術が使えたらここから出られるのに。

 そうしたら羅梛たちを救いに行けるのに。


「華泉! しっかりしろよ!」


 葛箆の悲痛な叫び声。

 その声を聞いた瞬間、心臓が激しく鼓動を打った。


「くそっ。縄が解けねぇ!!」


 ドクンッ。


 胸が騒いだ。


「くくく、もはや命運尽きたな。もう一人の子供が見当たらないのは残念だが、お前たちで我慢しよう。ようやく捕らえた獲物だからな」


 ドクンッ。


 身体中が沸騰したかのように熱い。


「その汚らしい手を放しなさい! 無礼者!! わたくしをだれだと思っていますの!?

汚らわしい手でわたくしに触らないで!」


 ドクンッ。


 血が逆流する。


「術が効かない!? なぜ……!?」


 痛い。


 苦しい。


 梨飛は立っていられなくて、がくっと膝をついた。胸の辺りを押さえて呻く。


「くっ……はぁ……っ」


 全身に針が刺さったような激痛が走り抜けた。

 心臓を素手で握りつぶされたような鋭い痛みが梨飛を襲う。

 息もつけないほどの圧迫感が胸にかかった。


「この、化け物が! ……うわ」

「葛箆!? どうしました!?」

「大丈夫。腕を切られただけだって」

「もう結界は持ちませんわ! 華泉様、作戦は失敗ですわ!!」

「まだ、だよ……っ! くっ。……感じるんだ。力が解放される」


 刹那、梨飛はカッと目を見開いた。

 焦点の定まらない瞳が、夢を見ているかのようにさまよい、梨飛はゆっくりと立ち上がった。

 ふわりと身体が宙に浮く。


「開放扉完」


 梨飛がそう言葉をつむぐと、いくら押してもびくともしなかった扉が、主に道を譲るかのように開いた。




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