4.神使
梨飛たちが帝都に着いたのは、辺りが暗闇に包まれた頃だった。
空の端に夕日が沈み、紺碧色の空が深みを増す。
街灯で飾った道を馬車で走り抜けながら、梨飛は緊張で胸を高鳴らせていた。
これから、帝国でも一、二を争う権力者に会うのだ。粗相があったらどうしようと気が気でなかった。そう思うと、目の前で悠然と構えている華泉が憎らしく思えてしょうがなかった。
馬車は、軽やかに都を抜け、聖湖にたどり着いた。馬車はいったん速度を緩め、鋭い槍を持ち、厳めしい面持ちで立っている門番の前で止まった。
「何の用だ」
甲冑に身を包んだ門番の一人がそう訊いてきた。
橋を渡らせまいと槍を交差させ、橋の前を塞ぐ五人の門番たちの顔は険しかった。
「は、はい、それが、中にいる子供たちが、神使様方にお目通りを願いたいと申しておりまして……」
御者は困り果てた様子で、額に浮かんだ汗をぬぐった。
「何……? 子供……?」
門番たちは互いに首を傾げると、子供たちに下りてくるよう指示した。
「ありがとう」
まず、梨飛が御者に助けてもらいながら馬車の中から出てきた。梨飛は、御者に向かって頭を軽く下げた。
次に、華泉が一人でひらりと着地した。
門番は、まだ若い子供たちを見て、目を丸くした。
「火急の用事なんだ。君達ってもしかして、新米? 僕を見てわからないんじゃ、門番は勤まらないよ」
言いながら、華泉は右目を覆っていた前髪をかきあげた。中から翡翠のように美しい瞳が現れる。左目の紅玉のような瞳と相俟って、実に神秘的で美しかった。
門番たちは、緑色の瞳を見た瞬間、ハッと顔を強張らせると最敬礼をした。ピンと背筋を伸ばし、深々と華泉に向かって頭を下げる。
「失礼致しました! どうぞお通り下さい!」
「分かってくれて嬉しいよ。――馬車を走らせてくれないかい? 僕たちの足では、神 殿までかなりかかるからね」
御者に向かって、華泉は柔らかな声で言った。そして、まだ頭を下げ続ける門番たちを一瞥してから、事の成り行きが理解できなくて固まっていた梨飛を馬車に乗るように促した。
馬車は、太く頑丈な石造りの橋を駆けた。橋の下に悠々と漂う湖は、白銀の月明りを浴びてキラキラと輝き、水面には三つの月が薄暗闇の中、ひっそりと、けれど己を誇示するかのように玲瓏と浮かんでいた。まるで、空が二つあるかのような錯覚を覚えてしまうほど、湖の水は透明度が高く、清らかだった。
梨飛は、馬車の小窓から幻想的な風景を眺めながら溜め息をついた。南領には、川や湖がなかったので、目に映るものすべてが新鮮だった。夢を見ているような心地だった。
そうこうするうちに、馬車は神殿に着いた。
華泉は、少し多めのお金を御者に渡すと、
「ここに来たことは忘れてね。もし、言い触らしたら……わかるよね?」
そこで言葉を切ると笑んだ。ただ、瞳だけは完全に笑っていなかったが。
御者は、頬を引きつらせながらうなずくと、来た道をものすごい速度で戻って行った。
「言い触らしたらどうなんの?」
馬車が見えなくなると、それで神殿の荘厳で侵し難い雰囲気に呑まれていた梨飛は、華泉を見上げ、訝しげに尋ねた。
「別にどうともならないよ。彼を見張ってるわけじゃないんだから、言い触らしたかどうかなんてわかるわけないじゃないか。それに、言ったとしてもだれも信じないよ。御者の身分でここまで来られるはずがないからね」
「……」
やっぱり根性曲がってる、と梨飛は思った。
その時、梨飛の背丈の三倍はありそうな門扉がギギッという錆びた音を発しながら開いた。橋の前にあった門もすごかったが、目の前にそびえ立つ門も壮麗だった。
「さあ、行こう」
華泉は、まるで自宅に赴くような感じで言うと、さっさと中に入っていった。
白の法衣に身を包んだ者たちに案内されて通されたのは、大広間だった。
天井は高く、きらびやかな硝子で覆われていた。その中央から吊された豪奢な装飾電灯は、すべて硝子で出来ており、剣先のような水晶の集合体の内から、目映いほどの金粉が広間全体に降り注いでいた。
梨飛の上にも降ってくるそれは、体に触れる前に弾けて消えた。どういう仕掛けなのか降り積もることなく、泉もごとくわき出てくる。
迷い込んだのは、別の世界だったのかと目を奪われ、足を止めた梨飛の背を、落ちてくる金粉に気を取られることなく一緒に歩いていた華泉が押した。
「ぼけぇっと突っ立ってないで、歩いた歩いた。庶民の君にはいささか刺激が強すぎるかもしれないけど、慣れればそれほど麗しい光景じゃないし。自然に作られた物なら、愛でるのに相応しいかもしけないけど、人工物じゃね、見る価値もない」
「う…あ、」
相も変わらず辛辣な物言いに、けれど目の前の光景に見惚れていた梨飛は、舌をもつれさせた。
華泉が呆れきったようにため息をついた。
ゆっくりと部屋全体に視線を移した梨飛は、壁いっぱいに描かれた繊細な壁画に目をやり、息を呑んだ。
そこには、人と思えぬほどの美しい者たちが踊っていたのだ。
──そう、踊っていた!
純白の翼を優雅に動かしながら、幾重にも巻き付けた薄布の裾をひるがえし、絵の中をゆっくりと動いていた。
「梨飛、僕は別にどうだっていいんだけど、中央で神使が待っているの忘れないでね。ほら、突っ立ったままの君のことを訝しげに見てる」
「だ、だって…アレ!」
「あんなのはここじゃ普通だよ。初代神使は、華美好きだったみたいでね、愚かにも神の力を操れることに有頂天になって、こんな趣味の悪いものを作ったというわけ。神々の神聖な力を国のためじゃなく、己の欲望のために使おうって魂胆は気にくわないけれど、力を授けた神が何も言わないんじゃ文句を言ってもしかたないしね」
「…………」
絶句した梨飛の背を先ほどよりも強く押し、華泉は神使の元へと導いていく。
大理石の床に敷き詰められた深紅の絨毯の先、黄金の玉座に荘厳とした威厳をまとって座するのは、三人の神使であった。
中央に座る神使は、やっとのこと足を進めた梨飛に目をやり、わずかに笑みを滲ませた。思慮深い双眸は、深い落ち着きと叡智を宿し、年月の流れを感じさせる白髪と長い髭が、崇高で近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
「長い道のり、よくぞ参った」
しわがれてはいるけれど、芯の張った朗々たる声。
胸に染みいるような不思議な声音に圧され、梨飛は知らずその場に伏せっていた。
「面を上げなされ。さぁ、わしらにそなたの顔をよく見せてくれるか」
どこか親しみを込めてそう促す声につられて顔を上げた梨飛は、いつの間にか椅子から降り、目の前に立っていた老神使と真正面から目を合わせる。気後れしている梨飛と違い、彼は感じ入ったかのようにわずかに目を細め、あぁと感嘆とした声を上げた。
「まさしく…まさしく、そなたは……」
骨張った腕が、戸惑う梨飛の背に回される。
「すまなかったなぁ……」
懺悔と呼ぶには、あまりにも短い謝罪の言葉。
梨飛はわけがわからず、目を白黒として享受していたが、その言葉の意味を問うより先にほかの声がかかった。
「礼殷殿、思いがけない邂逅を喜ぶのはなにより。けれど、わたくしたちの力ではもはや限界です」
凛とした中に悔しさを滲ませながら礼殷の浅はかな行動をいさめる。
礼殷と呼ばれた老神使は、名残惜しげに梨飛から手を離すと玉座へと戻った。その両隣に座る二人の神使の目が安堵に包まれ、疲労しきっていた顔につかの間色が戻る。
「梨飛・カンゼル。そなたを呼んだ理由は騎兜から聞いていよう。──綻びに乗じ、すでに入り込んでいる悪鬼もおる。旅の疲れと汚れを取らぬまま導くのは良心に反するが、これも国の崩壊を防ぐためと思い我慢して欲しい」
偉丈夫は、厳めしい顔つきのままそう言った。
彼らは、華泉が一緒だったことにひどく驚いた顔をしていたが、
「これも神の思し召しか」
そう礼殷が呟くと、二人の神使も神妙な顔になった。
翌朝、梨飛は華泉と一緒にこじんまりとした部屋に通された。中では、礼殷たちがそろって出迎えてくれた。
「何かわからないことがあったら華泉に訊くといいわ。本当なら、華泉が一緒に行くのは違反なんだけど、今回は特別よ。何も知らない梨飛を候補生たちの中に放り込むわけにはいかないものね」
そう言ったのは、神使の中で唯一の女性である海銀だった。
「梨飛、わしらとしてもそなたに一任するのは心苦しい。けれど、事は急を要するのだ。本来なら、てはずを整えてから候補を試練場に送り込むところだが、今回ばかりはそれもできぬ。以上に強い力と心の持ち主が必要なのだ。だからこそ、今回のような手段に出た。――騏兜も莉珠の命がそう長くないことを知っていたのだろう。だから こそ、わしの無理な願いもきき、そなたを寄越してくれた」
礼殷は、悲しげに呟いた。
騎兜の名に反応を示した梨飛に気づいたのか、海銀がそっと睫を伏せながら説明した。
「莉珠は、騏兜のこの世でたった一人の妹だったのよ。双子のね……。だから、騏兜には莉珠の死を感じ取ることができたのよ。二人とも昔からそういうのが強かったら……」
ああ、と梨飛はうなずいた。
だから、父の様子がどこかおかしかったのか。
どうして、神使が死んだことがわかったのか謎だったが、そういうことだったのか。
「父さんはそんなこと話してくれなかった……」
話してくれたら、優しい言葉をかけてやれたのに。
哀しみに沈んでいた彼の気持ちも汲み取ることができず、自分は激情に任せて怒りを彼にぶつけてしまった。
「そなたを哀しませたくなかったのだろう。騏兜はそういう男だ」
礼殷は昔を懐かしむような遠い目になると、しばし口を閉じた。
しばらく経った後、彼は壁に向かって手をかざした。そして、何事か呟いた。すると、壁の一部が溶けるように消え、中から暗闇に包まれた洞窟が現れた。
パチン、と礼殷が指を鳴らす。
刹那、洞窟に橙色の明りが灯った。
「入るがよい。ここから先は、わしと華泉殿とそなただけで行く。下では、候補生たちが待っておるぞ。心の準備はよいな?」
「はい」
梨飛は意を決すると顔を上げ、礼殷の瞳をしっかりと見返しながらうなずいた。