3-3
「ここは、動力室だよ」
華泉の短い説明に、梨飛はぽかんと口を開けた。
動力室というからには、飛行船を動かす原動力が作られている部屋なのだろう。
しかし、大人十人が寝そべったら隙間もなくなってしまう程度の部屋には、中央に拳ほどの透明な球体が、ふわふわと回転しながら空中に浮いているだけだった。
その横には、その球体に向かって掌を向けている中年の男性が額に汗を浮かべながら立っていた。
突然現れた侵入者に、けれど彼はまるで気付いていないかのように瞳を閉じ、口の中でぶつぶつと何事かを呟いていた。
長くてゆるやかな外衣は、彼を高位な人間に見せたが、振り乱した真っ黒な髪やまばらに伸びた髭を見ているとだらしなさが強調されて、高官には見えなかった。
「はあ? なに言ってんだよ。田舎モンだってバカにしてるだろ。確かにさ、お前より知らないことあるかもしんないけど飛行船が何で動いているかくらいは知ってるぜ? 火だろ? なんか変な機械使って、火ぃ大っきくして、飛行船を浮かせるんだろ」
眉を潜めて食って掛かるが、梨飛の怒りなどどこ吹く風で、華泉はにっこりといつもの底の見えない笑みを浮かべた。
「やだなぁ。梨飛を馬鹿にしてなんかないよ。馬鹿だとは思ってるけどね。お馬鹿な梨飛でも知ってたんだ。まぁ、大昔はそういう方法をとってたけどね。今はそんなまどろっこしいことしない」
「じゃあどうやってこんな大きな飛行船動かしてんだよ」
「言ったろ。ここが動力室だって。はぁ、ほんと頭が固いね。僕の言葉を少しも理解してない。脳みそが空っぽな梨飛くん、あそこに浮いている石が源だよ。あれこそがこの飛行船を動かしている原動力だよ」
「あんな小さいのが?」
「そ。騏兜から話を聞いているかもしれないけど、悪鬼の存在や魔術のことは、民衆に伏せられていたんだ。なぜだかわかる? 暴動だよ。ほんと、人間て浅はかだよね。考えることすらせず、愚かしい行動に走るんだから。でる。悪鬼たちのことはいい例だった」
過去形で語る華泉に、梨飛はハッとした。
暴動はずっと昔に起こっていたのだ。なんらかの理由で悪鬼たちの存在がばれてしまい、きっと民は受け入れがたい事実に発狂したのだろう。
華泉は、まるでその場にいて見てきたかのような口調で、その時の様子を話した。
悪鬼に殺されるくらいなら、戦って死んだほうがましといきり立つ人々。
なぜそんな重大な事柄を隠していたのかと教団に襲いかかる人の群れ。
生きていてもしょうがないと死に急ぐ者。
魔術を身に付けて悪行に身を投じようとする若者たち。
人々が生を放棄したことで土地は荒れ果て、家屋は廃墟と化した。
道端には骨が散乱し、そこらじゅうから異臭が放たれる。
まるで地獄絵図のような光景がその当時は広がっていた、と。
「それを見兼ねて助けてくれたのが、炎神だったんだよ。彼は、命の源を生み出す水神を崇拝するラ・ティルカ帝国の民を気紛れから救ったんだ。誓約と引き換えにね。彼は、自分が国の神となって崇められることを嫌っていたから、それまで通り民が水神を信仰するのに異論は唱えなかった。そのかわり、自分の子孫が国の支配者となることを望んだ。その頃には、王族の血筋は途絶えていたから、民の中に反対する者はいなかった。そして、炎神は女に子を生ませ、神使を作り出したんだ。四人が協力することによって結界を張り、帝国が繁栄するようにとね。炎神が国を守護する誓約の証しとして、この国に生まれた者は、彼と同じ色の瞳を持つことになったんだよ。だから、僕たちは火の民と呼ばれているんだ」
「それっていつの時代の話? 俺、そんな話聞いたことない!」
「五千年以上も前のことかな。言ったろう? 悪鬼たちのことは公開されていないって。炎神は、民の記憶を操作して、悪鬼のことや魔術のことを脳裏から消し去ったんだよ。知っているのは、教団と政府と王族だけ。だからこそ、この国に関する資料は初代の帝王が即位した頃からのものしかないはずだよ。西暦も歴史もなにもかもね」
華泉はそこでいったん言葉を切ると男性と同じ様に手を球体に向かってかざした。短く言葉を呟くと、掌から銀色の光が球体に向かって伸びた。
「だから、飛行船が浮石という石で浮いているということは伏せておかなければならなかったんだよ。この浮石は、力を持っている者だけが使いこなせる浮遊石なんだ。かけらだけでも大人一人を軽々と空中に浮かせる力を持っているんだよ」
華泉は、精根尽き果てたような顔付きの男性とは対照的に、涼しい顔で術を操ると初めて聞かされた衝撃のないように言葉を失っている梨飛を見て、おかしそうに笑みを零す。
「特殊隊の存在は知っているよね。特殊隊は、魔法道士の中でも極めて有能な者が選ばれるんだよ。魔法道士は、人を守る聖術とは違い、人を呪ったり、殺したりする魔術を使うことができるんだ。それゆえに、国家から重宝されているし、悪鬼に戦いを挑むことができる。けれど、神使に守られている以上、悪鬼は出てこないだろ? その間彼らはただ訓練を続けているわけではないんだよ。方々でさまざまな活動をしているんだ。例えば、飛行船を動かしていたりね。ここにいる船員はすべて魔法道士の者だよ。そこにいる彼も含めてね。浮石の秘密を守れる上に、何かあった場合は迅速な措置がとれるし、浮石は力あるものにしか動かせないから、国にとっては願ったり叶ったりなんだよ」
華泉の話に呆然と聞き入っていた梨飛は、ますます華泉の正体が知りたいと思っていた。
華泉は、知り過ぎているのだ。
まるで叡智の権化だ。
彼の頭脳には、どれだけの記憶と情報が収められているのだろうか。
何もかも達観している瞳は、彼がただの子供ではないことを物語っていた。
子供の姿をしているのに、どうしても梨飛には、彼が大人に見えた。
「華泉って何者だよ。いろんなこと知ってるし……」
「それは秘密だっていっただろ? 僕の正体が知りたいなら自力で答えを導き出すことだね」
梨飛は不服そうに頬を膨らませたが、それ以上何も言わなかった。絶対、正体を暴いてやると心に誓いながら、華泉が結界を張る様子を見ていた。
華泉が張った結界のおかげで悪鬼たちに襲われることなく、飛行船は帝都に着いた。別れ際、船長が華泉に何度も礼を言い、浮石と向かい合っていた男性までもが、
「いやあ、申し訳ない。いったん術をかけ始めると集中しちまって、回りのことが見えなくなるんですよ。悪鬼たちのことに気付かず、ほんとすまない」
でかい身体を縮こまらせて、恐縮しながら華泉に謝っていた。
彼は、華泉のことを同業者――つまり、魔法道士だと思っているらしく、華泉の力の強さに感服していた。船長がとめなければ、華泉が弟子にしてくれるまで華泉に張り付いて離れなかっただろう。
梨飛には、華泉がどれほどの実力の持ち主なのかわからなかったが、船長からも敬われているところを見ると相当強いのだろう。見掛けからは想像できないが。
船長から聞いた話によると、本来悪鬼から守るとき張る結界は五人で作らなければならないらしい。それを華泉はたった一人で作り上げたんだから、けっこうすごい奴なのかもしれない。
梨飛は、船長たちと和やかに談笑している華泉を眺めながら、そんなことを思った。
頭からすっぽりと被った布を顎の下でぎゅっと握り締めながら、足早に通り過ぎていく人の波を黙って見つめる。
飛行船に乗っていた乗客たちはすでに、無事に到着したことに歓喜しながら迎えの馬車の元に向かっていた。だから、飛行船の回りにいるのは梨飛と華泉、それに船員たちだけだった。飛行船の便は、今乗ってきたのが最終だから、新たに乗り込む客がいない分、人は少なかった。
きらびやかな服に身を包んだ人達にじっと視線を注いでいた梨飛は、彼らの幸福そうな顔を見て、そっと目を背けた。一体だれが想像しただろうか。この国に終りが近付いているなどと。空に目を移した梨飛は、拳に力を込めた。
空は、橙色に染まり、二つの太陽はゆっくりと消えようとしていた。いつもなら濃淡が空を彩り、溜め息が出るほど美しい光景が広がっているのだが、今日は少し違っていた。三人の神使による結界が弱まってきているのか、頭上を飾るのは灰色がかった雲だった。
普段なら夕日を浴びて澄んだ輝きを宿すはずの空も、今日ばかりは橙と灰色が交じり合いおどろおどろしい雰囲気を作り上げていた。帝国崩壊への序曲が一歩一歩進んでいる事実を眼前に突き付けられ、梨飛はやり切れなさに唇を噛んだ。
何も知らない市民が、真実を知ってしまった時、この国はどうなってしまうのだろうか。いや、薄々感づき始めているのかもしれない。すでに至る所で悪鬼が出現しているのだから。
一刻も早く新しい神使を見つけ出さないと。
だからこそ、神殿へ行って伝えなければならない。自分は神使候補ではない。ほかの人と間違えているのだと。
「梨飛、少しここで待っていてくれる? 空いている馬車を探してくるから」
船長と話を終えた華泉が梨飛にそう尋ねた。
「俺が行ってくるよ。だって、華泉には世話になりっぱなしだし」
華泉に助けてもらってばかりいる梨飛は、それでは悪いと思いそう口にした。
まだ少しだるかったが、動けないほどではない。たかが馬車を探すくらいで倒れたりはしないだろう。
「そう? じゃあ、任せようかな。けど、くれぐれも瞳は見られないように気をつけてね。ここは、君のいたところとは違って常識人ばかりだから」
「わかってるよ。どうせ、俺のいたところは田舎だよ。無知で悪かったな。青い瞳を持つ人がこの世にいないなんて知らなかったんだよ」
「別に、無知は悪くないよ。そのお陰で君は、伸び伸びと生活できただろう? もし、君の周りにいた人たちが、そのことを知っていたら、君は一生顔を隠して過ごさなければならなかったんだよ? だれも知らなくてよかったじゃないか」
それは一理ある。
口では勝てないと悟った梨飛は、早々に降参すると馬車を探しに行った。
「いいのか? 一人で行かせて。王が、出した密令を知ってるだろうに」
梨飛の小柄な後ろ姿が人に紛れて消えてしまうと、船長は口を開いた。その顔には、心配そうな色が濃く滲んでいた。
「いいんだよ。梨飛にも少しは冒険してもらわないとね」
「国の未来がかかっているんだぞ? わしには、あの子が救世主には見えなかったがな。お偉いさん方が考えることは、わしにはようわからん」
「僕は、この国の未来なんかどうでもいいんだよ」
物騒な言葉に船長はあやうく口にくわえた煙管を落としそうになった。
華泉は、珍しいものでも見たといいたげに、口の端を持ち上げると、
「長く生きすぎると何もかもが色あせてしまってね、毎日がつまらないんだよ」
「あの子に楽しみを見いだしたってことか?」
「僕は、梨飛がどう道を切り開いて行くか見たいだけだよ。それに、見てて飽きないしね。愉快だよ、梨飛の行動は」
「あなたの目には、この国の行く末が見えているんだな」
「いいや、時は常に変化する。僕に言えるのはそれだけだよ。未来も現在も道は一つじゃない。枝のように分かれた複数の道の一つを歩きながら、常に選択を強いられる。人生なんて進むか進まないかの二者択一だよ」
「面白い論理だな」
「面白い? 違うよ。これは正論。正しい道も正しくない道も、この世には存在しないんだ。最善の道っていうのは、結果論だよ。道を選んで結果があって初めてそれが幸か不幸か気づくだろ。梨飛も同じ。僕たちの未来は限りなく黒く澱んでいる。それはほんと。けど、梨飛が知らないうちに道を選択していくうちに、その未来に一条の光をもたらすこともある」
「ほぅ」
船長は軽く目を見開くと、華泉でもそんなことを考えるのかと言いたげに、華泉を見た。
「ま、大体は親友のうけうりだけどね」
親友のことを思いだしたのか、くすりと笑った。
「なるほど。素晴らしいご友人のようだ。…あぁ、だからあなたは救世主のことを放っておかれるのか」
「どうかな。彼が僕に会った時点で、僕も彼の道に引きずりこまれたんだ。国の命運をになった道にね。部外者ヅラしてるつもりはないよ」
「そうか……」
そう呟いた船長は、紫煙をくゆらせながらこの国の未来を案じた。