3-2
梨飛は一人でいたくなくて、廊下に飛び出した。大人三人が余裕で並べるほどの廊下は、悲鳴をあげる人でにぎわっていた。
「皆さん、お静かに! ただの乱気流です!!」
乗員が、声を荒げる。
しかし、恐慌に陥った客は、我が身の安全ばかり願い、だれも彼の言葉に耳を傾ける者はいなかった。
梨飛は、その中を縫うようにして進んだ。
乱気流?
梨飛にはそれがどういうものかわからなかったが、アレはそんな生やさしいものじゃない。
薄い外套を胸元で引き合わせた梨飛は、恐怖から逃げるかのようにぎゅっと力を込めた。
「坊や、悪いけど、ここは立ち入り禁止なんだ。自分の部屋で待っていてくれるかい?」
年若い船員が、しゃがみながら優しく声をかけてきた。
「え?」
ハッと辺りを見回すと、だれもいなかった。
梨飛は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にした。
人をかきわけるのに夢中で、注意書きを見ていなかったのだ。
「ごめんなさい。けど、俺、人を捜してるんだ。どっか行っちゃったみたいで」
「お父さん? それともお母さんかな?」
船員は、うなだれる梨飛を哀れに思ってか、にっこりとほほ笑んだ。警戒心を与えないのほほんとした顔は、笑うことでいっそうと面差しが柔らかになった。
「えっと……」
答えようとした梨飛は、言葉につまり、困ったように眉を下げた。
華泉のことを何と説明したらよいのだろうか。
友達?
いいや、違う。
断じて違う。
ただの知り合いですませるには、関わりが強いし……。
仲間……。
それは嫌だ。
あんな極悪非道な輩と同じに見られたくない。
「んー、一緒に旅をしているやつなんだ」
とりあえず無難な答えを口にする。
「へぇ、旅を?」
「そっ。って言っても、俺も今日会ったばっかなんだけどさ。俺が寝てる間に消えちゃった。お兄さんさ、俺よりちょっと背ぇ高くて、子供のくせに妙に大人ぶったやつ見なかった?」
そう尋ねると、船員はぷっと吹き出した。
体をくの字に曲げ、腹を抱えて笑う。
「ちょ…、お兄さん!?」
なぜ笑い出したのか、梨飛には理解できなかった。
疑問符だらけの梨飛に、やっと笑いが収まった船員が言った。
「ごめん、ごめん…! てっきり気付いていると思ったから」
梨飛は彼の言葉の意味がわからず不思議そうに首を傾げた。
「つまりね、君が入ってきた入り口には結界が張ってあって、一般の人が入れないようになっているんだよ。悪のりしてくれてたのかと思ってたら、本当に気づいてなかったのか。どおりで、相手してくれたわけだ。んー、船長にばれたら殺されるかな」
物騒なことをさらりと口にしながら、彼は微かに苦笑した。
「じゃ、ここどこ? 俺知らない間にここ来てたし……」
「君は本当に面白いね。ここは、見つけようったって探し当てられるものでもないのに」
「よく意味わかんないんだけど」
「無意識の力、ね……。ますます興味深い。ここにたどり着いたのは偶然か、それとも必然か。神は本当に楽しい引き合わせ方をする」
「えっと……お兄さん?」
「君は、そうと知らずに彼の居場所をつきとめてしまったんだね」
「彼……?」
だれのことだ、と梨飛が口にしたその瞬間、奥の扉が静かに開いた。
「あ、華泉殿。ちょうどよかった。今から呼びに行こうと思っていたんです。連れの方がお見えですよ」
船員は、慇懃無礼に言葉を改めると華泉に向かって一礼した。
華泉は、彼に軽く頷くと、梨飛の側に寄った。
「結界がゆらめいたから、もしかしたらと思ったら、やっぱり梨飛だった。ヨダレ、口元についてるよ」
くすりと笑った華泉。
梨飛は慌てて手の甲で拭う。
「つか、なに勝手にいなくなってるんだよ」
「なんで僕がわざわざ君に断らないといけないの?」
「う……」
「それに気持ち良さそうに寝ている君を起こさないようにとそっと抜け出した僕の優しさわからないかなぁ。酷いね、梨飛」
「ご、ごめん……」
思わず謝った後で、果たして本当に自分が悪いのかと首をひねる。
それなら、せめて一言書き残してくれてもよかったのに。
なんとなく華泉に言いくるめられたように感じ、少し不服そうな梨飛に、華泉は言った。
「それにしてもよくわかったね。僕がここにいるの」
「……なんかいつの間にか着いてたっていうか……。あ、そだ、結界ってなに? このお兄さんが言ってたんだけど」
梨飛が指さすと指された本人は、ムッとした顔をするわけでもなく穏やかに微笑んでいた。
「ん~、簡単に言えば、壁、かな」
華泉は、言うより、目で見せたほうが早いと思ったのだろう。
「梨飛、僕のところに来てくれる?」
「は? あ、うん……ってぇ」
招かれるまま足を踏み出した梨飛は、たとんゴンッと何かにぶつかり、驚いた顔をした。
「え、ええ……っ!」
いつの間にか目の前に壁が存在していた。
「嘘っ、なんで?」
ぺたぺたと触ってみると固い感触がある。
わけがわからずただびっくりしているといきなり壁が消え、華泉が姿を現した。
「こういうことだよ。うるさい一般人に入ってこられちゃ困るから、今みたいに出入り口のところに術で作った壁を置いてるってわけ。船長室を知っていても知らなくても普通の人間は通ることなんかできないんだけど、やっぱ梨飛は特別だったみたいだね」
「なんでそんなことする必要あるんだ? みんな船長室探してるっていうのに」
「はぁ、だから梨飛はお馬鹿だっていうんだよ。隠そうとするからには、そこに秘密がある。これ常識」
「……悪かったな知らなくて」
「ま、君に知識がないのは知っていたけどね。ここにたどり着いたご褒美に教えてあげるよ」
不審がる梨飛を扉の中へと連れていった。
「船長、若き救世主のご到着だよ」
華泉は、船員の中でも年配の男性に声を掛けた。
その男性は、若い船員たちにいろいろと指示をしていたが、華泉の言葉に振り向くと厳めしい顔を笑顔で輝かせた。耳から顎に伸びる真っ白な髭が、威圧的な雰囲気を作り出していて、眉間に寄せられた皺が厳格そうな顔立ちに見せていた。背はあまり高くなく、細身であったが、腹だけはぷっくりと出ていた。
「来たか。全く、困ったもんだ悪鬼の連中にも。ここ数十年はおとなしくしていたと思っていたが、まさかこの年になって再び悪鬼と向かい合うとは思ってみなかった」
彼は、煙管を口に銜えながら、歯の隙間から煙を吐き出した。
「どんな様子? 襲ってきそう?」
「いや、まだ闇の中からこっちを伺ってるだけだ。ありゃ、低級だな。天候を変えることぐらいしかできやしない。どうしたものかな。客は混乱して、収拾がつかんらしい。これだから、上流階級の人間は好かないんだ。少し揺れただけで、すぐ文句を言ってくる。あー、クソッ、早くこの仕事を辞めたいねぇ」
「愚痴をこぼすのはいいけど、現状をどうにかしてもらわないとね。梨飛には一刻も早く神殿に行ってもらわないと困るんだし」
船長は、眼帯で覆っていないほうの瞳を梨飛に向けると、梨飛の顔をしげしげと見つめ、にやっと口の端を上げた。
「こりゃ驚いた」
彼は大股で近づいてくると、もっとよく見ようと覗き込んだ。
「お前さん、水神の加護を受けているのか。綺麗な瞳だ。何、隠すことはない」
居心地の悪さを感じて俯く梨飛の頭をあやすように叩いた。
「だって、俺はみんなと同じがいい……」
みんなが褒めてくれるこの目が梨飛はあまり好きではなかった。
「同じ、か……。水神を崇める教徒なら私財をなげうってでも手に入れたいと思っただろうに。教会の奴らも近頃物騒だしな。せいぜいお目々は大事にしな。えぐりとられねぇようにな」
「は……?」
えぐりとる……?
穏やかではないせりふに呆然としていると、華泉が梨飛の手を取った。
「じゃあ、僕たちは悪鬼が近付けないよう結界を強化するから、その間、彼らが攻撃してきたら防いでおいてね」
船長と船員たちは、頼もしい声で任せておけと答えた。