28話 別れ
追憶の魔導書で作ったサヤ姉との思い出の世界。
そこは現実から隔離された結界で、本物のナナタがいるはずがない。
それなのに、今、目の前で俺の目をまっすぐ見つめてくるのは現実のナナタにしか見えない。
「な、なんでここに……!?」
「そんなことはどうでもいいです。さぁ、答えてください。
なにを!! やめるんですか!!」
動揺で思考がフリーズした。
そこへ更に、
「ナナタ君、そんなに厳しくしちゃダメ。
ユーシが困ってるじゃん」
なんとメルヴィーまで。こちらも本物に見える。
この状況は記憶にないから、二人とも本物のはず。
だけど、なぜここにいる?
魔導書で作った結界内だぞ?
「なんで入れたか聞きたい?」
メルヴィーはコホンと喉を整える。
「『たまたま』なんだよね。本当だよ?
たまたま結界を触ったら私とナナタ君だけが入れた。
昨日まではそんなことなかったのに。
だから、ユーシの方に原因があるんじゃないかな?」
原因。
思い当たる節はある。
新しい記憶、つまりは現実を求めたこと。
俺と関係の深いナナタとメルヴィーは俺の求めた物に合致する。
現に、今こうしてやり取りをするだけでも、俺は懐かしさを感じていた。
自分で作っておいてなんだが、追憶の魔導書は気が利くらしい。
「で、どうするんですか!! 僕が入れたってことは!! ユーシはいい加減、前に進む気になったってことですよね!?」
ナナタが強く尋ねてくる。
その目には涙が浮かんでいた。
……なんでナナタが泣いてるんだよ。
メルヴィーはナナタの肩を掴んで近くの椅子に座らせて落ち着かせた。
ナナタは今も号泣している。
どうしたんだよ。全く。
「まぁ、私たちの話をしてもしょうがないよ。
それよりも、ユーシの話を聞きたいな!!」
メルヴィーはニッコリ笑って言う。
……俺の話。
突如、近くにあった窓の外から喧騒が飛び込んできた。
3人(ナナタとメルヴィーは人じゃないが……)揃って窓を見た。
暗い室内に向かって陽光が差し込んでくる。
外の景色は俺には見慣れた物だった。
というのも、サヤ姉と過ごした家の近所だ。
どうやら、魔王城から家の近所に場所が変わったらしい。
窓の外には鼻歌を歌いながら洗濯物を取り入れるサヤ姉。
まぶしかった。
ここが暗いのもあるが、それ以上にサヤ姉のいる日々がまぶしかった。
あそこに戻りたい。
さっきサヤ姉と交わした、遊ぶ約束。
サヤ姉は俺の帰りを待ってるんだ。
あんなに浮かれているのも、俺が帰ったら一緒になにをして遊ぶか考えているからだ。
「……帰りたい」
窓から視線を外さずに言った。
視界の端でナナタが驚いて顔をあげる。
口を開いたが、メルヴィーに制止されて再び力なくうつむいた。
「あれがサヤさんなんだ。綺麗な人だね」
メルヴィーはいつも通り普通に、けれども、少しだけ悔しさを滲ませた。
「ナナタ君と違って、私はユーシを呼びに来た訳じゃないよ?
様子を見たかったから、つい入っちゃったけど。
でも、ユーシがここで楽しく過ごせるなら、それでもいいんだよ?」
「……どうするんですか?」
ナナタがか細い声で尋ねる。
俺はナナタから目線を反らしながらも、「あちらに帰る」と言おうとした。
視線の先、洗濯物を取り入れたサヤ姉は花壇へ水やりをしている。
サヤ姉はああやって待っているのだ。
俺が帰ってきたら、すぐに気付けるように。
迎えられるように。
無言で取手に手をかけた。
扉を開けば、サヤ姉に会える。会えるんだ。
それなのに、手が止まった。
記憶がフラッシュバックした。
今日は………釣り堀に行く日だ。
「どうしたの? ユーシ?
…………………………泣いてるの?」
戻りたい。あの頃に。
でも………
「……追憶の魔導書は使用者の記憶とそれに結びついた感情を抽出・選別し、最も幸福な記憶だけをつなぎ合わせる。
出来上がった世界はツギハギの違和感に満ちたものになるけど、それがどうでもよくなるくらい幸せだった頃を追体験できるんだ」
ナナタは不思議そうに、メルヴィーは黙って話を聞いていた。
「でも、どこまで行っても記憶だ。
繰り返すうちに同じ光景を何度も……何度も…………体験する。
そのうちに気付くんだ。
色あせてる、って。
体験すればするほど、それに馴れて、感情が擦れて消えていく。
当たり前の日常を求めたけど、当たり前の日常じゃ心は動かないんだ。
どこかで少し変わってないといけない。
前に……進んでないといけない。
それが……追憶の魔導書には欠けている。
でも、記憶の捏造だけはしたくなかった。
それは……過去を汚す行為だから」
あそこで笑っているサヤ姉の表情に既視感を覚えたのはいつだ?
飽きていると自覚したのは?
輝いていたはずの過去が下らない物に見えたのは………いつからだ?
「どうしたらいい? どうしたら……俺は前に進める?」
俺の問いにメルヴィーは、
「進んでるよ。ユーシはね」
と答えた。
「ユーシはサヤさんのために魔王になって、それを辞めてアルヴァートに来て、時の魔導書を持つ最古の勇者にも勝った。
ユーシは必死に進んでるよ。
でも、サヤさんは死んでるから。
ユーシの追いかけてるサヤさんはもういないんだよ。
だから、ユーシは今、迷ってる」
「俺はもう前には進めないってことか……?」
メルヴィーは首を横に振った。
「進んでるよ。今も。
でも、ユーシは乗り越えないといけないの。
サヤさんの死を」
「わかってる。サヤ姉が死んでるのは」
「わかってないよ。だって、ユーシは今も思ってるでしょ。
サヤさんの死体が見つかれば、生き返らせることができるって。
そう思うから諦められないんでしょ?」
それは確かにそうだ。
でも、それはただの事実なんだ。
ひっくり返しようのない事実で、諦めきれない希望だ。
いつまでも残って消えてくれない。
それを自分から捨てるなんて。
「でも、サヤさんの死体は見つからなかった。でしょ?
だったら……………………諦めるしかないんじゃない?」
諭すような響き。
それは、ナナタの『なにをやめるんですか!!』と同じものだ。
サヤ姉はもう蘇ることはない、と。
それを受け入れろと言っている。
俺もわかってるんだ。
過去のナナタに向かって俺が言おうとしたこと。
『追憶の魔導書の使用をやめる』
伸ばした手が届かなかった。
だから、変わりに手に取った妥協案。
けど、やはり妥協にしかならなくて、心のどこかで違うと叫んでいた。
違うのはわかってる……!!
でも!!
「これが唯一の繋がりなんだよ!!
サヤ姉を感じられる唯一の!!」
「捨てなくていいんだよ? 欲張っていいの。
過去も現在も、サヤさんの復活も。
全部に手を伸ばして、届きそうなら掴もうよ。
その為にも、ここにいたらいけないと思う」
メルヴィーは優しく、このぬるま湯を否定する。
「……厳しいな」
夢に浸かって、溺れ死んでしまいたい。
それなのに、メルヴィーは地に足を付けて、しっかり手を伸ばせと。
もう一度、いや、何度でも伸ばせと言うのだ。
「もちろん、強制するつもりはないよ?
ユーシが良いと思った道を選んでね」
ずるいなぁ、本当に。
俺がそっちに行きたいのもわかってる。
でも、ずっとサヤ姉といたい気持ちも理解してくれてる。
「サヤ姉はな? いつも笑顔だったんだよ。
俺にだけは笑ってくれてた。
『頑張ってるね!!』『よくできました!!』って。
俺の記憶にあるのは笑顔だけ。
だから、今のサヤ姉には別れの言葉も言えないんだよ。
きっと見覚えのある笑顔で返してくれるから。
だから、絶対に言えない」
涙が頬をつたって落ちていく。
……サヤ姉、約束破ってごめん。
両手のひらをかざすと、薄っすらと本の輪郭が現れる。
「……ユーシ!!」
ナナタが声を上げた。
メルヴィーも何か言いたげに頷く。
本はずっしりとした質量を持ち始め、開かれた状態で出現する。
現れたのは追憶の魔導書。
俺は躊躇しながらも、そっと。
追憶の魔導書を閉じた。